起
地下迷宮で、魔法使いの少女は、一人で大型の敵と対峙していた。全長三メートルほどの、角が生えたトカゲのような敵だった。少女は魔法の杖の、魔法石がはめ込まれた端を、敵に向けた。
「フレイムアロー!」
少女が呪文を唱えると、魔法石を中心にした魔法陣が生まれた。魔方陣から炎の矢が飛び出して、敵を襲った。
だが敵は炎を嫌がったものの、ダメージを受けているようには見えなかった。逆に怒って、少女に突進してきた。
「ダークシールド!」
少女が新しい呪文を唱えると、新しい魔法陣が出現した。魔方陣に激突した敵は、大きく跳ね返された。少女の方は一ミリも動かなかった。
「アイスニードル!」
少女が新たな呪文を唱えると、別の魔法陣が現れ、そこから鋭い氷柱が発射されて、敵を襲った。敵は一瞬ひるんだものの、雄叫びをあげて口を大きく開いた。その口の中では電光が走っていた。
敵は魔力を使った攻撃をする、そう悟った少女は魔力の攻撃を跳ね返す呪文を唱えようとしたが……
「フォースシ、シ」
呪文を噛んでしまった。
敵の口から放たれた電撃は、少女を直撃した。少女はそれに耐えられず、その場で倒れてしまった。完全に意識を失った少女に敵が近づいてきた。
そのとき、少女の左腕にはめられた腕輪が光った。腕輪の中の帰還石が魔法陣を作り、敵が危害を加えられないように少女を守った。やがて魔方陣は少女とともに消えた。
「また五階で負けたのか!」
ローレック伯爵の書斎に怒鳴り声が響いた。怒鳴り声を発した伯爵の前で、先ほどの少女が萎縮していた。
「お前は素質が十分にある。なぜそれを活かせん? 中ボス一匹倒すのに、どれだけ時間をかければ気がすむのだ? アンジェリカはお前より魔力が乏しいのに、十二歳で制覇したのだぞ。姉として恥ずかしいとは思わんのか!」
このあと十五分ほど、少女は怒られた。少女はうなだれて書斎から出てきた。たまたま中年のメイド二人が廊下を掃除していた。メイドたちは清掃を中断し、壁際によって、少女のために道を開け、頭を下げた。
メイドたちは、少女が廊下の角を曲がって、足音が聞こえなくなるのを確認すると、ひそひそ話を始めた。
「ロザリー様、また失敗したの?」
「みたいよ。なんとかっていう腕輪で救出されたんですって」
「魔法使いの貴族も案外大変ね。十七歳になる前に、お庭にある迷宮とかいうのを制覇しないと、家が継げないんだから」
「迷宮の中には恐ろしい魔物が大勢いるっていうじゃない。アタシなら怖くてできない。兄弟がいたら譲っちゃうわ」
「でもアンジェリカ様はとっくに制覇してたわね。すごいわね」
「生まれてくる順番が逆だったらよかったのに」
「ちょっと、それ言いすぎ。誰かに聞かれた大変よ」
メイドたちは口に手を当て、キョロキョロ辺りを見回して、誰かいないか確認した。
ロザリーはしょぼんとしたまま自分の部屋に戻った。お気に入りのクッションを置いた、お気に入りの椅子に体を沈める。心も沈む。これではダメだ。自分でもそう思う。でも気分はそう簡単に高揚しない。父に怒られたように、同じ相手に連敗続き。進歩も成長も感じられない。
誰かが部屋の扉をノックした。
「お姉様、私よ。入っていい?」
「アンジェリカ? いいわよ」
部屋の中に入ってきたアンジェリカは、目立つ少女だった。鮮やかな赤い髪が自然にウェーブしている。それに合わせたお気に入りの赤いイヤリングをつけている。姉妹なので、顔の個々のパーツを比べると似ているが、ロザリーの金髪のストレートと比べれば、その赤い髪は強く印象に残る。それに雰囲気が全く違う。ロザリーはおっとりしている感じだが、アンジェリカは活発な感じだ。この二人を見て、すぐに姉妹だと気づく人間はほとんどいない。
「また五階で負けたんですって」
妹は父と同じ言葉を口にした。
「中級の魔法を覚えないとダメだって言ったはずよ。覚えなかったの?」
「うん。初級の魔法でも、数多く当てて体力を削ればなんとかなるかと思ったけど……」
「ムリムリ」
アンジェリカは目の前で右手を振った。
「相手は攻撃力も体力も高いのよ。持久戦になったら不利よ。強い敵こそ速攻で倒す、これが鉄則よ」
「……ちょっと無理して初級の魔法の威力を上げたらダメかしら?」
「ダメダメ」
アンジェリカはまた右手を振った。
「呪文ごとに上限は決まっているのよ。それを上回る魔力を使ったら、自分もダメージを受けるじゃない。逆に負ける確率が高くなるだけ。仮にそれで勝てたとしても、自分に使う治癒魔法の魔力の量を考えたら、全然割に合わないわ」
ロザリーは言葉に詰まった。その様子を見たアンジェリカはため息をついた。
「なかなか中級の魔法を覚えられないからって、逃げ回ってちゃダメよ。お姉様が勝てないのは中ボス。最後の敵はもっと強いのよ」
それでもロザリーは何も言わなかった。
「もうお姉様には時間が無いのよ。このままだと私が家を継ぐのよ。お姉様はそれでいいの?」
そう言い残すと、アンジェリカは部屋から出て行った。アンジェリカに言われたことは本当だった。ロザリーの十七回目の誕生日は一ヶ月後だった。
妹にも叱られて、ロザリーはさらに落ち込んだ。二人から馬鹿にされているようにさえ感じた。
ロザリーは迷宮にむやみに挑戦するのをやめた。いい加減な思いつきで挑戦しても、時間の浪費にしかならない。かなり遅かったが、そのことを学んだ。アンジェリカに言われたように、中級の魔法を覚えることに挑戦した。
魔法は呪文さえ唱えれば使えるわけではない。自らの体の中の魔力の流れを意識し、杖を使って魔法石に伝達して、魔法石に共鳴を起こして、初めて魔法を発動させることができる。呪文はそれを助けるための手段に過ぎない。
言霊という考え方がある。言葉にはそれを発する者の意志や力が宿るという考え方だ。この考え方が正しいという証拠はまだ見つかっていない。だが魔法に呪文が必要な理由を説明できる。高位の魔法使いの中には、呪文を省略して魔法が使える者がいるという噂もあるが、本当かどうか疑わしい。少なくともロザリーには呪文が必要だ。
高度な魔法には長くて難しい呪文が必要だ。しかしロザリーが練習している中級魔法の呪文はそれほど難しくない。ロザリーは中級魔法の全ての呪文を暗記していたが、呪文の使い方が下手だった。中級の魔法は初級の魔法より大きな魔力が必要だ。大きな魔力ほど制御が難しい。呪文の使い方が下手なロザリーは、その魔力をうまく制御できない。こればかりは体で覚えるしかない。例えて言うなら、ロザリーは自転車には乗れるが、一輪車には乗れない。
「ファイヤーボール!」
ロザリーが呪文を唱えると、魔方陣から大きな火の玉が発射された。それでもロザリーの表情は明るくなかった。
成功率は三分の一か。落ち着いてゆっくり呪文を唱えれば成功するけれど、とっさに唱えるとほとんど失敗する。戦っているときにのんびりなんかできない。これじゃ唱えられないのと同じだ。まだまだダメだ。練習しなきゃ。そう自分に言い聞かせた。
「ファイヤーボール!」「ファイヤーボール!」「ファイヤーボール!」




