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3-2


 あの後、どうやらミハルは眠ってしまったようだった。雨に濡れて体力を消耗していたせいか、それとも大泣きをして精神をすり減らしたせいか、あるいは身体に触れるアンジェリカの体温があまりにも心地よかったせいか、ミハルはそのまま次の日の朝まで目覚めなかった。


 そんなミハルの安眠を妨げたのは、突如響き渡った悲鳴だった。


 それを合図に、まず黒衣の学生たちが集まってきて、それから少し遅れて、彼らのものより少し格式張った形の黒衣を着た教師たちがやってくる。


「一体どういうことだ、ミハル・ハルパス。どうしてこんなことになった? 説明しなさい」


 気づいた時にはもう、ミハルのベッドは駆けつけてきた教師たちにすっかり取り囲まれていた。


 彼らと入れ違いに廊下に追いやられた野次馬の学生たちは、入口のドアから恐る恐るこちらの様子を伺っていて、その先頭にはユージンの姿もある。

 ユージンの表情は、屈強な肉体と健全な精神をこの学校で育んできた彼には珍しく、すっかり青ざめてしまっていた。


 いや、彼だけではない。ここにいる誰しもが、恐怖と緊張感が入り混じったような表情でベッドの上のミハルと、そしてアンジェリカを見ていた。


 アンジェリカは彼らの様子を伺いながら、不安そうに両手を組み合わせている。

 そんな彼女をさりげなく背中にかばって、ミハルは言った。


「僕、鳥が好きなんです。小さな頃、怪我をした小鳥を拾って、家族には内緒で面倒を見ていたこともあります。だから、空から降ってきた彼女をほっとけなかったんです。あの時と同じように鳥かごに匿って、ビスケットや飲み水を与えていました」

「っ……真面目に答えなさい!」


 神妙な顔でそう嘯くミハルに、教師の一人が激高した。その怒声にアンジェリカがびくりと身をすくめる。

 彼女の怯えきった表情を見て、ミハルは観念した。


 そうして口にするのは、ミハルがあの時アンジェリカを拾った、本当の理由だ。


「……また、戦争が始まればいいな、って思って」


 その言葉に、部屋中の全員が息を呑んだ。

 ミハルはそんな彼らに向かって淡々と続ける。


「その計画のために、彼女を拾ったんです。『天国に帰る方法が見つかるまで』なんて上手いことを言って彼女を部屋に閉じ込めておいて、最良のタイミングを待っていたんです」


「……最良のタイミング?」


 誰かが言った。

 ミハルは頷く。


「はい。この世界と、彼女の住む『天国』とは、五十年前の休戦以降、長らく水面下で終戦のための交渉が続けられていて、その局面によって二つの世界の関係は少し改善したり、反対に極度の緊張状態に陥ったりする。


 だから、時が満ちて、最良の『最悪な』タイミングが来たら、彼女の喉笛を掻っ切って、その死体とともに宣言してやるつもりだったんです」


 ミハルはそこで言葉を切り、両手を広げて舞台役者のように謳った。


「――僕が殺した! ってね」


 瞬間、どよめきが広がる。ミハルがいかにおぞましい計画を企んでいたのか、ようやく皆が気づいたのだ。


 唇が嗜虐的に歪むそのままに、ミハルは笑う。


「この世界の人間に天使が殺されたと知れれば、天国の奴らはただでは置かないだろう。長らく続いた終戦のための交渉も、晴れて破談の時を迎える。――再び戦争が始まるのさ!


 そうなれば、この世界は今度こそおしまいだ。天使たちが空に逃げられれば満足だった五十年前と違って、この世界は、彼らの革新的な技術――『機械』によって、徹底的に蹂躙されることになる。社会も、伝統も、人の命も、全部だ!


 戦争が始まれば、軍隊にいる兄さんは真っ先に死ぬだろう。今は軍人としては一線を退いた父さんも、有事となればおそらく前線に駆り出されて死ぬ。開戦の引き金を引いた僕自身もただでは済まないだろうが、そうなればその時は、この世界も、我がハルパス家の家名ももろともだ! ははっ、ざまーみろざまーみろ。これは報いだ。名誉や身分にしがみつくことばかりに夢中になって、僕のことをないがしろにし続けてきた父さんの、兄さんの、そして君たちの報いだよ。ハハハ――」


 けれど、その計画は全部、台無しになってしまった。


 虚しく哄笑するミハルの姿に、人々の表情はみるみるうちに青ざめていった。

 先頭に立った教師が、硬い声で告げる。


「とにかく、すぐに軍へ連絡を。天使は牢に隔離し、ハルパスは鞭打ちにした後自室で謹慎させる」


 その言葉を合図に、教師たちが数人ずつに分かれてミハルとアンジェリカを取り押さえた。


「やめろ!」


ミハルは癇癪のように鋭く叫んで暴れるが、やせぎすのミハルなど教師たちに簡単にあしらわれてしまう。


「ミハル、どうして? この人達は、どうしてこんなことをするの!?」


 教師たちはいたいけな小鳥のような少女を、まるで檻から逃げ出した猛獣のごとく扱った。

 彼らに両腕を押さえられたアンジェリカが、すがるようにミハルを見る。


「……まだわからないのか、君は」


 彼女はこの期に及んでも無垢で、清らかで、人を疑うことを知らず、愚かなままだった。


 本当は、ひどい目に遭わせてやるつもりだった。ミハルがアンジェリカを匿ったのはあくまで自分の悪巧みのためで、彼女が最終的にどうなってしまおうと、ミハルの知ったことではなかった。


 ――はずなのに。


 なのにミハルの胸は、泣きたい気持ちでいっぱいだった。いたいけな少女一人守れやしない細腕を、生まれて初めて悔やんだ。


 だからミハルは、そんな自分をあざ笑うように彼女に告げる。


「いいか、アンジェリカ。君たちの住む世界が天国ならば、ここは君たちが『地獄』と呼んでいる場所だ。

 ――そしてそこに住む僕たちは、かつて君たち天使と敵対し、長い戦争を戦った、恐れ、憎むべき存在である『悪魔』なんだよ」


「……うそ」


 翠の目を大きく見開いたアンジェリカの顔を、ミハルは一生忘れられそうになかった。

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