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「もしもし」


――おう。読んだ?


「こんにちは、先生。よく僕だと分かりましたね」


――アンタくらいしか電話してくる奴なんかいないよ。


「はは、またそんなこと言って。この間炬燵の上にどこかの名刺があったじゃないですか」


 へっ、と電話口の向こうで先生が笑う。


――そんなのあったっけ。昔に貰ったやつじゃないの。


 よく言うよ。前に僕が持って行った参考資料の、上に置いてあったくせに。


「ところで先生、今回のパートもいいですね。笹野教授が定食屋で、セツ代のことを思い出しながら最後の一口を噛みしめるでしょう。あそこなんか、ぐっと来ましたねえ。ところでまた、誤字やら何やらを山ほど見つけましたので、あとでお伺いしますね」


――えー、メンドクサイなあ。オカモト、直しといてよ。


「関本です」


――あ、そう。


 しれっとして言ったが、この間も僕の名前を間違えた。覚える気がないんだな。


「そんなのだめです。先生が意図的にここはこれで、って部分もあるでしょうし、作家さんの作品に手を加えるわけにはいきません。それに、最終的に校正さんの手に渡ったら沢山戻りがありますからね。覚悟してください」


 日時を取り付けて電話を切った。


 神部先生と出会って早くも半年が経つ。

 今書いて貰っているのは、僕が初めて先生の元を訪れた時に受け取った、例の<趣味の作品>を単行本用に書き下ろしたものだ。


 あの時借りた原稿は50枚ほどあった。それを一からパソコンに入力し直して――ついでに推理もした――、何とか解読が終わったのが2週間後の話。

 勿論その間に、先生がこれまでに書いた作品は全部読んだ。長編4冊はいずれ劣らぬ力作で、読み終える頃には部長同様、すっかり神部作品の虜になっていた。だからというわけではないが、あの原稿を読んだ時は、まるで運命の1冊に出会えたかのように胸が震えた。たった2万字足らずの文章に、僕は編集者である自分の立場を忘れて夢中になったのだ。


「よく読めたね。けど、2週間は掛かり過ぎだな」


 先生はその日も煙草をスパスパと吹かしていた。自分の居場所を確保するべく、散らかったゴミを袋に入れていく僕を尻目に、何の気もない様子だ。


「すみません。最後には大分慣れたんですけど」


「まあいいや、約束だからね。どんなの書く?」


 僕は途中まで読んだ原稿のプロットが欲しいと言った。他の話をこれから考えて貰うのもいいが、僕が個人として読みたいのは何と言ってもあの話の続きだ。とにかく気になって気になって、他の仕事が手に付かないのだから。


「いいよー、汚いけど」


 先生はどうでもいいといった具合に、チラシの裏に書かれたそれを快く差し出してくれた。


 プロットは何度か修正されたのち、企画会議に載せてOKが出た。既に執筆にも取り掛かって貰っているが、物語はまだ半分も進んでいない。

 

 神部先生の場合、他の作家さんと同じように考えていては駄目だ。原稿は余りせっつかくなくても書く方だが、相変わらず見た目が酷い。読めない。

 判読不明な文字に始まり、誤字脱字は勿論、漢字が徹底的に苦手だからやたらと平仮名表記が多いのだ。担当の僕にもそのままではスムーズに読めない。だから、原稿を受け取ったらまず僕自身が逐一ワープロ入力する。出版した時の体裁も考えて、一通り漢字変換もする。すると今度は、予定していたページ数よりも大分少ないことが分かってしまうのだ。

 パソコンを使ったらどうかと一時期提案もしてみたが、『使い方を覚えるのが面倒だ』と来た。子供みたいなわがまま振りには、僕だって時々投げ出したくもなる。けれど、実力はある作家さんだし、何より、この作品を諦めたくなかった。正直、今はこの作品を早く世に出したい一心で骨身を削って頑張っている。



 季節は巡って年が明け、やっと神部先生の新刊『四月の蜂』が刊行される運びとなった。部長も巻き込んで、既に営業への根回しもバッチリだ。


「先生、ありがとうございました。こんなに素晴らしい作品に携わることができて、僕も編集者として喜びに尽きます」


 シミだらけの畳に手を着いて、深々と頭を下げた。


「何だよ、急に改まっちゃって。気持ち悪いなあ」


 先生は柄にもなく照れてそっぽを向いた。もうすっかりツーカーの仲だから、こんなかしこまったことを僕から言われるのは、ちょっと気恥ずかしいのかもしれない。

 付き合って1年経って分かったが、先生は本来茶目っ気たっぷりの、子供のように純粋な人なのだ。だが、人見知りでもある。それをごまかすために女性らしからぬぶっきらぼうな態度を取ったり、人から邪険とも取られるような言動をしてしまうのではないかと、僕は思うんだけれど。


 僕にしてみれば『四月の蜂』は、作家と担当とが一体となって初めていいものが生まれるのだということを、大いに実感できた作品だった。

 刷り上がったものを家でじっくり読んでいたら涙が出た。

 神部先生は本当にいい作家さんだ。何度も読んでいる話なのに、読むたびに新しい発見や深い気づきがあり、感動させられる。僕も照れくさくてとても先生には言えないが、本当に素晴らしい作家に出会えてよかったと思う。部長にも、松永さんにも感謝しなくちゃいけないな。


「で、どうですか? 新しいお話、浮かびました?」


 先生に聞いた。


「まだ。神が降りてこないんだよね」


 先生は最後の煙を吐き出して、煙草を灰皿に押し付けた。


 部長との話で、今年はあと2本、神部先生に長編を書いて貰おうということになっている。うち1本は年内の刊行でと、既に年明けの会議で決まっているのだが。

 ……先生、新刊を上梓してどうも抜け殻になってしまったらしい。こんなこともあるかとしばらく放っておいたが、暦の上ではもう春だ。いい加減エンジンを再始動して貰わないと。


「そうだ。先生、たまには外にでも行きましょうよ。そうしたら気分も変わっていいアイデアが浮かぶかもしれません。お花見なんてどうです?」


「花見? だって、桜はまだ大分先じゃん」


「今の時期なら梅ですね。行きましょう」


 また新しい煙草に火を付けようとした先生を引っ張り、少し強引に連れだした。相変わらず上下ちぐはぐなスウェットにドテラを着込んだ姿のままだが、そんなことを気にしていては先生の担当は務まらない。壊れかけたハローキティのサンダル、靴下の穴から派手に飛び出した親指も、ご愛嬌ってことで。


 梅林は赤羽駅西口の団地内にあった。

 西口は地形的に高低差があり、階段だの坂だのが多い。そのせいもあってか、先生はいくらも行かないうちにヒーコラ言いだした。普段近所のコンビニくらいまでしか歩かない先生には、徒歩15分の道のりも厳しかったようだ。

 途中、コンビニに寄ったり、ガードレールに腰かけて一服してみたり。休み休みではあったが、なだめつすかしつ、団地の前にある最後の坂を何とか上り切った。


 高台の梅林は日当たりがよく、冬とも思えぬのどかさだった。ただし、梅の咲き具合は僕が思っていたようなイメージには程遠く、早咲きの紅梅がいくらか綻んでいる程度だ。

 先生は梅には見向きもせず、到着するなり梅林に置かれたベンチにどっかと座った。中天にある太陽に向かって眩しそうに目をすがめている。


「しかし、こんな近くにもいいところがあるんですね。先生もたまには外に出た方がいいですよ。あんまり籠っていたら健康にもよくないでしょう」


 途中のコンビニで買ったペットボトルのお茶を先生に差し出した。先生はありがとう、とそれを受け取ったが、口を付けずにそのままベンチに置いた。


「関本」


「はい?」


「梅はいいけどさ、桜って何だか薄ら怖いよね」


 置物のようにじっと目をつぶったまま言う。突然何を言い出すやら。


「そうですか?」


「だって、桜の下には死体が埋まってるって言うじゃないか」


 またベタなことを。そんな話、今どき学生だってしない。


「梶井基次郎ですね。僕が子供の頃、近所の土手で桜の木に首を吊って死んだ人がいたって事件はありましたがね」


 先生はベンチで腕組みをして目をつぶっている。僕の話なんか聞いてないみたいだ。それとも、疲れ切ってしまったのだろうか。


「そう言えば、先生の作品にはハッピーエンドがないですね。誰かが死んだり、殺したり。ミステリーには死が付きものだけど、先生の作品では主人公や、主人公とごく近しい人が死ぬ。まるで先生が、彼らをどうあっても救われない運命に追いやっているように見える時があります。僕には先生が、そんな薄っ暗いことを書くような人には見えないんだけどなあ」


 言い終わってから、また、しまった、と思った。どうも自分は正直すぎる。いくらツーカーの仲とはいえ、作家さんと編集者は友達ではないのだ。

 先生は僕の気持ちを察したのか、ふっ、と笑った。


「根暗なんだよ。一人暮らしが長いとさ、いろいろと余計なこと考えちゃうじゃん」


「そうですか? 僕も一人暮らしだけど、読書を邪魔する人もいないし、楽しいくらいだけどなあ。けど、そのうち寂しくもなるんですかねえ。……あ、4月になったら今度は桜を見に行きましょうよ。この近くにも桜並木がたくさんあるらしいですし」


 先生は珍しく愛想笑いを浮かべると、何も言わずにただ頷いた。


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