4−2
*
「ミハル、どうしたのその顔! 痛くないの? 大丈夫? それに、どうしてここへ? あと、さっきの人たちのこと、どうやって……?」
ギャア――と、石造りの牢屋に響く悲鳴を最後に意識を失った三人の軍人を石畳に転がすと、ミハルは質問攻めのアンジェリカの手を引いて鉄格子の外の通路へ出た。
この牢屋は、戦時中にこの学校が軍の施設として使用されていた頃のなごりだった。通路には、アンジェリカが閉じこめられていたのと同じような、鉄格子で閉ざされた小部屋がいくつも並んでいる。石畳の床に、革靴を履いたミハルの乾いた靴音と、アンジェリカの背中の翼ががしゃがしゃと鳴る音が響く。
「……それに、昨日あなたが言ってたことは、本当に、本当のことなの? 嘘よね? だって、お父さんもお母さんも先生も、悪魔は地下に住むものだって言ってたもの!」
懇願にも聞こえるアンジェリカの声に、ミハルは咄嗟に何も言えなかった。
不自然な沈黙の後、絞りだすように言う。
「……アンジェリカ、三つだけお願いがあるんだ。どうか聞いて欲しい」
そして、不安そうにこちらを見上げる彼女の目は見ないまま、通路の突き当たり、牢屋の外の通路に繋がる金属製の扉を開いた。
「げっ」
その先の光景に、ミハルは思わず顔をしかめる。
そこに待ち構えていたのは、さっきの男たちと同じ風体の、黒衣の軍人たちだった。
しかも、その人数はさっきの倍の六人。祖父に倣って近接魔法を好む兄の部下らしく、彼らはみな、その手に魔法陣が刻まれた武器を持っている。
おそらく、騒ぎを聞きつけてやってきたのだろう。軍人というのは腹筋の分、声がでかいのだ。さっき軍人たちの悲鳴も、ミハルがここに忍びこむ時に出会った軍人たちも、すさまじい声量の断末魔を撒き散らしたものだ。
「……一つ目のお願いだ、アンジェリカ。――説明は、後から全部する。何一つ偽らずに、本当のことを話す。だから、今は少し黙っていてほしい」
言って、ミハルがアンジェリカを背中にかばうと、軍人たちが目で短く合図をし合う。
次の瞬間、軍人たちは鬨の声を上げてミハルに襲いかかった。魔法が発動するとき特有の淡い光が辺りを照らす。
そこにあるのは、明確な殺意だ。
「ああ、ちくしょう!」
怖気づく身体を奮い立たせるようにやけくそで叫ぶと、ミハルは白手袋を嵌めた左拳を闇雲に振り回した。
血染めの白手袋は、兄が昨日ミハルの部屋に捨てていった魔法陣つきのものだ。
この世界の魔法は、『選ばれしものだけが使える』天性の能力だ。その『選ばれしもの』の中にも生まれ持った魔力の多寡があり、それは往々にして家系に依存する。
そして幸か不幸か、ハルパス家は代々強い魔力を受け継ぐ一族だった。
「ぎゃ――ッ!」
だからこそ、ミハルが魔力を通わせた手袋の魔法陣は、彼らの武器が放つ光とは比べ物にならないようなまばゆい閃光を放つ。光の拳はやせぎすのミハルの筋力とは関係無しに、屈強な体つきの軍人たちを触れた順に跳ね飛ばしていった。
あるものは上手くみぞおちに入った拳にひっくりがえって悶絶し、あるものは体ごと石壁に打ち付けられて気を失う。
自分の血筋に感謝をしたのは、生まれて初めてのことだった。
それでも手の甲に残るのは、他人を虐げる快感ではなく、生ぬるい肉を圧し、木の枝のように骨を砕く不快感だけだ。
「……やっぱり僕には、軍人なんか向いてない」
胃の底からこみ上げてくる嫌悪を飲み下すと、ミハルはアンジェリカの手を引き、倒れこんで呻く軍人たちを踏み分けて通路を進んでいく。
牢屋の出口から続く一本道の通路も相変わらずの薄暗さで、軍人たちから奪ってきたランプの光がなければ数歩先さえほとんど何も見えない。このような地下道が、この学校には敷地いっぱいに張り巡らされている。
「……っ!?」
その足音に先に気づいたのはアンジェリカだった。
つられてミハルも顔を上げると、闇に陰った通路の向こうから、石畳を鳴らす軍靴の音と、淡いオレンジ色のランプの光が近づいてくるのがわかる。
咄嗟にどこかに逃げ込もうとするものの、一本道の通路ではそれも適わない。
そうこうしているうちに、その足音の主はミハルたちのすぐ目の前までやってきた。
「ほお、いやしくもハルパス家の血を引くだけあって、魔法陣を発動させることには苦労しないようだな、ミハル」
「……兄さん」
黒衣の軍服に、黒で塗り込めた髪、そして、その下のアンバーの瞳を剣呑に細めた男――トールは、一目で状況を把握したようだった。
自分が彼を敵に回す道を選んだことは、ちゃんとわかっていた。ミハルが行動を起こせば、必ず彼が現れることも。
それでも出来れば、顔を合わせずに済ませたい相手だった。
彼はミハルと、ミハルに手を引かれたアンジェリカの姿を見て叫んだ。
「だが、それは所詮、借り物の力だ。自らの研鑽を怠ったものは、この社会に与することも、そこから逸脱することも適わないと知れっ!」
そして彼は、特徴的な長い裾がはためく黒衣の軍服をおもむろに脱ぎ捨てた。筋肉質だが長身で、手足が長い分均整が取れた身体にぴったり張り付く肌着姿になる。
そしてその肌着には、全身に張り巡らすように巨大な魔法陣が書かれていた。
瞬間、鋭く発光するそれに、「きゃっ!?」アンジェリカが目を伏せた。ミハルは咄嗟に、その肩を抱き寄せる。
まばゆい閃光が去った後、二人の目に最初に映るのは、骨格に薄い皮膜が張り付いた、蝙蝠によく似た黒い翼。
「あ、くま……?」
アンジェリカがうわごとのように呟く。
そこに立つトールの姿は、伝承に言い伝えられる悪魔そのものの姿をしていた。
背中から伸びる一対の黒い翼。魔法陣の書かれていた肌着と同化した肌は、全身が黒檀のような黒色に変化している。三角の耳の付け根まで裂けた口元からは鋭い牙が覗き、額には山羊を思わせる角が生えていた。
トールは赤く変色した虹彩で、ミハルとアンジェリカを睥睨している。
「……魔術体化の魔術だ」
怯えきったアンジェリカを自分の後ろに押しやって、ミハルは呟く。
トールは血の色の瞳を意外そうに細めた。
「その通り。原理としては、その手袋と似たものだ」
ミハルの嵌めている手袋を睨んで、トールは余裕綽々に説明を始める。
「ただしこの魔術体化の魔術は、魔力を増幅させる魔法陣と平行して、身体自体を戦闘に特化した形に変化させるための魔法陣を走らせている。身体の表面積を利用し、複雑に張り巡らされた巨大な魔法陣に魔力を循環させれば、増幅された魔力が、硬く鎧われた身体に満ちていく」
言いながらトールは、その異形の身体の具合を確かめるかのようにぐるぐると左腕を回す。
そして、そのまま拳を石壁に叩きつけた。
ドォン、と。
短い閃光とともに爆発音にも似た大音声が轟き、石壁が放射状に砕ける。壁の向こうの土壁があらわになって、土煙がけぶった。
「それをいっぺんに放出してやれば、生身の身体の何倍もの力が発揮できる。かつての戦争では、多くの戦士たちがこの魔術を使って戦ったそうだ。しかし、大掛かりで魔力な消耗が激しい分、近年では主に軍隊内の研究でしか使用されていないはずだが……武勲で身を立てた一族の末裔として、お前も少しは知識を持っているらしいな」
トールはそこで一度言葉を切り、それから厳かに告げた。
「だがミハル、お前はここで天使と一緒に死んでもらうことにした」
そう言って彼が左腕を振るうと、魔力を孕んだ鋭いつむじ風が吹き、ミハルが嵌めていた手袋をずたずたに切り裂いてしまう。
寄宿学校での学生生活の大部分を劣等生として過ごしてきたミハルは、他人の書いた魔法陣を発動させることは出来ても、自分の力で魔法陣を書くことは出来ない。
つまりトールの行為は、ミハルが彼に抵抗する術をすべて奪ったのと同じだった。
ずたずたの手袋を投げ捨てて、ミハルが兄に問う。
「……どういう意味だ」
「父上が決めたんだ。昨日基地を出るときに連絡をして、今さっき返事が届いた。お前が今回の行いを反省して、今後の生き方を改めるようなら、引き続きハルパス家を繁栄させるための駒として使ってやる。だが、お前に反省の色がなく、あまつさえ天使の肩を持つような真似をするなら、お前に帰る場所はない、と。
つまりお前は、とうとう実の親にも見捨てられたんだよ。嗚呼、愚かで哀れな弟よ。お前は社会にも家族にも打ち捨てられ、誰にも愛されぬまま死ぬのだ!」
「……ひどい」
先に声を上げたのは、アンジェリカだった。
震える足で数歩前に歩み出ると、まるで我がごとのように目元を赤らめて叫ぶ。
「そんなのって、ひどい! あなたたちは家族なんでしょ? それなのに、あんまりよ!」
「ほう、自分を利用しようとした悪魔に同情するとは、天使という生き物はずいぶんおめでたい頭をしているようだ」
トールが牙を見せて嗜虐的に笑う。
ミハルはその声をかき消すように叫んだ。
「やめろ、やめてくれ、アンジェリカ! ――いいんだ! 悪いのは、いつだって僕なんだ!」
「いいえ、違う!」
ミハルが強い声音で彼女を呼ばわるが、アンジェリカは引かない。
彼女は湿り気を帯び始めた声で続けた。
「ミハルは、かわいそうよ。今も……それに、小鳥をお兄さんに絞め殺された時のことだって! つらい思いをしているのはあなたなのに、あなたは小鳥のことを悼むばかりだったじゃない。あなたは、あなたって人は……」
そう言って、アンジェリカはとうとう泣き出してしまう。
「あなたは、わたしを殺すつもりだったんでしょう? でもわたし、あなたにはそんなことなんてできなかったと思う。……だってあなたは、あなたが思うよりも、ずっとずっと、優しい人だから……!」
「っ、君は……!」
ミハルはそんな彼女をたまらずに抱き寄せた。
「はっ、お前の弱さは、どうやら天使にまで見ぬかれているようだな」
トールがそれを見て、呵々と大笑する。
本当は、この場に泣き崩れてしまいたい気分だった。
父さんが僕を疎んじていることは、ずっとわかっていた。僕のようにやせぎすで泣き虫で、それでいてこの社会に必要とされるための努力をしない怠け者は、軍人一家のハルパス家にはふさわしくない。わかっていた。それでもいざ言葉にされると、やっぱり堪える。自分という存在の根幹がへし折られてしまったような気分だ。
あるいはここで、かつて兄さんが小鳥にしたように、僕がこの、伝承の中に伝わる本物の天使みたいに、無垢で、清らかで、人を疑うことを知らず、愚かなままのアンジェリカを縊り殺してしまえば、父さんは僕を見直してくれるだろうか。
(……いや)
けれど、弱いミハルには、そんなことできなかった。
そして同時に、それをしないことこそが、弱いミハルに唯一できる、彼らへの抵抗だった。
だからミハルは、胸に抱いたアンジェリカの耳元に囁いた。
「……アンジェリカ、二つ目のお願いだ。僕がいいって言うまで、目をつぶっていてくれないか?」
「え……?」
「頼む」
ミハルが真面目な顔をすると、アンジェリカは不思議そうにしながらも素直にその両目を閉じる。
それを見ていたトールが、つまらなそうに鼻を鳴らした。
「残念だよ、ミハル。天使の肩を持つような反逆者を、私は軍人としてこの世界に置いておくことは出来ない」
言って彼は左手をワイングラスを持つように掲げてみせる。伝承の中で悪魔が剣を持つと言われている左手。その手の中に、黒とも紫ともつかない火球のようなものが浮かぶ。
その姿は禍々しく、ひとたび触れれば、その者の存在ごと吹き飛ばしてしまうことだろう。
「はは、そりゃ都合がいいや。今ちょうど、つくづく僕は軍人に向かないと痛感していたところだったんだ」
そんな兄に向かって、ミハルはふてぶてしく笑ってみせた。いつもの斜に構えたような自堕落な自分を奮い立たせて、挑発的に叫ぶ。
「でも、僕は死んでなんかやらない。――だって僕は、一人じゃないんだ!」
言って、ミハルは黒衣の制服の袖を捲って見せた。
ミハルの細腕に書かれているのは、文様だ。アンジェリカの翼に走る回路によく似た、この世界では魔法陣と呼ばれる文様が、ミハルの体いっぱいに書きつけられている。
ミハルは息を深く吸い、その空気を体中に行き渡らせるイメージで、肌に直接インクで書きつけた魔法陣を発動させた。
体中に張り巡らせた魔法陣がまばゆい閃光を放ち、ミハルを包み込む。
光の向こうで、トールがひどく驚いたような顔をしたのが見えた。その表情に胸がすくような気持ちがする。
どうだ、見たか兄さん。僕は、一人なんかじゃない。
僕には僕を決して一人にしない、大事な友達がいるんだ!
魔法陣が放つ閃光が消えないうちに、ミハルは左手でおもいっきり石畳の床を殴った。