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世間では社内禁煙、少なくとも分煙化が当たり前の時代だ。それなのに、僕が働く職場の天井には、白い煙がいつだって厚い雲のように立ち込めている。
今どきあり得ない――小奇麗な、洗練されたオフィスで働く人は顔をしかめるだろう。けれど、出版社の編集部なんてこんなもんだ。どの机にも書類だの本だのが山積みになってるし、その上、ぽっかりと拓けた谷間には吸殻で飽和状態となった灰皿が鎮座してる。これではいつ火事になってもおかしくないんじゃないか、と常日頃思ってるんだけど。
『そのうち関本君も毒されるよ』
異動で編集部にやってきたとき、周りの先輩たちは口を揃えてそう言った。だけど、言われ続けて早10か月。煙草も吸わず、未だに整然と片付いたデスクを維持してる僕は、ここではすっかり変人扱いされている。
「おーい、関本。ちょっといいかあ」
ある日の午後のこと。昼食から戻ったら、席に着くなり部長に呼ばれた。
今日の午後は予定が詰まってる。これから社内メールのいくつかを処理して、柳先生と折原先生のお宅に原稿の状況を確認しに行って。その後、社内に戻って営業部の小川君と打ち合わせがあるんだ。……ああ、それなのに。
嫌だなあ。また仕事には関係ない、タリーズのエスプレッソ買ってきて、とか、コンビニでセブンスター買ってきて、とか頼まれるんだろうか。
部長のデスクまで小走りで行って身構えた。例に洩れず、部長のデスクも書類や書籍の山だ。摩天楼の如く聳え立つビルの谷間から、ギロリ、と鷹のような目が覗いた。
「部長、なんでしょう」
しゃっちょこばって言う僕を上目遣いに見上げて、部長は悠然と煙草に火を点けた。そして煙を深く吸い込んで、ぱあっと吐き出した。
「お前さ、もう一人くらい作家さん持てるよな」
「はあ」
「この前チラッと話したろ。松永の奴がオーバーワーク気味だから、1人引き継いで貰うかもしれないって」
ええ、と答えた。確かに一週間くらい前、部署の数人で飲みに行ったときに、部長にそんなことを打診されたっけ。
松永さんは僕より5年先輩の男性社員で、入社時から編集部に所属しているベテランだ。作家さんからの評判も良く、上司からの信頼も厚い。そのお陰で難しい先生を大分持たされていて、雑誌の締め切りと単行本の入稿時期が重なると大変なんだと、本人もこぼしていた。
と、部長がおもむろに手を上げた。振り返った先には松永さんがいる。しばらくして、手に何かを抱えた松永さんが横に並んだ。
「悪いね、セッキー。この先生、ちょっと大変だけど悪い人じゃないから頑張って」
作家さんの資料が入ったクリアファイルと、文庫を2冊渡された。文庫の表紙には作品の内容とは関係なさそうな、抽象的な絵が描かれている。『階』と書かれたタイトルの横にある作家名を見た。
「神部イオリ」
「うん。神部イオリ先生。女性だよ。住まいは赤羽の駅から5分くらいのアパートだ。本来なら一緒に挨拶に行くべきところだけど――」
松永さんは急に黙り込んで部長の方を気にした。部長はというと、口の端に煙草を咥えたままこちらを睨みつけている。何やら不穏な空気だ。
「えっと。……行きますか?挨拶」
「いや。断られた。担当替えくらいで来なくていいって。電話もしなくていいって言われちゃったよ」
「そうですか」
僕等はお互い目線を外した。部長はそのやり取りを眺めているだけで何も言わないが――。
なんだか嫌な感じだな。松永さん、神部先生を怒らせたんだろうか。それで今後もうまく行きそうにないから、僕に預けようと……?
所在なく受け取った文庫をパラパラとめくっていたら、松永さんが口を開いた。
「さっきも言ったけど、別に悪い人じゃないんだ。ただ、ちょっと変わってるっていうか……詳しくは後でゆっくり話すけど、これまでにも担当が何度か変わってるんだよ。もしも邪険にされても、先生と仲良くなれた人なんて一人もいないから、余り気にしなくていい」
松永さんが苦笑したから、僕もつられて複雑な気持ちになった。
大体、作家なんてみんながみんな変わり者だ。たとえ嫌われたとしたって、自分のやるべきことをちゃんとやっていれば何も後ろ暗いことなんてない。よし、嫌なことは寧ろ後回しにしないで、今日のうちにやっつけてしまおう。
ということで――。
「それじゃあ僕、ちょうどこれから出掛ける予定なんで、えーと……神部先生のお宅についでに寄ってきます。あ、作品読んでから行った方がいいですよね」
「まあ、そういうのはうるさい人じゃないけど、一つくらいは読んでいくといいね。マナーとして」
松永さんの言葉に納得して頷き、部長に一礼して席に戻った。神部先生のことは追い追い松永さんや過去の担当者に情報を補足してもらうとして。一先ずメールの処理と外出の準備をしなければ。
忘れないようにと、『階』と神部先生の資料を先に鞄に入れ、机の上のパソコンに向かった。