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朝。
敷地内の七つの学生寮から校舎に続く通学路は、黒い影のような学生たちの行列でごった返していた。
彼らはみな黒の髪を丁寧になでつけ、独特な裾の長い黒衣の制服を翻している。黒衣の中に着たベストも、首元に結んだタイも黒なら、太陽の元、学校の推奨するスポーツに励んだ肌も浅黒い。
その黒づくめの姿こそが、この世界で紳士として求められる姿であった、そして、この長い歴史を持つ名門寄宿学校の学生としてふさわしい姿でもある。
だが、そんな学生たちの黒い行列の中に、一人、違う色彩を持つ青年が紛れ込んでくる。
その青年は、通学路に溢れかえる黒づくめの学生たちとは正反対の姿をしていた。
裾の長い黒衣の制服はかろうじて他の学生と同じものだ。だが、太陽の下での肉体の鍛錬を嫌う白い肌と、朝日を跳ね返して光る明るい色の金髪は、この学校の中ではひどく目立つ。
手足ばかりが長い長身痩躯の体つきで、年の頃は十七から十八歳――この学校では最高学年に当たる年頃だ。
黒衣に黒髪の学生たちは、「異質」な彼の姿に気づくと、誰もが彼を遠巻きにした。
伝統を重んじるこの学校で、周りと異なる姿を取る青年は孤立している。口々に囁かれる侮蔑と嘲りの声。
道を埋め尽くさんばかりに広がっていた学生たちの行列がいつの間にか割れて、通学路の真ん中に不自然な道が出来上がる。
その光景に、青年は皮肉っぽく唇を歪めた。
「なんだよ、これじゃあ僕はさながら、海を割ったという聖職者じゃないか!」
青年が大げさに声を上げるが、学生たちはくすりともせずその場を足早に立ち去ろうとする。青年は一人肩をすくめると、わざとらしいほどに胸を張って、鼻歌でも歌わんばかりにその道を闊歩し始めた。
「――ミハル」
だが、そんな中でただ一人、青年――ミハルを呼び止める者がいる。
振り返ればそこには案の定、ミハルのよく知る顔があった。
「やあ、ユージン。なんだか君の顔を見るの、ずいぶん久しぶりのような気がするよ」
「そりゃ、お前が滅多に授業に出てこないからな、顔を合わせることだって滅多にないだろう」
ユージンと呼ばれた彼は、他の学生たちとよく似た黒づくめの姿の青年だった。
黒衣の制服に、学校が推奨するスポーツに打ち込んで日に焼けた浅黒い肌。針金のような黒髪を短くして額を見せている。とにかく全身が黒づくめで、それ以外の色彩は、彼が最高学年の成績優秀者の中から選ばれた監督生であることを示すグレーのチョッキと、晴れた空の色によく似た蒼い瞳にしか見られない。
「お前をこの時間に見かけるのは珍しいな。どうだ、ようやく真面目に授業に出てくる気になったか?」
「ああ、今日は天気が良いからね。中庭でぼんやりするには持って来いだ」
ミハルが大真面目な顔をしてそう言うと、対称的にユージンは苦虫を噛み潰したような顔になる。二人の決して和気藹々とは言えないやりとりに、ユージンの背後に控えている小柄な少年がさっと青ざめるのが見えた。――監督生のユージンに付き従って礼儀を学んでいる当番生だ。
それに気づいて、ユージンが少年を振り返る。
「……ジョー、俺はミハルと少し話がしたいんだ。お前は先に授業に行っていい。昼休みにまた顔を見せてくれ」
「は、はいっ!」
年長者らしく諭すような口調でユージンがそう言うと、今年この学校に入学したばかりの十三歳の一年生はほっと胸をなでおろし、校舎の方へと走っていく。
その背中を見送ってから、ユージンは再びミハルに向き直った。
「ところでミハル、お前が昨日欠席した午後の算術の授業なんだが」
「……あー、算術だったかー」
「何だ?」
「いや、こっちの話」
へらへらと笑ってみせるミハルに、ユージンはまた苦い顔をする。けれど、始業の時間が近づいているせいか、すぐにかぶりを振って気を取り直した。
「……まあいい。ともかくだ。その算術の授業のことだが、マクスウェル先生の温情で、来週の授業までに二十枚のレポートを提出すれば、昨日の分も含めて、今までの欠席には目をつぶってくれるらしい。お前にそう伝えておけと、言付けを預かった」
「はあ、あの先生は甘いね。それとも、不真面目で不出来な学生に留年されて、もう一年余計に付き合わなければいけなくなるのが嫌なだけかな?」
「……お前はっ」
相変わらずへらへらと他人事のように笑うミハルに、ユージンはとうとう堪えかねたように舌打ちをした。
彼は怖いほどに真面目な顔をして、ミハルへまっすぐに向きあう。
「お前、ちゃんと学校を卒業する気はあるんだろうな? 進路のことはどうするんだ? お前の父上はお前が士官学校に進むことを望んでいるだろうが、お前自身はどう考えている?」
「さあね?」
ミハルがわざとらしく首を傾げると、頬に掛かる金髪が流れてピアスをいくつも開けた耳が覗く。紳士にそぐわないそのアクセサリーは、れっきとした校則違反だ。
ユージンが聞き分けのない子供を叱るように怒鳴る。
「さあね、って、自分のことだろ!?」
「……ああ、そうだよ」
「っ!?」
その瞬間、ミハルは彼の胸ぐらを掴んだ。やせぎすのミハルに対し、ユージンはきちんと筋肉の付いた男らしい身体をしているが、身長だけはわずかにミハルのほうが高い。
抵抗しない彼を乱暴に引き寄せると、やや上の位置から挑発するみたいに顔を近づける。
鼻先が触れ合わんばかりの位置から、噛んで含めるように言ってやった。
「そのとおりだよ、ユージン。君の言うとおりだ。僕が学校をちゃんと卒業できるかわからないことも、たとえ卒業できたところで今のままでは行き先がないことも、全部僕の事情だ。だから、君にはまったく関係ない。放っておいてくれ」
「そういうわけにはいかない!」
けれども、ユージンは強い口調でそれを拒絶した。蒼い瞳でこちらを睨む。
「……俺にはお前に対して、果たすべき責務がある」
低く切実な声音で、彼はいつもの口上を述べた。
それは、二人が共にこの学校に入学した時から六年間、彼が何度も口にしてきた言葉だ。
「……ふん」
なんだか興ざめして、ミハルはユージンを解放してやる。
同時に、校舎の方から始業五分前の鐘が聞こえてきた。
少し乱れた彼の襟元を小突いてミハルは言う。
「ほら、鐘が鳴ったよ。早く行かないと、君の特等席が誰かに取られてしまう」
「お前だって同じ授業だろ」
「そうだね、木曜の午前の授業は……今度こそ歴史学だっけ。今日のところは君の顔を立てて、ウァサゴ爺さんの長ったらしい昔話を聞いていくことにするよ……教科書も何も持ってないけど」
手ぶらの両手を掲げてみせるミハルに、「後でノート写させてやる」ユージンはそう言って背中を向けた。授業開始の時間が迫って、何人かの学生たちが駆け足で二人の脇を通り抜けていく。
「……そうだ、ユージン」
彼らと同じ方向に去っていこうとする背中に、ミハルは思い出したように告げた。
「僕ね、昨日、すごくいいものを拾ったんだ。いつか君にも見せてあげるよ。どうか楽しみにしていてくれ」
「……どうせいつもの空から降ってきたガラクタだろう?」
首だけで振り返って、ユージンがまた苦い顔をする。
「そうかもしれないね」
ミハルは肩をすくめ、三日月形に口元を歪めて見せた。ユージンはそんなミハルに曖昧な顔をすると、今度こそ前に向き直り、校舎の方へと足早に消えていく。
そして、通学路から学生たちの姿が消え、授業開始の本鈴が鳴り響く中で、ミハルはひとりほくそ笑んだ。
「……けれど、きっと驚くよ。みんなも……君もね」
歴史学の授業は、校内で一番大きな教室である大講堂で行われる。
始業の鐘から少し遅れてミハルが講堂にたどり着くと、すでに授業は始まっていた。遅れて現れたミハルに、学生のものより少し格式張った形の黒衣を着て教壇で教科書を読み上げていた年配の教師がこちらをちらりと見るがそれだけだ。
授業を受ける席は学生が自由に選んで良いことにされていて、教室の前方、優等生グループが固まって座っているあたりの席にユージンの背中を見つけた。
だが、優等生とは程遠い立場のミハルが座るのは、教師に目をつけられずに済む最後列の席だ。
そこから聞く老教師の声は、まるで異国の子守唄のように聞こえる。
この大講堂は、かつては礼拝堂だった建物を教室に改装した場所だ。
この学校の建物自体が戦前からある歴史の古いもので、塔にごく近い立地上、戦時中は軍の施設として供出させられていたらしい。
そのせいか、かつては宗教に関連するモチーフが描かれていただろう教壇後ろの大きなステンドグラスも、今では無機質なモザイク模様に嵌め変えられている。
そんな場所で老教師が語るのは、何十年にも渡って続き、ほんの五十年前に休戦となったばかりの長い戦争の話。
長らく受け継がれてきた伝統的な社会を守るべく、卑劣な反逆者たちと戦い、この世界の秩序を守ろうとした戦士たちの英雄譚だ。
けれどそんなの、僕にはこれっぽっちも関係のない話だ。
だから、ミハルは生あくびを噛み殺すと、子守唄に導かれるまま意識を手放した。