5−2
この寄宿学校には、トールと対峙したのと同じような地下道が敷地いっぱいに、幾重にも折り重なるようにして張り巡らされている。
これは先の戦争の末期に、劣勢になった悪魔側が地下道を掘って天使たちの陣営に奇襲を掛けた時の名残だ。天使たちはそんな悪魔たちの卑劣な作戦を揶揄して、「悪魔は地下に住む」と子供たちに言い伝えたのだろう。
そして、それらの通路のうち一本は、学校の敷地を抜け、校舎裏の小高い丘の上に立つ塔にまで繋がっていた。
かつて天使が空に上るために建造したその塔は、今ではこちら側の世界の軍の管轄下に置かれている。塔の扉は二つの世界の間に再び戦火が灯されるまで魔法陣によって固く封印され、その魔法陣を解呪する以外の方法で塔に進入するには、この通路を使うよりほかない。
地下通路の石畳の床を破り、その直下の通る通路に降りたミハルとアンジェリカは、同じことを何度か繰り返して塔に続く通路に出た。
「アンジェリカ、走って!」
「う、うん!」
ミハルは目をつぶったままのアンジェリカの手を引いて走りだす。追手の姿はまだ見えないが、兄がこのまま諦めてくれるとは到底思えなかった。ハルパス家の恥であるミハルを、そしてにっくき宿敵である天使のアンジェリカを、なんとしてでも殺しにやって来るだろう。
ゆるい上り坂になった通路を進んでいくと、その行き止まりの壁には鉄梯子が掛かっている。
それを登り切って、二人は塔の内部に出た。
煉瓦を積み上げて作られた塔は、天井が霞んで見えないほどの高さまで伸びており、その内壁に沿って長い長い螺旋階段が続いている。
塔は休戦となった五十年前からほとんど手付かずで放置されていて、内部はところどころが風化し、壁や床石がもろくなっている。靴底で床石を踏みつけるたびにぱらぱらと石が砕けるその階段を、ミハルはアンジェリカの手を引いて一段一段登っていく。
そうして、やがてたどり着いたこの世界の果てで、ミハルはそっとアンジェリカの手を離し、まっすぐに彼女と向き合った。
彼女はミハルの言いつけを守り、ここにたどり着くまで一度も目を開けなかった。今だって何も知らない無垢な天使の顔で、こちらを見上げるようにじっと目を閉じている。
「いいよ、目を開けて」
だからその言葉を口にするには、とてつもない勇気がいった。声が震えて、自分の声じゃないみたいだった。
花びらのような白いまぶたがゆっくりと開き、翠色の瞳が真実を捉える。
瞬間、彼女の口から飛び出したのが悲鳴ではなかったことは、ミハルにとってせめてもの救いだった。
「……あなたは本当に、悪魔だったのね」
真実を噛みしめるように、アンジェリカが言う。
「……そうだよ。今まで騙しててごめん」
そう答えるミハルは、悪魔の姿をしていた。
と言っても、トールのように完全な姿ではない。魔術体化の魔法は現代では軍事機密として扱われている。ユージンは戦時中に軍の施設として供出されていた学校の図書館に残る、古い資料をもとにその理論を推測したようだ。
だが、優等生の彼をしても、その複雑で難解な魔法陣を完璧に再現するには至らなかった。
だからミハルは、人間と悪魔の姿が入り混じった、いびつな姿をしていた。
黒い両の翼は揃っているが、角は右側にしか生えていない。黒衣の制服から覗く、黒檀のような黒い肌には、ところどころ元の肌の色が混じってまだら模様になっていた。
人相さえはっきりとしなくなってしまったその姿は、悪魔本来の姿よりもかえって醜悪に映ることだろう。
「見てごらん、アンジェリカ」
醜いなりそこないの悪魔が、片方だけの牙を覗かせて彼女に笑いかける。
ミハルの背景にあるのは、崩れ落ちた階段だった。
下から続いていた螺旋階段が突然打ち壊され、そこから先がぷっつりと途絶えている。もう塔のてっぺんに近い位置で、途切れた階段の先を見上げると、そこには何段かだけ取り残されたステップと、そこから外に繋がる出口が確認できる。
出口の先は小さなバルコニーのようになっていて、そこからは日に一度だけ、決まった航路を巡回してくる「天国」に乗り込むことができるようになっていた。
しかし、いまミハルたちがいる場所からバルコニーに至るまでは、建物の高さにして三階分ほどの虚空が存在する。
そこにたどり着くことは現状、空を飛びでもしないかぎり難しいだろう。
「ここが、地獄の最果てだ。かつて、空を目指すためにこの塔を建てた天使たちは、天国と名付けた機械じかけの大陸を空に放した時、地を這う悪魔たちがもう自分たちを追ってこられないよう、そこに至る道を打ち壊したんだ。
つまりこれは、天使と悪魔の対立の象徴――すなわち、君と僕の断絶の象徴だ」
言って、ミハルは大きく両手を広げた。
醜い自分の内側を、彼女にさらけ出すように。
「そう、僕は悪魔だ。この地獄に生を受け、古臭い伝統と、古い技術である魔法に囚われた社会の一員としてこれまでの人生を生きてきた。悪魔は君たち天使と敵対する、恐れ、憎むべき存在であり、現に僕は空から落ちてきた君を、自分の悪巧みのために利用しようとした悪党だ」
本当は、ひどい目に遭わせてやるつもりだった。
「……なのに僕は、君を助けたいと思ってしまった」
ミハルは嗚咽のような声で、絞り出すように言う。
「だって君は、僕の天使だから。……僕の本当の気持ちを、初めて理解してくれたから」
――あなたは彼のこと、本当は大好きなのね。
大嫌いだと思っていた。ユージンなんて。転がり込んできた幸運に舞い上がって、あっという間に物分りの良い大人に変わってしまった。かつて生き写しのようだったミハルと彼は、今では白と黒ほどに正反対のものだ。
憎かった。ミハル一人を置いて、同じ孤独を、同じ欠落を、自分ばかり克服していったところが。
大嫌いだった。大嫌いになろうとした。
そうやって、自分の心を守っていた。
本当はずっと、ミハルは彼のことを嫌いになんかなれずにいたのに。
だってユージンは、ミハルの初めての友達だったから。
ミハルのそんな偽りの心を、初めて見破ったのがアンジェリカだった。彼女は何も知らない無垢な天使の顔で、ミハルが自分でも気づかないふりをしていた本音を見破った。
そしてその孤独を、ぬくもりで癒やそうとした。
本当は、ひどい目に遭わせてやるつもりだったのに。
「もうすぐ下から追手がやって来るだろう。兄さんは必ず、僕らを殺そうとするはずだ。でも、僕は君が死んでしまうなんて嫌だ。君を兄さんなんかに殺させたくない。僕の命に変えてでも、僕は君を守りたい」
そう言ってミハルはアンジェリカに手を差し出す。幼いころに矯正を受けて利き手にした、悪魔が剣を持つとされる左手を反射的に出しかけ、慌てて引っ込めてから右手を出し直す。
その手は悪魔の肌の色である黒とミハル本来の肌の色である白が混じってまだら模様になっており、あまつさえいくつか鉤爪まで生えている。
「君がこの手を取ってくれれば、僕は君を助けることができる。……この翼は僕を苦しめた、『伝統』を重んじるこの世界が固執した魔法の翼。
けれど同時に、僕の大事な友達がくれた、自慢の翼だ」
ユージンがミハルに与えてくれた魔術体化の魔法陣は不完全だったが、背中から伸びる両の黒い翼は自分の意志で自由に動かすことができる。
この翼があれば、ミハルは飛べる。
きっと、空へ行ける。
「三つ目のお願いだ、アンジェリカ。どうかこの醜い悪魔の僕を、そんな僕に翼をくれた僕の友達を、今だけでもいい、信じてくれ……!」
「っ……!」
ミハルの言葉に、アンジェリカは一瞬躊躇った。彼女はミハルの中途半端な悪魔の顔を見て、それからまだらの手のひらを見る。
その顔には、確かに拭い切れない恐怖と嫌悪が浮かんでいた。
そのまま俯いてしまったアンジェリカ。
決して短くない沈黙の後、
「……あのね」
彼女はぽつりぽつりと話し始めた。
「わたしにも、大事な友達がいたの。天国ではわたしも学校に通っていて、小さい頃からずっと、次の戦争に備えて機械――兵器の開発の勉強をしていた。今でこそ天国と地獄の関係は小康状態を保っているけれど、二つの国の断絶はあまりにも深い。いずれまた必ず、戦争は起こる。天国の人はみんなそう考えていて、だから天国では子供たちにそういう勉強をさせているの。
……彼女はね、そんな学校でずっと一緒に勉強してきた親友で、ライバルだった」
「……ライバル?」
無垢な彼女には似合わぬその単語に、ミハルが瞬きをする。アンジェリカが小さく頷いた。
「そう、ライバル。わたしと彼女は、卒業後に国の研究施設に入るため、たった一枠の推薦枠を争っていたの。その研究所では、きたるべき日に愚かで憐れな悪魔たちを蹂躙すべく、最新鋭の兵器を研究していて、天国の学生たちは、誰しもがそこに所属することを目標とさせられた。彼女は小さい頃からよく勉強のできる優等生だったし、わたしは大人の言うことをなんでも鵜呑みにしてしまう優等生だったから、わたしたちは互いに励まし合い、切磋琢磨しながら必死に勉強を続けたわ。
……だけど、学校での成績でも、ペーパーテストの結果でも、二人揃って満点を取り続けたわたしたちの明暗を分けたのは、そういう努力の成果ではなかった」
そこで一度言葉を切り、アンジェリカはこれまでの彼女の印象にはそぐわない、自嘲的な調子で続けた。
「わたしは、この金の髪と白い肌で推薦枠を得た。この地獄で黒い髪が好ましいとされる理由と多分同じように、天国では伝承に残る天使の姿のような金の髪や白い肌が好まれるの。その選考理由を知った時、それまでのわたしの価値観が音を立てて崩れていくような気がした。わたしたち天使は、生まれ持ったもので人生が決めつけられてしまう世界がいやで空に自由を求めたはずなのに、結局、生まれ持ったものがこんな風に人生を左右するんじゃ、全然自由じゃないわ」
俯いたままの彼女が、少し笑った気がした。
ミハルは何も言えずに、ただ彼女の言葉に耳を傾ける。
「それが原因で、わたしたちにはわだかまりが生まれた。……でも、あれは本当に事故だったの。わたしと彼女がささいなことから揉み合いになったのがたまたま飛行訓練場で、運悪く足を踏み外したわたしの翼が、偶然吹いた突風で動作しなくなってしまった。
……そう、事故だった。事故だったの!」
意識して平坦にした彼女の声は、徐々に抑揚が強くなり、
「――でも、怖いの……!」
とうとう堪えきれなくなってしまったかのように呻いた。
「もしあれが、事故じゃなかったとしたら……わたしが長年育んできた友情が、あんなくだらない試験の結果に壊されてしまったんだとしたら……それがずっと、怖かったの……!」
そう語るアンジェリカは、決して何も知らない無垢な天使ではなかった。
胸中をかき乱す激情に翻弄されるように自分の腕を抱く。
「……でも」
けれど、次に俯かせていた顔を上げた時、彼女の翠色の瞳には、確かに強い光が灯っていた。
「今、あなたが本当のことを話してくれて、その恐怖は少し消えた」
いつもの穏やかな声に戻ってそう言うと、彼女はミハルに笑いかけた。
「ねえ、ミハル。わたしたち、きっとまた仲良くなれるよね? 一度は仲を違えたあなたとユージンのように。――そして、かつて反目しあった天使と悪魔の末裔である、わたしとあなたのように。何度でも、何度だって」
そう言って、アンジェリカはそっとミハルの手に自分の手のひらを重ねた。自分自身もう何色をしているかわからないミハルの瞳を、まっすぐに覗き込んでくる。
「ね?」
「……ああ、きっとそうだ。だから、連れて行くよ、アンジェリカ。君を、空へ」
かつての泣き虫だった自分を今だけは押し殺しながらミハルが笑い返すと、アンジェリカもまた嬉しそうに笑う。
「うん、ミハル。信じてる」
ミハルはその白く華奢な指を、自らの変形した鋭い爪で傷つけないように気をつけながら、ぎゅっと固く握りしめた。