3−5
「あの人はいつか何かやるって、ぼくは絶対思っていましたよ! まあ、まさかあそこまでおぞましいことだとは、さすがに想像もつきませんでしたけど!」
夕食の後の談話室。朝の興奮もそのままに、ユージンの座る長椅子のそばに控えたジョーが憤る。彼がばたばたと足を踏み鳴らすたび、ローテーブルの上で、彼が淹れてくれたばかりの紅茶に波紋が生まれ、消えていった。
「……ジョー、落ち着きなさい」
「で、でも、ダンタリオン先輩、見たでしょう? 天使ですよ!」
「ジョー」
もう一度強く名前を呼ぶと、「は、はあい」彼はびくりと身をすくめ、気をつけの姿勢になる。
ジョーは今年この学校に入学したばかりの十三歳の少年で、監督生のユージンが目を掛けながら、当番生として身の回りの面倒を見させている。年齢のせいかまだ落ち着きがなく、子爵家の長男として可愛がられてきた分淹れてくる紅茶の温度もなっていないが、明るく素直な良い子だ。
「……これでもまだ、ダンタリオン先輩はハルパス先輩の肩を持ちますか?」
けれど、良い子だからこそ、こういった心配もさせてしまう。
「俺がいつ、あいつの肩を持った?」
紅茶のカップで口元を隠しながらユージンがとぼけると、ジョーはまた手足を振り回しながら喚く。
「いつもですよ! ダンタリオン先輩があの人のために、下げなくても良い頭を下げているの、ぼくはずっと見ているんですから!」
それから、ふいに俯いて言った。
「あんな人、ほっとけばいいんですよ。果たすべき責務を果たさずに、怠けてばかりいる人のために先輩が骨を折ることないじゃないですか! あの人のせいで、先輩まで悪く言われるようになったらと思うと、ぼく、ぼく……」
そう言ってジョーは、一度鼻をすすった。ちらりと彼の顔を覗きこめば、目尻にはすでに薄く涙が浮いている。
それを見て、ユージンは思った。
ああ、俺は恵まれている。
俺ばかり、恵まれている。
「ありがとな」
だからユージンはカップを置いて立ち上がると、ジョーの頭を優しくなでてやった。そのまま談話室を出ていこうとするユージンに、ジョーが慌てて言う。
「あっ、先輩、どちらへ!?」
「今日はもう寝るよ。お前も、片付けが終わったら部屋に戻りなさい」
「は、はいっ!」
彼は素直に返事をすると、目尻に浮かぶ涙を制服の袖で拭い、紅茶のカップの片付けを始める。
それを肩越しに見守りながら談話室を出たユージンは、人気のない廊下にぽつりと吐き出した。
「……ごめんな」
俺は、本当に恵まれている。
けれど、それでもユージンはミハルのことを見捨てることなんて出来なかった。
かつて、ユージンはミハルのことを自分の生き写しのように思っていた。同じ金の髪に、同じ蒼い瞳。そして、同じ次男という境遇。
そんな自分たちが同じ志を持てば、きっと何か変えられると思っていた。抱えた同じ形の欠落も、二人でなら埋めていけるのだと本気で思っていた。
あの時交わした約束を、ユージンは今日まで一度だって忘れられなかった。夢ばかり見ていられた幼年期を終えてこの寄宿学校に入学してからもそうだ。勉強のためと自分で自分をごまかしながら、絵空事めいたその約束を叶えるための方策を図書館に通いつめて探し尽くしていた時期だってある。
けれどその約束は、果たせないはずだった。
兄が不治の病だとわかった日から、ユージンはもう、子供ではいられなくなった。子供じみた金の髪を伝承に残る悪魔の姿を真似るように黒く染めて、ダンタリオン家の跡継ぎとして恥ずかしくないよう振る舞う宿命を受け入れた。
(……それでも、俺はっ!)
たとえあいつが世界のすべてを敵に回したとしても、俺はあいつを一人ぼっちには出来ない。
だからユージンは寮の廊下を進み、その最奥にある部屋の前へ。
トールの通達によって軟禁も解かれ、朝の騒ぎが嘘のように人が寄り付かなくなったその部屋のドアを、ユージンは静かにノックする。
「ミハル」
ドアの向こうから、返事はなかった。けれどベッドの上で身じろぎをするような、衣擦れの音がする。また泣いてるのか、こいつは。
そんな彼に、ユージンはあの約束を交わした時と同じように、精一杯強がって言ってやった。
「待たせたな、ミハル。――あの時の約束、守ってやるよ」