3-3
教師たちがしかるべき機関に連絡を取った結果、アンジェリカの身柄は軍に引き渡されることになった。彼女の護送を受け持つ小隊が、今日のうちに近くの基地から派遣されてくるのだという。
ミハルを彼ら教師陣の畏怖と動揺のはけ口にするような説教の後、軟禁された自室で、ミハルは胸に湧き上がるいやな予感を振り払えずにいた。一時間おきに見回りにやってくる教師たちのささやき声から聞き取った情報には、ミハルにとって不吉な予感を想起させる単語ばかり含まれている。
そしてその不吉な予感は、夕方になって部屋に現れた長身の男の姿によって現実のものとなった。
「……やっぱりあんたが来るのか、ハルパス中尉」
ベッドに腰を下ろしたままのミハルが、吐き捨てるように言う。
ノックもなく部屋に入ってきた男は軍人だった。黒髪を丁寧になでつけ、学生たちの黒衣にも少し似た、長い裾が特徴的な黒い軍服を身につけている。
彼はこの学校にほど近い街の軍基地に所属する中尉で、
「――いや、トール兄さん」
何を隠そう、ミハルと血の繋がった実の兄だった。
「先生方に話は聞いた。今回の騒動は、お前の悪巧みが引き起こしたものらしいな」
冷ややかにミハルを見下ろした彼が、ミハルの座るベッドに歩み寄ってくる。
そして、おもむろに拳を振り上げると、瞬間ミハルの視界に閃光がほとばしった。
まず、右頬に一発。逆側の拳で左頬にも一発。衝撃で浮き上がった身体をベッドに沈めるように、とどめにみぞおちへ一発。
「ガハッ――」
朝から何も口にさせてもらっていないので、シーツの上に吐き出されるのは胃液だけだ。
その衝撃はどれも、ミハルが子供の頃に彼に浴びせられていた暴力とは比べ物にならないほどに重たいものだった。確かに士官学校から軍隊に進んだ兄は、屈強な肉体をもったたくましい紳士に成長している。
だがこれは、単純に肉体的な鍛錬だけでもたらされた衝撃ではない。
兄を見上げるミハルの視線に気づいたようで、トールは両手に嵌めた白手袋を弟にちらつかせる。
その手袋には、アンジェリカの翼に描かれた「回路」によく似た魔法陣が描かれていた。
「これは、お祖父様が先の戦争で活躍された頃に好んで使っていた魔法陣だ。この魔方陣に魔力を循環させることで、魔力を増幅させ、衝突の衝撃を倍加させることができる。
魔法は、体内に一定以上の魔力を持つ、選ばれしものだけが使える術だ。そして我がハルパス家の血には、空の上に逃げた無力な天使たちとは比べ物にならないような膨大な魔力が受け継がれている。この生まれ持った能力は、必ず社会に還元しなければならない。それこそが、先の戦争で伯爵の称号を賜った我がハルパス家の使命なのだ」
そう言って、トールはベッドの上にぐったりと倒れこんでいたミハルの胸ぐらを掴む。そのまま乱暴に引き起こすと、本来ミハルとよく似た女性的な顔立ちが眼前に迫った。
「だが愚弟よ、お前はその使命の尊さを理解していないどころか、我がハルパス家の名前に泥を塗ってくれようとしたらしいな。私は、お前がおぞましいよ。六年間学校に通わせてもいまだ魔法陣の一つも書けない愚かなお前が、我々が必死に守ってきた世界をこんなにも簡単に壊そうとする」
とつとつと語るトールの表情は、ただただ深い憎しみに満ちていた。そこには肉親に向ける愛情や慈しみの感情など、微塵も感じられない。
何だかすっと醒めたような気持ちで、ミハルは彼に告げた。
「……ねえ、兄さん。天使たちや天国の社会を否定して、家の名前やこの世界の伝統的な社会を守ることって、そんなに大事なことなのかな?」
「どういうことだ」
大地の色にも似た父親譲りのアンバーの瞳を細めてトールが鋭く睨む。対するミハルは空色の瞳で臆せずに彼を見た。
「だって、天使と、僕ら悪魔は、もともとは同じ生き物だったはずなのに」
そう、戦前、天使と悪魔は、同じ地上に住む、ただの人間だった。
「かつてこの世界は、魔力の強い人間がそうではない人間を支配していた。けれどある時、支配される側の人間が、魔法陣に魔力ではないエネルギーを流して発動させる『機械』を発明して、世界は変化を始める」
今まで支配される側だった人々は、その新しい技術を使って、生まれ持った才能に人生を左右されない自分たちの国――世界の七か所に高い塔を建てて、それを足がかりに機械仕掛けの浮遊する大陸を作ろうとした。
反対に、魔法という技術にあぐらを掻いて、彼らを支配して暮らしていた人々は、それを阻止しようとした。
「何度目かの話し合いが失敗に終わった後、とうとう長い戦争が始まった。戦況は、初めこそ均衡していた。だけど、戦争が長引くに連れて、魔法を信奉する人々は苦境に立たされるようになる」
魔法を信奉する人々が劣勢に追いやられるようになった原因は、皮肉にも魔法が『選ばれしものだけが使える』技術であることだった。激しい戦闘の中で人材が失われることが、そのまま戦力の損失につながったのだ。
一方で、『誰にでも使える』機械で戦う人々は、歴戦の戦士が戦闘によって失われても、機械され残ればまだ戦える。しかも、伝統的な術式やタブーにとらわれない彼らの機械は、日々、進化を続けていった。
もっと強く、もっと早く、もっと便利に。
長い歴史を持つ魔法が、彼らの技術に追いつかれ、そして追い抜かれるのは時間の問題だった。
「結局戦争は、五十年前に機械仕掛けの大陸が空に放たれたのをきっかけに、はっきりとした勝敗がつかないまま休戦となった。
でも実質、この結果はこれまでの伝統的社会の敗北と同じだった」
空に上り、念願だった生活を手に入れた彼らは、機械によって作られた浮遊する大陸を「天国」と名付けた。そして、旧態を打倒し、新しい力で自由を手に入れたことを誇って、自らを『天使』を名乗るようになった。
「そうして僕らは彼らに対抗して、自らを『悪魔』と名乗るようになり、この世界は『地獄』になった。けれど、いくら黒衣に身を包み、生まれ持った色の髪を黒色に塗りつぶして、伝承に残る悪魔の姿を真似てみたところで、僕らが何か別のものになれるわけじゃない。一度打ち負かされたはずの『伝統』というものにしがみついている限り、僕らはずっとこのままだ。だったらこんな世界、一度壊してしまったほうがよっぽどいいんじゃないかな?」
挑発するように首を傾げてみせると、頬に掛かる金髪が流れて、ピアスをいくつも開けた耳が覗く。
「黙れ、恥知らずが!」
トールは激高した。掴みあげていた胸ぐらを突き放すと、ミハルの身体は再びベッドに転がる。
その身体を、トールはピアスの嵌った耳を掴んで引き起こそうとした。
「お前のその物言いは、お祖父様が上げた功績をも愚弄する。撤回しろ」
「ッ――!?」
瞬間、何かが断ち切れるような嫌な音とともに、右耳にわっと熱い感触がする。咄嗟に手で押さえると、どろりとした血液の感触が手のひらを伝った。まるで耳がなくなってしまったような絶望的な痛みが、一拍遅れて襲いくる。
悲鳴にならない悲鳴を上げて悶絶するミハルのそばで、トールはちぎり取ったピアスを血のついた手袋ごと投げ捨てた。
そして、唾棄するように言う。
「どうやら、あの天使に妙なことを吹きこまれたようだな。あるいは、薄汚い色仕掛けに骨を抜かれたか」
「そうじゃないっ!」
天使。その単語に頭にかっと血が上る。
気づけばミハルは、いつもの斜に構えたような態度さえ忘れて叫んでいた。
あの態度は、ミハルが身につけた自分を守る盾だった。自堕落で不遜な態度をとることで、自分をないがしろにし、ユージンをミハルから奪ったこの社会に与することを拒絶しようとした。
そうやって、自分の抱える子供じみた孤独を隠そうとした。
けれど今は、そんな余裕などミハルには存在しなかった。
「たった七日間、敵の部隊を足止めしたくらいで与えられた名誉がそんなに大事かよ! 父さんも、兄さんも、そんなものを後生大事に抱えてるお前らを、僕はずっとバカみたいだと思っていた。だからこれは、まぎれもない僕の考えだ! だから、彼女は……アンジェリカは、関係ない! 彼女は僕に利用されただけだ! 気に食わないなら、僕をいくらでも殴ればいい!」
右耳を押さえ、荒い息を吐き出すミハルを見下ろして、トールは少し意外そうな顔をした。
「……なあ、あの天使がこの後どうなるか、教えてやろうか?」
「……え?」
それから、にやりとほくそ笑む。
「殺すんだよ」
そう告げる兄の顔は軍人の顔ではなく、怪我をした小鳥の命を奪うことになんの罪悪感も抱くことのない、勇敢な少年だった頃の顔をしていた。
「世間知らずのお前はまだ知らないだろうが、天使が地獄と呼ばれるこちら側の世界に落ちてきたのはあの少女が初めてではない。彼奴らの翼は、飛行する理論こそ完成しているものの、そんなに上手く飛べるものではないんだ。なんでも、飛ぶという行為には生まれ持っての感覚みたいなものが必要らしい。だからたびたび、天使はこの地獄に落ちてくる。まあ、とは言え大体は墜落の衝撃で死ぬんだがな。
……だが、幸か不幸か、無事に生き延びてしまう奴もいるんだ。そういう奴の存在は、地獄にとっても、そして天国にとっても都合が悪い」
「……天国にとっても?」
青ざめた顔で兄を見上げるミハルに、トールは我が意を得たように大げさに頷いた。
「ああ、そうだ。お前が言うとおり、天使の扱いはデリケートな問題なんだ。休戦中とはいえ、こちらの領土に入り込んできた敵国の住人をおいそれと返してやるわけには行かないし、下手に捕虜として扱えば、ひょんなことから戦争再開の火種になることもある。……不本意なことだが、戦争末期以降、彼奴らの戦力はまだ我々を上回っている。今戦争が再開されることは、我が軍にとって望ましいことではない。そしてそれは、彼奴らにとっても同じなんだ。なにせ彼奴らは、苦労して手にした楽園に移り住んで、まだ五十年ぽっちしか経っていないのだからな。
だから、殺してしまうことにしたんだ。
地獄に落ちた天使は、絶対に助からない。天使たちがその技術力を使って捜索に乗り出すこともないし、敵国である地獄に救助を求めることもしない。そして、地獄で生きた天使が見つかれば、即座に我が軍が処分することになる。すべてが『なかったこと』になるように。
……これこそが、二つの世界が水面下で交わした、休戦状態を保つための約束だ」
「そん、な……」
絶句するミハル。
青黒く腫れたミハルのその頬に、トールがそっと触れた。
数分前に傷めつけた頬を、今度はいたわるように撫でさする。
「いいか、ミハル。人は決して一人では生きていけないんだ」
しかしその仕草は、決して愛する肉親を慰めるためのものではなかった。
例えるならそれは、王が屈服させるべき臣下に見せる慈悲によく似ている。
「だから人は、社会に受け入れられようとする。その社会の在り方を受け入れ、その社会に自分を適応させ、その社会で立ち位置を見つけていく。それが、大人になるということだ。ミハル、お前ももうすぐ、寄宿学校を卒業することになる。自由気ままな振る舞いが許されるのは、殻の中に守られている間だけだ。わかるな?」
いつか聞いたような正論に、ミハルは何も言えなかった。
その沈黙を答えにして、トールはミハルに背を向けた。そのまま部屋を出ていこうとする。
「後のことは、すべて兄さんに任せたまえ。この件については、軍が箝口令を敷くことになる。全て『なかったこと』になるんだ。よって、お前が特別な処分を受けることはないだろう。
お前の人生はこれからもこれまでと何一つ変わりはしない。お前がどんな悪あがきをしようと、お前は軍人になるんだ。その子供じみた金の髪を黒く染めて士官学校に入り、鍛錬を重ね、いずれ戦争が再開された暁には今度こそあの天使どもを打ち負かす。それが武勲で誉れを得たハルパス家の子息として、お前が受け入れるべき宿命だ。この世界で生きていく以上、決して逃れることはできない」
そんな言葉とともに、兄の背中が、ドアの向こうに消えていく。
ミハルはたまらず叫んだ。
「うるさい! 黙れ! アンジェリカを……アンジェリカを返せ!」
力が欲しかった。腕力でも、魔法でも、機械でも、方法なんてなんでもいい。
あの背中に突き立ててやる刃が欲しかった。
世界の決まりごとを捻じ曲げてしまう、権力が欲しかった。
かつて兄に縊り殺されたアンジェラのように、きっと兄に殺されてしまうアンジェリカを、助けだす力が欲しかった。
けれどそんなものは、ミハルは何一つ持ち合わせていなかった。
「――ちくしょう!」
ばたん、と音を立てて閉まるドアに、ミハルはただ、慟哭することしか出来なかった。




