プロローグ
「鳥になりたい」と僕は言った。
「そりゃいいや」と君は笑った。
だから僕は、今日も空を見上げている。
*
鐘の音が聞こえる。午後の授業の始業を知らせる鐘だ。
水曜の午後の授業は何の教科だったっけ? 歴史学だった気もするし、魔法学の実践だった気もする。
けれどそれらはすべて、ミハルにとっては無意味に等しいことだった。
だからミハルは、今日も空を見上げている。
黒い長衣の制服が汚れることもいとわずに中庭の芝生に寝そべると、頬に掛かる金髪が視界の端でさらりと流れた。
こうやって空を見上げて過ごすことは、十三歳の時、貴族の子息たちが通うこの名門の寄宿学校に、自分の意志とは無関係に放り込まれてから、ミハルが長らく続けてきた暇つぶしだ。
北部の丘陵地帯に建つこの学校は、伝統と格式を重んじる、たくましい紳士の育成を目的としている。
家族は少女のように細い身体の倅が、学校の推奨するクリケットやラグビーなどのスポーツでたくましく成長することを期待したようだ。
だが、競技のルールよりも先にそれらを上手くやりすごす術を覚えてしまった以上、中庭の芝生に投げ出したミハルの手足は、ぐんと背丈が伸びた今もひょろ長いばかりだった。
ミハルが見上げる青空には、大人たちが大事に守ろうとしている窮屈な決まりごとなど存在しない。真昼の日差しを受けて影になった鳥たちが、自由に羽ばたいている。
そして、そのすぐ側を音もなく滑空していく、鳥影とは比べ物にならないほどに巨大な人工物の影。
淡い燐光をまとった空飛ぶ大陸は、校舎の向こうの丘にそびえ建つ、空を突く高い塔を掠めるようにして去っていく。
これはミハルにとって、よくよく見慣れた風景だった。というか、代わり映えがしなさすぎて退屈なくらいだ。
「……ん?」
だから、それを見たとき、初めはただの鳥だと思った。大きな両翼を持つ鷲や鷹なら、この辺りでもよく見られる。
けれど、それは鳥ではない。
確かに背中に両翼を持っているが、その動作は飛ぶと言うより、風に流されていると言ったほうが正しい。気流への乗り方が下手なのだろう。本物の鳥ならば本能で習得しているはずの技術をそれは持っていない。
「あれは……」
ミハルは芝生から身を起こして、それの様子を見守っていた。それは上空の強い気流に、懸命に翼を羽ばたかせて抵抗する。右に流され、左に流され、急上昇と急降下を繰り返した。
だがやがて、それの右翼が唐突に停止する。
それっきり、糸が切れてしまったように動かない。
「……あ、落ちる」
瞬間、それは真っ逆さまに落下を開始した。残った左の翼でなんとか空中にとどまろうとするが、空気を虚しく掻くばかりでどうにもならない。
最初は影としか認識できなかったそれが、地上が迫るほどに人の形に近づいていく。
そしてとうとう、それは地に落ちた。
動かなくなった金属製の右翼がぐしゃりとひしゃげる音が、ミハルはすぐ側で響く。
それが落ちたのは、幸か不幸かこの寄宿学校の中庭で、ミハルが今いる場所の目と鼻の先だった。
「……う……ぅ」
そして、幸か不幸か、どうやらそれはまだ生きているらしい。
無事だった左翼のおかげで多少落下の速度が削がれたのと、先に地面についた金属製の右翼が落下の衝撃を肩代わりしてくれたのがよかったのだろう。
冷静にそんな分析をしながら、ミハルはふと辺りを見回す。
さっき始業の鐘が鳴ったから、学生たちはみな授業に出ているはずだ。この名門校において、授業をサボるような劣等生など、ミハルの他にはなかなかいない。
となれば、今の光景を見ていたのは、ミハルだけだ。
つまり、それの運命が幸福であるか不幸であるか、決める権利はミハルのこれからの行動いかんに委ねられているということだ。
だからミハルは、じっと考えを巡らせた。
「……そうだ」
そして、ふと思いつく。
これは、いい考えだ。僕の計画通りに事が進んだのなら、きっとみんな驚くことだろう。
そうすれば、みんな僕のことを無視できなくなる。
「……ふふ」
嗜虐的に歪んだ口元を取り繕いながら、ミハルは立ち上がってそれに近づいていく。
驚きも恐怖も、不思議と感じなかった。横たわった緑の草むらに浮き上がるような金の髪に、白い肌。それがこの世界の他の住人たちよりも、よっぽどミハルに似た容姿をしているからかもしれない。
「――よく来てくれたね、僕の天使。この世界へ、ようこそ」
悪巧みを悟られないように甘く優しい声でそう言って、ミハルはそれ――機械の翼を背負った少女を抱き起こした。