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本名は神部伊織、39歳、女性。独身らしい。高校までを千葉の鴨川で過ごし、大学入学と同時に東京で一人暮らしを始めた。過去受賞歴なし。デビュー作は『泡沫』という作品で游文社から刊行された。その後、長編4作、短編をいくつか書いている。前に一度、うちで長編を書きかけたらしいがボツになったようだ。気になるのはその時の担当者のメモだが……。
『誤字、誤表記、誤表現に注意!!』
そんなのは当たり前のことだ。それをわざわざ注記するなんて、よっぽど酷いのだろうかと訝ってしまう。
部長の前だからあんなことを言ったけれど、やはり神部先生のところを訪問するのは明日にすればよかったと、後から思った。2人の作家さんのお宅で思いのほか時間を食ってしまったし、変わり者だという先生のこと、文庫をたった1冊読んだだけでは会うのに心許ない気がしたのだ。
例の『階』は電車での移動中に斜め読みで何とかクリアした。いや、実際は斜め読みしてしまったのが惜しいくらいに面白い作品で、後でもう一度じっくり読み返したいとも思った。
作品は、昭和中期を舞台に描かれた愛憎物語だった。主人公の操は旧華族の一人娘として蝶よ花よと育てられた女だ。結婚し子供も生まれ、幸せに暮らしていたが、旅行先で家族とはぐれた際に拉致され、強姦されてしまう。ところが一年後、あることをきっかけに、自分を強姦した相手と恋に落ちる。最後には、男の優しい顔に隠された恐ろしい狂気に気付いてしまうのだが――。
うっかり赤羽駅を乗り過ごしそうになり、慌てて電車を降りた。ホームであとがきをパラパラとめくって、もう一度表紙を見て鞄にしまった。
読み終える頃にはすっかり、主人公の操と神部先生とを重ね合わせていた。先生自身、変わり者であるということ以外に情報は殆どない。そのミステリアスな存在に、『階』における、閉鎖的な環境に生まれ育った深窓の令嬢のイメージが重なった。
あの時代はまだ、女性がそれほど社会的にも、性的にも解放されていなかった頃だ。その主人公の性愛と心の機微を如実に表現してみせた神部先生は、きっと数多くの恋愛を経験してきた、心豊かな繊細な女性に違いないと僕は思いこんだ。
松永さんは先生を4か月の間担当していたけれど、訪問を拒み続けられて実は一度も会ったことがないらしい。その前の担当者は既に退職していて、話を聞くことはできなかった。だから、情報が少ない分、自分で『神部先生像』を作り上げるしかなかった。尤も、『小説を読んで、その人となりを察しろ』が、口癖の部長に言わせれば、これでも十分すぎるくらいの情報かもしれないが。
赤羽駅の東口から出て、線路沿いを真っ直ぐ南に下った。プリントアウトしてきた地図は、コンビニを左折して路地を2回曲がれ、と示している。こんな住宅街にアパートなんてあるのだろうか、そう思った矢先、両隣を一戸建てに挟まれて、今にも朽ち果てそうな建物があるのが目に入った。
えっ……?
思わず足を止めた。地図は確かにこの場所を示しているけれど、失礼な話、こんなところに人が住めるのだろうかと思うほど、古い2階建ての木造アパートだ。
と、呆然と見上げていると、2階の一番手前の扉が開いて中から人が出てきた。毛玉だらけの青いスウェットのズボンに、上は紺色のドテラ、足元にはサンダル履きという出で立ちだ。廊下に置かれた洗濯機の蓋を開けて、タオル数枚とTシャツ、それと、くたびれたブラジャーを取り出した。
僕は驚いた。その人の服装と短い髪を見て、てっきり男だと思っていたからだ。
すると、その人物が振り返り、目が合った。彼女――と呼ぶのは少し抵抗がある――は小さく、「あ、やべ」と洩らすと、そそくさと板張りのドアの中に消えた。化粧っ気のない丸顔に太い黒縁の眼鏡をしていたが、やはり男にしか見えなかった。
鞄から出して手に持っていた神部先生の資料を確認した。住所のところにアパート名はないが、番地の後に『201号』と書かれている。
2階の1号室、201号か。……おいおいおい。まさかアレじゃないよなあ。
アパートの下まで行って、取って付けたような集合ポストで名前を確認した。201号のところに、<神部>とある。間違いないらしい。さっきのは神部先生の男だろうか。こんな古い、小さなアパートで同棲でもしていると?
大分腐食の進んだ鉄製の階段を上った。部屋の主は、『やべ』と言いながら引っ込んだが、姿を見られたのだからまさか居留守は使わないだろう、なんて思いながら。
「こんにちはー」
控えめに言ってノックした。
中でごとごとと音がしていたが、大分あってから、キィと音を立てて扉が細く開いた。
「はい」
さっき見たドテラ姿の、明らかにスッピンの顔が覗く。声まで男みたいだ。
「丸山出版の関本と申します。神部イオリ先生……ですか?」
そうですが、との返答。
「あの、前任者の松永から電話があったと思うのですが、近くまで来たものですからご挨拶に伺いました。少しだけお時間頂戴しても宜しいでしょうか」
はい、と言われるものと思っていた。ところが、神部先生はあからさまに嫌そうな顔をした。
「来なくていいって言ったのに」
そして口元だけ曲げて、ニヤリ、と女性らしからぬ笑みを浮かべる。
「はあ、そうみたいですね。ですが、ご挨拶だけでもと思いまして」
「ふうん。まあいいや」
神部先生はドアを開けたまま中へ戻っていった。その背中を少し見送ってから、お邪魔します、と言って玄関に上がった。シミだらけのコンクリートには、ちょうど靴一足分が置けるくらいのスペースがあり、周りには、新聞の束だの、ビールの空き缶がしこたま詰め込まれた袋なんかが積み上げられている。
その先はキッチンだった。外から見るよりは広かったが、ここにも様々な物や、中身がゴミと思われる袋が散乱している。ステンレスのシンクの中には、長らく放置されているらしい汚れのこびりついた洗い物や鍋が積み重なり、ちょっとした異臭も漂っていた。
ここまで来ると、居室の方もある程度予測がつく。恐らく先生は部屋の真ん中に置かれた炬燵に座り、周りをゴミに囲まれているに違いない。ここは隙間だらけの古いアパートだけど、ストーブはないのだろう。だから部屋の中でもドテラを着込んでいるのだ。
「失礼します」
ガラス障子をそろそろと開けると、沁みついたタールの匂いが鼻を衝いた。それと、少しすえた匂い。
先生は想像通りの場所にいた。炬燵をぐるりと囲むのは、タンスが1つと、テレビ、本棚、スチール製のラック、段ボール箱、積み上げられた書籍、紙類、その他もろもろ。それから例によってゴミの詰まった袋だ。せっかくの角部屋なのに2つの窓は荷物で潰されていて、外からの採光は殆どない。まるで圧迫陳列のように迫りくる物の中にできた、半坪ほどの空間に炬燵があり、上座には先生が座っていた。
床は畳なのだろうが、脱いだ服だのゴミだのが散らかっていて下は見えない。炬燵周りにも足の踏み場がなく、どこでどうやって寝ているのかも疑問だが、これでは定位置と玄関とを行き来することすら困るんじゃないかと、不思議に思った。
神部先生は原稿用紙に向かって煙草を吹かした。
「驚いた、って顔してんじゃん」
顔も上げずに先生は言った。ちょっと面白そうな声だ。
いえ、と小さく返したが、先生を見ることはできなかった。
『階』の操はちょっと世間知らずなところがあったが、清楚で気品溢れるかわいらしい女だった。親が決めた結婚に従い、意志もなく財閥の家系の夫と一緒になるが、それを当たり前のことと信じて疑わないような無垢で素直なところもある。だが、彼女なりに日々の暮らしに幸せを見つけ、穏やかな家庭を築いてもいた。最後は自分を聖母に重ねて例の男を殺してしまうが、崇高なまでの愛は物悲しく、美しかった。ラストシーンの描写は聖堂に施される彫刻の如く、荘厳で、優美で、緻密で、繊細で、且つ匂い立つように……に、……に――。
それを、この先生が……?
作者を知らない方がよかった、とはこのことだ。悲しくて悲しくて、言葉が出ない。
「まあ、座りな。……って、座れないよな」
「はあ。そう、かもしれませんね」
先生はくくっ、と笑った。そして煙草を深く吸い込んで頭を掻く。とても女性と話しているとは思えない。
と、名刺を渡すのをすっかり忘れていたことを思い出し、改めまして、と名刺入れから1枚取り出した。
「関本と申します」
が、ゴミに阻まれて先生のところまで届かない。
「その辺置いといて」
置いといて、って、炬燵にも届かないんだから、どこにも置きようがないではないか。
「あのう、先生……?」
ん?と神部先生はそこで初めて顔を上げた。意を決して言ってみる。
「差し出がましいようですが、少し片づけても宜しいですか?」
「ああ。いいよ」
と、先生。そしてすぐさま原稿用紙に目を戻す。余りこだわりはないようだ。
では遠慮なく、と名刺を一旦ポケットにしまって片づけを始めた。
そこいらに転がっているコンビニの袋に、弁当の食べかすやペットボトルをきちんと分別して放り込んでいく。その間先生は黙々と執筆を続けていた。若い作家さんなのに、今どき原稿用紙に書くだなんて珍しい。片づけながらチラチラと室内を見回していたが、パソコンらしきものはどこにも見当たらなかった。
「先生は今どちらかの原稿をお書きなんですか」
「いや。これは趣味」
「趣味?」
「何か書いてないと落ち着かないからね。読む?」
突然の誘いにびっくりして手を止めた。これだけぶっきらぼうな態度を見せているのだから、なかなか手の内を見せない人かと思っていた。しかも、神部先生ほどの腕前のプロの作家が、趣味で書いている話なんてなかなか読む機会がない。やっと見えた一足分の畳に踏み込んで、嬉々として原稿の束を受け取った。
しかし――。
「これは……」
「なに?」
「すみません、先生。大変失礼なことを申し上げますが……まったく読めません」
すると先生は突然、がはははは、と山男のように笑った。普通、人間笑えば誰しも愛嬌のある顔になるものだ。けれど、先生の笑顔にはこれまたまったく女らしさを感じなかった。
先生はしばらく笑っていたが、あーあ、と言うと、また新しい煙草に火を点けた。吸い込んだ煙を盛大に鼻から吐く。
「それが読めなかったら、アタシから原稿は取れないよ」
そして腕を伸ばして、炬燵の上にあった新聞を手に取った。
ついに怒らせてしまったかと思った。けれど、先生はテレビ欄を見ながら、すぐにまた、ぷっと吹き出した。口に咥えた煙草から、はらはらと灰が舞った。
「……しかし正直だね。どこの編集も必死になって何とか解読しようとするのにさ。開口一番、まったく読めないだなんて」
そしてまた、くくくく、と笑い転げる。
「すみません、失礼なことを」
「いや、いいよ。正直な奴は嫌いじゃない。……よし、その原稿貸してやるから読んでみな。それが読めたら何か書いてもいいよ」
「マ、……本当ですか?!」
「うん、マジマジ。お宅、どこの人だっけ」
申し遅れました、と名刺を差し出した。今度こそ先生の手に渡った。
「ああ、丸山さんの。前に、……誰だったかなあ。あ、大迫とか言ったっけ。おじさんがよく来てたよ、書いてくれって」
「部長が?!」
「あ、そうなの?途中で諦めたのか来なくなったけどね」
そうか、部長が……。
松永さんと、部長のデスクの前でやり取りをしているとき、睨まれてるように感じたのはそのせいか。きっと部長は何とかして神部先生に書かせたかったんだろう。僕は神部イオリ先生なんてよく知らなかったけど、松永さんはあれで部長にはせっつかれてたのかもしれない。
その後、部屋の入り口だけでもと、残りの片づけを済ませてから先生の部屋を後にした。
僕が玄関を出る時も神部先生は見送らなかったし、新聞に向かって煙草を吹かしているだけだった。けれど、とにもかくにも大切な原稿を預けてくれたのだから嫌われてはいないような気がした。