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5−3

「準備はいい? ――いくよ!」


 アンジェリカを胸に抱き寄せると、ミハルは両の翼を羽ばたかせ、空に身を躍らせた。


 生まれて初めて味わう、独特の浮遊感。それは長らく自分を縛り付けて来た重力から解き放たれる、ミハルがずっと待ち望み続けてきた瞬間だ。


 けれど、空を飛ぶということは、決して容易いことではなかった。悔しいがトールの言うとおり、飛ぶという行為には生まれ持っての感覚みたいなものが必要らしい。まっすぐ上に飛ぶことさえおぼつかなく、自分の意図とは異なる急上昇や急降下を繰り返すばかりだ。


 しかも、魔法陣が不完全なせいか、それとももともと負担が大きい魔法のせいか、魔力の消耗が著しく、いくら魔法陣で増幅させようと追いつかない。過負荷を与えられた魔法陣がところどころでショートし、稲妻のような閃光とともに黒い肌が崩壊していく。肌に直接魔法陣を書きつけた代償に、後にはやけどのような鋭い痛みが残った。


 結局、僕は鳥になんかなれないのだ。


 それはきっと、誰だって同じなのだと思う。勝利の余韻に酔い、偽物の翼をつけて「天使」と名乗ってみようと、自らの敗北を認めず、誇りを守るために「悪魔」を名乗ってみようと、僕らは所詮、ただの人間でしかない。


 それでも僕には、守りたいものがあった。


 だからミハルは飛んだ。繰り返す急上昇と急降下に、胃の腑がひっくりがえるような嫌悪感を覚えても、翼の動かし方を誤って危うく壁に衝突しかけても、がむしゃらになって飛んだ。魔法陣はその浮力の対価としてミハルの身体から魔力を根こそぎ吸い上げ、それでも足りない分は体力や気力、果てには魂までをも削りとって魔力に変換しようとする。両の翼を羽ばたかせれば羽ばたかせるほど、目の前は眩み、何度も意識を手放しかけた。


 それでも何とか命からがら、ミハルたちは外のバルコニーに続く、数段だけ残ったステップの縁にたどり着いた。魔法陣を発動させ続けることはもうできず、腕の中のアンジェリカを放して壁面を背に崩れ落ちた瞬間、ミハルに張り付いていた黒い悪魔の肌は、ささやかな名残だけを残して本来の白い肌に戻る。


 空を回遊する機械の大陸――「天国」が、塔をかすめるように近づいてきたのは、ちょうどその時だった。


 バルコニーに続く、石で組まれたアーチ状の出口の向こう。

 真昼の陽光を浴びて、強風とともに肉薄する「天国」。


 かつて地上から人々を運びこんだ時の名残なのか、「天国」の横っ腹に開いた搬入口のようなゲートと、そこから伸びる短い架橋が、ちょうど塔のバルコニーから「天国」に乗り込めるように接岸する。

 けれど大陸自体の動きが止まることはなく、塔から「天国」に乗り込むチャンスはおそらく一分もない。


 それでも、身体に宿る力すべてを使い切ったミハルは、歩くことはおろか、立ち上がることさえできなかった。


 先に立ち上がったアンジェリカが、迫り来る天国と、壁面にもたれかかってぐったりとしたミハルを交互に見やる。


「……アンジェリカ、行け」

 ミハルはそんな彼女に、最後の力を振り絞るようにして言った。


「でもっ……!」

 ミハルのそばに膝をついたアンジェリカが、泣き出しそうな顔をする。

 ミハルは言い含めるように彼女に告げた。


「『天国』は一日周期で同じ航路を巡る。これを逃せば、明日まで『天国』に渡ることはかなわなくなるんだ。そうでなくても、もうすぐ下から兄さんたちがやってくる。魔術体化の魔法を使えば、あいつらだっていくらかは飛べるだろう。彼らに捕まれば、君も僕も殺されてしまう。

 でも、僕なら大丈夫だ。ユージンと約束したから、あんな奴らに負けやしない。だから、アンジェリカ。君だけでもいい。君は、君の世界に帰るんだ」


 とんでもない大嘘をつきながら、ミハルはなけなしの力で笑って見せる。


「……さようなら、僕の天使」

「さよならじゃない!」


 そのミハルに、アンジェリカがすがった。もうほとんど力の入らないミハルの手を強く握りしめながら、彼女はミハルの顔を覗き込んだ。


「わたしね、研究施設に入るの、やめる。そうすればきっと、推薦枠は次点のあの子に移るはずだから。

 ……でもね、譲るわけじゃないの。わたしには、新しい夢ができたから」

「ゆめ?」


 か細い声で尋ねるミハルに、アンジェリカが頷く。


「あのね、天国には、地獄と直接交渉ごとをする官庁があるの。そこに勤めるには上の学校に進んで、たくさんの知識を身につけなければいけないのだけど、でもその割には批判や嫌がらせを多く受ける仕事で、先生や親たちは子供たちをその仕事には就かせたがらない。悪魔と直接関わる役職だから、どうしてもね」


 自嘲するようなアンジェリカの声。それから彼女は何かを振り払うようにかぶりを振り、顔を上げる。


「でもね、わたしはその仕事に就く。そこでわたしは魔法と機械のどちらが優れているかではなくて、どちらのいいところも尊重していけるように地獄の人たちと交渉をするの。――そしていつの日か、天国と地獄の戦争を武力ではなく言葉で真に終わらせて、二つの国の人が二つの国を自由に行き来できるように尽力する。

 それが、わたしの新しい夢」


 そう言って、アンジェリカは涙の浮いた翠の目で笑った。


「そうやってわたしはまた、あなたに会いに来る。だから、さよならじゃない。ねえ、ミハル、約束よ?」


 アンジェリカは自分の小指を人間の形に戻ったミハルの小指に強引に絡めて、短く指切りをする。


「ね?」

 アンジェリカが答えを求めるように小首を傾げた。


「…………」

 夢物語だとは、ちゃんとわかっていた。

 でも、その瞬間だけは、本当にもう一度、アンジェリカに会える日が来るような気がしたんだ。


「……うん。約束だ、アンジェリカ」


 だからミハルは、かすれた声でそう答えた。

 アンジェリカはそんなミハルにもう一度笑いかけてから、頬に小鳥のついばみのようなキスをする。


「またね」


 最後に短くそう言って、アンジェリカは短いステップを駆け上がった。

 バルコニーから架橋に渡り、ゲートの中に飛び込む。


 流れるように去っていく「天国」の影とともに、アンジェリカの姿はすぐに見えなくなった。


「……さようなら、アンジェリカ」


 後に残ったのは途方も無い現実と、両の翼も消え失せてとうとう無力になったミハルの身体だけだ。


(さて、僕はどうしようか)

 天国に逃げ込む算段は、もはやかなわなくなってしまった。明日のこの時間まで、天国はここに巡ってこない。おそらくそれよりも先に、下からの追手がやってくることだろう。


 使い切ってしまった魔力は気力や体力みたいなもので、適切な休養や食事を取ればまた身体に満ちてくるが、それだって自分の力では魔法陣一つ書けやしない劣等生のミハルにとっては無意味に等しいことだ。


 ましてやこの細腕だけであの屈強な軍人たちに抵抗しようなんて、考えもしない。


(……ああ、そうか)

 つまり、ミハルはもう、どうしようもないのだ。

 ミハルに待つ運命は、ただ一つ――


「――って、わっ!?」


 がくん、と。


 目の前の視界が大きくぶれたのは、ちょうどその瞬間だった。

 立ちくらみのような一瞬の浮遊感の後、あの胃の腑がひっくりがえるような嫌悪感がまた蘇る。


 落ちる――!


 自分の体が落下していると気づいたのは、逆さまになった視界の中、少し先を落っこちていくステップの残骸を見つけた時だった。


 この塔は先の戦争が休戦になってから五十年、なんの手入れもされず放置されてきたものなのだ。建物自体がもろくなっていて、いつどこか崩れてしまおうとも何の不思議もない。


 とっさに身体の魔法陣を発動させてみるものの、尽きた魔力とぼろぼろの魔法陣は何の奇跡も起こしてくれない。空と呼べるようなこの高さから落ちれば、ミハルの生身の身体はひとたまりもないだろう。

 だが、落下のスピードは留まることなく、「悪魔」として信仰さえ打ち捨てた「地獄」で育ったミハルには縋る神もない。


 その先に待つのは――死。

 ミハルは自らの逃れられない運命を改めて噛み締めた。


(ごめんな、ユージン、アンジェリカ。約束、守れそうにない)


 もう二度と会えない二人のことを思うと、胸が張り裂けそうな気持ちになる。


 けれど、彼らはきっと、ミハルの死を惜しんでくれるだろう。

 これまで誰にも顧みられることなく生きてきたミハルには、そのことが少しだけ嬉しかった。

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