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1−2

 終業の鐘と共に目を覚ましたミハルは、老教師が授業を締めくくる言葉を口にするよりも早く大講堂を出た。ユージンに見つかれば、次の授業もちゃんと出ろだの何だのとうるさいのだ。木曜の二限目は地理だったか年代学だったか……まあ、どんな授業であろうとミハルとっては無意味に等しいことだ。


 だからミハルは、朝通った通学路を逆順に辿って(ハウス)に帰った。


 自分の部屋に戻る前に食堂に寄って、温かい紅茶を課外学習用の水筒へ。それから、本来学生が触ることの許されていない食品棚を漁り、めぼしいものを幾つか失敬する。

 ミハルのこういった傍若無人な振る舞いに対し、入学当初は寮監督教師(ハウスマスター)もあれこれと口うるさく言ってきたものだが、最上級生となった今ではもう、ミハルのことはすっかり諦めている。


 そんな寮監督教師の無関心こそが、ミハルの悪巧みの一番の助けとなった。


 失敬したものを白いハンカチに包み、水筒とともに抱えると、ミハルは自室のある二階に上がる。入学してすぐに放りこまれた部屋は四人部屋だったが、進級するごとに何度か部屋替えが行われ、最上級生になった今では一人部屋が与えられている。


「――あ! おかえりなさい、ミハル!」

 自室のドアを押し開けると、部屋の中から鈴の音のような声が響く。


 備え付けの簡素な家具が配置された部屋には、暇つぶし用に図書館から借りてきた鳥の図鑑や、部屋の主であるミハル自身でさえ得体のしれないガラクタが、そこかしこに散乱していた。窓に掛かったカーテンは閉じられたままで、そこをすり抜けた金色の光だけが室内を淡く照らしている。


 声の主である少女の姿は、そんな部屋のベッドの上にあった。


 年頃は、おそらくミハルとそう変わらないだろう。ミハルとは少し色味の違う長い金髪に、抜けるような白い肌。この世の悪事など何も知らないような翠色の無垢な瞳。無防備にぺたりと足を折って座り、よくなついた小鳥のようにミハルを見上げている。


 そして、そんな彼女の背中には、一対の翼が生えていた。

 背中側を大きく開かせたワンピースから覗く、独特の模様が刻まれた機械仕掛けの銀色の翼。


 この世界では、彼女のような姿をした者を、「天使」と呼んだ。

 ……ただしその、天使の最たる象徴である機械の翼は、右翼が大きくひしゃげて動かなくなってしまっている。


 空から墜落した衝撃で折れた片翼を持つこの少女こそが、昨日ミハルが拾った「いいもの」だった。


「ただいま、アンジェリカ。いい子にしてた?」


 ミハルは初めて彼女に出会った時と同じように、甘く優しい声でアンジェリカに問う。

 問われたアンジェリカはわざとらしくツンと済まし顔を作って答えた。


「もちろん。あなたに言われたとおり、部屋の外には一歩も出なかったし、大きな物音も立てなかった」

「えらいね。それじゃあこれはご褒美だ」


 アンジェリカと呼ばれたその少女の目の前で手に持ったハンカチを開いてみせると、中からビスケットや砂糖菓子がこぼれ出す。途端に彼女は「わあ!」と声を上げ、子供のように翠色の瞳を輝かせた。そのまま彼女に包みを渡し、今度は水筒の紅茶を注いでやる。

 アンジェリカがビスケットを一口齧って言った。


「でも、どうして部屋から出てはいけないの? ここは学校で、あなた以外の学生もいるんでしょう? わたし、人間界の人たちがどんな生活をしているのかちゃんと見てみたい」

「アンジェリカは、この世界のこと、興味あるの?」

「ええ。だって、この世界と、わたしたちの住んでいる『天国』は、少し違う生活をしているように思えるわ。……ひょっとしたら、あなたたちは天国よりもよほど素敵な暮らしをしていて、たとえ天国に帰るための方法が見つからなくたって、わたしはこの世界での暮らしに満足できてしまうかもしれない」


 そう言ってくすくす笑うアンジェリカの声を聞きながら、ミハルは紅茶を汲んだカップをベッドのサイドボードに置いた。

 それから、内心のいらだちが声に出ないように精一杯注意しながら言う。


「……僕が君をこうやって部屋に匿うのは、君のその姿を見たら、きっとみんなびっくりするからなんだ」


 アンジェリカがきょとんと一度瞬きをする。拍子に背中の翼がかしゃん、と鳴った。


「君たちの世界とは違って、この世界の人たちは、少し狭量だからね」

「そう、なの……」


 途端に表情を曇らせるアンジェリカ。

 そんな彼女に、ミハルはわざとらしいほどに柔らかい笑みを作って見せた。


「けれど、僕はいつか必ず、君のことをみんなに紹介したいと思っている。そりゃ、今すぐというわけにはいかないけど……でも、いつか必ず。だから、時が満ちるまでは、僕とこの部屋にいて、一緒に天国に戻るための方法を探していよう」


「本当!?」

 アンジェリカがころりと表情を変える。

「嬉しい! わかった。わたし、待ってる!」


 言って、アンジェリカが無邪気に笑った。ミハルは彼女と笑顔を交わしながら、口の中だけでつぶやく。

「……そう、時が満ちるまで、ね」


 ふと。


 アンジェリカの脇に置かれた「箱」が視界に入ったのは、ちょうどその時だった。

 アンジェリカもミハルの視線に気づいたようで、「箱」を手に取り掲げて見せる。


「ごめんなさい。少し気になったから、勝手に修理させてもらったの。ダメだった?」


 アンジェリカが手にするのは、この部屋に散乱していたガラクタの一つだ。一抱えほどの台形の「箱」に覗き穴が空き、穴には虫眼鏡のレンズのようなものが取り付けられている。


 こういった用途の知れないガラクタが、この世界にはよく落ちてくる。この学校は塔のそばにあり、「天国」の通り道になっているからなおさらだ。その上、ミハルは中庭を昼寝場所として愛用しているので、こういうものを誰よりも先に見つけてしまう。


 だからミハルは、こういうガラクタを拾い集めてきては、暇つぶしにいじって遊んでいた。

 ただ、ユージンや他の寮生たちは、ミハルのこういう行為をよく思っていないようだし、そもそもそのガラクタも、落下の衝撃で壊れてしまっているものがほとんどだった。


 だから正直なところ、ミハル自身もその辺に転がしておくことしかできなかったのだが……


「へえ。すごいな、君たちはこういうこともできるんだね」

「ええ、『天国』ではわたしも学校に通っていて、小さい頃からずっと、こういう勉強をしているの。……この翼だって、部品があれば自分で直すことができるのだけど、この世界では難しそうね」

「ふうん」


 素直に関心をしながら、手渡された「箱」をぐるぐると回してみる。

 それからアンジェリカに尋ねた。


「ねえ、これってどうやって使うものなの?」

「わからないの? じゃあ、わたしが教えてあげる」


 少し得意になった様子でアンジェリカが立ち上がる。ミハルの側に寄って来て手を取り、解説を始めた。


「えっとね、これをこう持ったまま、向こう側に立って。あっ、カーテンは開けたほうがいいかも」


 そう言って、アンジェリカは「箱」を抱えたミハルをベッドとは反対側の壁際に追いやり、自分はベッドを降りて窓に駆け寄る。

 アンジェリカが走ると、その動作に合わせてひしゃげた金属の右翼ががしゃがしゃと鳴った。身体の怪我と違って、どうやら痛みはないようだ。


 カーテンを開け、またがしゃがしゃと翼を鳴らしてベッドに戻ってきたアンジェリカは、今度はベッドに足を下ろして座り、アンティークドールのようにすまして見せる。

 すまし顔のまま器用に解説を続けた。


「そう、そうしたら覗き穴をのぞきこんでみて。――そこから、わたしが見える? そう、じゃあそのままシャッターを押してみて」

「シャッター?」

「右手の人差指のところに出っ張りがあるでしょ? それを押し込んでみて。――はい、チーズ」


 ミハルは利き手ではない方の手で行う初めての動作に少し手こずりながら、アンジェリカに言われたとおりにその「シャッター」を押す。


 瞬間。


「わっ!?」

 稲妻のような閃光が、ミハルの抱えた「箱」から放たれた。

 反射的に「箱」を取り落としかけ、すんでのところで構え直す。


 閃光が去った後、小さく唸り声を上げ始めた「箱」をおっかなびっくり掲げていると、ややあって台形の下方から手のひら大の紙片が吐き出された。

 白い紙に黒い四角の塗りつぶしがあり、その表面は妙に光沢している。


「見てて」

 歩み寄ってきたアンジェリカがそれを拾い上げ、ミハルに黒い四角の部分を指し示す。

 彼女の手の中で起こった変化に、ミハルは目を見張った。


「……へえ」


 ついさっきまでただの塗りつぶしだった黒い部分に、鮮やかな色彩が生まれていく。

 黒が薄れ、その代わりに浮かび上がるさまざまな色。

 それはやがて、ベッドに腰を掛けてすまし顔をするアンジェリカの像を結んだ。


 まるで、精巧な筆致で描かれた絵画のようだった。

 窓から差し込む淡い光が彼女の金の髪や白い肌に反射して、彼女自身が発光しているみたいに見える。

 かつてはこの世界にも存在したという宗教画というのは、きっとこういうものだったのだろう。


「うん、初めてなのによく撮れてるね」

 絵画のようなそれを見て、アンジェリカが満足気に微笑む。


「これはね、カメラっていうの。今この瞬間の光景を、『写真』として未来に残すための機械」

「へえ……なるほど……」

「あ、でも……」


 まじまじと『写真』を見下ろすミハルの隣で、カメラをちらりと見たアンジェリカが何かに気づいたように声を上げた。


「フィルムがあと一枚しかないみたい。――ねえ、ミハル。せっかくだから最後の一枚は、あなたの本当に大事なものや、忘れたくない瞬間を撮るといいわ」

「……大事なものや、忘れたくない瞬間?」

「そう。カメラっていうのは、本来そのための機械だから」


 ベッドに腰を掛けたミハルは、そう言って微笑むアンジェリカから視線を外してその「写真」を見つめる。


 本当に大事なものや、忘れたくない瞬間。

(……そんなもの、僕の人生にこれから先、現れるんだろうか?)


「まあ、考えておくよ」

 心にもないことを台詞のように読み上げてから、ミハルはサイドボードに「写真」を放る。

 人懐っこくミハルの隣にやってきたアンジェリカが、ベッドの端から下ろした足をぶらぶらさせながら言った。


「けど、これってずいぶん旧式のものよ? 人間界では、こういうものもまだ使われていないのね。この世界の人達がどうやって暮らしているのか、やっぱりわたし、気になるわ」


 そんなアンジェリカに、ミハルは今日何度目かの作り笑いを向ける。

「……それはね」

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