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歳が明け、春になり、凪は受験生となっていた。

その年、凪は初めて父親と大きな対立をした。

凪は当然、本島にある高校に進学して、このまま島で暮らすつもりだったのだ。それが突然、父親が東京の高校を受けろと言い出した。凪が中学を卒業したら、また向こうに戻るつもりだからだ、と。

そんなのはあまりにも勝手だ。特に仕事の都合などではない。父親のまったくの気まぐれだとしか思えなかった。

凪もこちらに引っ越してきた頃のような子供ではない。流石に、父親に意見する事くらいはできるようになっていた。

父親は初めての凪の反論に始めは目を白黒させていたが、ただ一言「もう決めた事だ」と言って、説明という説明もないまま、自室に引きこもってしまった。凪はそれが悔しくて、大きくドアを叩きつけるように閉めて、家を飛び出してしまった。

やはり、その日も夜だった。

浜辺を走りながら、心のどこかで既視感を感じていた。

これと同じような状況を経験した事がある。だとしたら、彼もまた、現れてくれるのではないか。現れて、凪を慰めてくれるのではないだろうか?

だが、心の奥底の期待は裏切られ、凪が走りつかれて浜辺に座り込んでも、一向に沙は現れなかった。

ただ、浜辺には少し肌寒い夜風が吹くばかり。

家にはまだ、戻りたくなかった。まだ、父親と顔を合わせたくなかったからだ。怒りは全く溶けなくて、それが凪の心をトゲトゲとした物に変えていた。

だから、そんな事も思いついたのだ。

父に立ち入ってはいけないと言われた入江の洞窟。いつか、沙が消えていった場所。

(万が一、満ち潮で沈む場所だとしても、今はまだ干潮だし)

沙が入って行ったのだから変な物が棲んでいるというわけでもないだろう。

それに、もしかしたら、運が良ければ沙に会えるかもしれない。

凪は勢い良く立ち上がると、その場所に向かって足を踏み出した。


「凪!?」

覗いた洞窟の中。月明かりに薄っすら照らされたその姿を凪が確認できたと同時くらいに、相手も驚いたようにそう叫んだ。狭い洞窟に、その声はくぐもって反響する。横たえていた体を慌てて飛び起こした沙は、その反動で洞窟の天井に頭を打って「痛っ」と叫んだ。

「沙、こんな時間になにしてるの?こんなトコで」

本当に会えるとはあまり思っていなかった。意外な出来事に凪の心は弾んだが、それと同時に驚きも隠せなかった。

「凪こそなにやってるの?ここには来てはいけないって、お父さんに注意されたでしょう?」

「なんでそれを知ってるの?……大体、沙が来てるのに私が来ちゃいけないっておかしいよ」

沙はいつも困ったような顔をしても、決して強く凪を拒絶しようとはしない。それが分かっているから、凪は強気に出られるのだ。

「そういう問題じゃないんだけどな」

困ったように沙は言って、それからおもむろに凪の手を取る。

「とりあえず、出よう。こんな夜に凪がいないって分かったら、お父さんは心配して真っ先にここを探しに来るよ?」

「ここを?私、言いつけを守っていないって疑われてるって事?」

「そういう事じゃないけどね。子供は、ひかれやすいんだって」

意味が分からなくて首を傾げる凪に、沙は苦笑してなんでもないという風に首を振る。時々、沙がとても大人びた顔をするように見える時がある。この時が、そうだった。そうかと思えばとても無邪気な、本当に子供っぽい顔もするものだから、どれが沙の本当の姿なのか、凪には分からない時もあった。

浜辺に出ると、沙が凪の家の方向に向かって歩き出そうとするので、凪は慌ててその手を引きとめて立ち止まらせた。

「……帰りたくないの。そっちはだめ」

「帰りたくない、って。お父さん、心配するよ?」

「心配させてやるの」

意固地になって言うと、沙は少し思案するような顔をして凪の顔を見つめていたが、やがて凪の頬に軽く触れる。

「そっか。また、爆発しちゃったんだね」

ふわり、と沙は優しく笑う。本当に、泣きたくなるほど優しい笑みだった。

「なら、もう少しだけ一緒にいようか」

久々に会ったはずなのに、沙は思い出の中の姿と全く変わっていなかった。それが、凪にはとても嬉しかった。

凪が頷くと、沙は凪の手を引いて、反対の方向へ歩き出す。

夜の砂浜は、明るい月明かりのお陰でその白さを少しだけ浮き上がらせて、海との境を明確に示していた。まるで作り物のようになだらかに続く砂は、けれども実際に歩いてみると信じられないほど足が沈み込む。少しもたもたしていると足が砂の中に飲み込まれてしまいそうだった。サンダルの中に入った砂を振り落としながらざくざくと音をたてて歩く。その自分の動作に比べてやけに静に沙が歩くものだと見て、初めて沙が素足なのに気がついた。ほっそりとしていて逞しい足は、けれどもとても静かに砂の上を進んで行く。

「この辺で、いいかな」

黙りこくって歩いていた沙が、そう呟いた。

「え?」

不意をつかれて聞き返す凪に、沙は笑う。

「ここまで来れば、簡単にはお父さんに見付からないでしょう?」

言われて振り返ってみれば、随分と遠くまで歩いていた事に今更気付いた。無心に、歩く事だけを頭においていたため、全く気付かなかった。

沙はふわりと砂浜に腰掛ける。凪の手も引っ張ったままだったので、凪はバランスを崩して、派手に尻餅をついてしまった。柔らかい砂の上に不恰好に着陸しながら、少し沙を睨みつける。

「もうちょっと、やりようがあるんじゃない?」

凪のそんな非難もどこ吹く風で、沙はごろんとそのまま浜に横になった。その所作はのびのびとしていて、まるでそうするのが当たり前とでも言うようだった。凪は、それにつられるように同じ事をする。

「わ……。すごい」

思わず呟いたのは、視界一杯に星空が広がったから。

「月が明るいのに、星もこんなに見えるんだ……」

降る様な星空だった。改めて星を見ることなどなかった自分に、今更気付く。

手を伸ばせば届きそうで、だけど届かない事を知っているから凪はただ、感嘆だけを瞳に浮かべてそれを仰ぎ見るだけだった。

穏やかに打ち返す潮騒が常に柔らかく凪を包んでいる。風はあくまでも心地良かった。

そういうものに包まれていると、だんだんと心が落ち着いてくるのが分かる。とげとげとしたものが抜け落ちて、ゆっくり丸くなって行く。

「凪、お父さんと何があった?」

凪の心が完全に落ち着いて、風や潮騒と一体になった気がしてその感覚に揺られていると、ふいに沙が呟いた。

凪は視線をそちらに向けることもせずに、空を見たまま答える。

「勝手に大切な事を決められちゃって、それに腹が立ったの」

「大切な事?」

「うん」

潮騒は同じ規則で、同じ音程で、ゆっくりと耳に馴染む。

そんな音と、沙の声はまるで同化しているように、心地良く耳に馴染んでいた。

「それはきっと、お父さんにとっても大切な事なんだよね。凪を大切にしたいあまりに、大切な事を押し付けちゃったんだね」

「そうかな?私は今のままで充分幸せなのに」

「お父さんは、心配なんだよ」

言って沙は急に、声の調子を明るく変える。

「凪、星を降らせてあげようか」

「は?」

意味が分からなくて振り向こうとした凪を手で制して、沙はゆっくりと言う。

「そのまま、じっと空を見ていて」

言われるままに、凪は相変らず視界一杯に瞬く星を見上げる。

「じっと見ていると、だんだん、星たちが降りてくるから」

落ち着いた、静かな声。子守唄のような心地の良い声。

「きらきら輝きながら、凪に向かって降りてきて、光を振り撒いて、触れるくらいに近くに来るよ」

瞬いている。視界一杯の星。じっと見つめていると天も地もわからなくなってくる。全身が、星たちの中に浮いているような気分になって、世界は夜空で、星と潮騒の他はなにもないような気持ちになってくる。でもそれが、恐ろしくも寂しくも無くて、何故か優しい気持ちになれる。

「ね、降りてきたでしょう?凪を励ましてくれているんだよ?」

星は凪の全身を包んで、優しく癒してくれる。視線が逸らせなくなって、気付けば凪の周囲は本当に瞬く星たちだけになっていた。だけど、隣にいる沙の存在は、繋いだ手が伝えてくれる。

星達は凪に向かって柔らかで眩しい光を放っていた。心地良い浮遊感に包まれながら、凪はその星の光の優しさに、確かに沙の温もりを感じた。


目が覚めると日が登るところだった。凪はいつの間にか家の玄関先で眠りこけていた。当然、沙の姿は隣になかった。

(昨日の、なんだったんだろう?)

どこからが夢で、どこからが現実だったのか、明るい日の下で考えるとよく分からなくなっている。

(まあ、本人に確認すればいいだけだけど)

凪には予感があった。

また、あの入江の洞窟に行けば沙に会えるのではないかという予感が。そして、それが当たったのを知ったのは、その日の夜だった。


その年の春から夏にかけて、凪は勉強の合間などに気分転換と称してよく入江の洞窟に通った。一度入ってしまえば危険なことなどないと分かり、父の注意など忘れてしまった。沙は当初、本当に弱りきった顔をして、何度も凪にやめてと頼んだが、それが無駄だと知ると、もう諦めたように笑って凪の相手をしてくれた。

ただし、一つだけ約束して、と言って。

「お父さんには、僕と会っている事を、絶対にナイショにして」


沙はいつでも穏やかだった。その漆黒の瞳は、無邪気と同時に落ち着いた静謐さを湛えていて、覗き込むと不思議な感慨を凪に抱かせた。いつか抱いた感想のように、やはり海のようだと思うことが多かった。

沙は海の事を色々知っていた。どこにどんな魚が多く棲むのか、そこにどんな珊瑚があるのか、どの時間はどの浜から見る海が、どんな色に輝くのか。

空の事も良く知っていた。雲の形を読んで天気を予測したり、数え切れない星の名前を知っていた。

島の事を、隅々まで知っていた。一番良い風が吹く丘はどこか、食べれる実がなる木はどこにあるのか、どの木にどんな鳥が巣をかけて、どこにどんな動物が棲んでいるか。

凪が頼むと、いつもそういったところに連れて行ってくれた。沙は無口で、黙って進む事が多いけど、凪の通る道を気遣ってくれているのがいつも分かった。沙に何かを喋らせたければ何か尋ねればいいと凪は学んだ。沙は海や空や島の事ならば、尋ねれば大抵、その低めの、穏やかで静かな潮騒に似た音程の声で、ゆっくりと説明してくれるのだった。

沙といる時間はなだらかだった。心地の良い流れに身を浸しているかのように、静かで、ゆっくりとした時間を感じる事ができた。

凪は沙と手を繋ぐのが好きだった。沙の手は凪よりも一回り大きくて、それなのに強く掴む事をせずに、優しく、包み込むように凪の手を掴むのだった。


「凪、嵐の海を知ってる?」

凪が浜辺で貝殻を拾い集めていると、海の彼方に視線を馳せていた沙が突然言った。

「私がここで暮らして何年になると思ってるの?台風は毎年来るし」

「うん。でも、凪はいつも穏やかな海を見ているようだから、知らないかと思って」

「……台風の日は家に閉じこもってるけど」

それでも、台風が去った後の海は水位が上がっていて、波が荒くて、側によるのを少し躊躇わせる何かがあった。

「いつか、機会があったら見てみるといいよ。すごく、荒々しいんだ。僕が似てるなんて言ってられなくなるよ。力強くて、立っているだけで、眺めているだけで恐ろしくて、自然ってこういう物を言うんだって、自分の存在のちっぽけさに唖然とする」

珍しく饒舌な沙に、凪は目を瞬かせる。

「それって、感動したって事?」

その言葉に、沙は少し驚いた顔で凪を見返した。

「感動……?そうか、そうかもしれない」

「え?」

「ずっと、どう言い表していいかピッタリの言葉がみつからなかったんだ。そうか、そう言えばいいのか」

「変なのー」

凪がくすくすと笑うと、沙もつられたように目を細めて笑う。

「あまり、人と話す事がないから、時々言葉に困るんだ。自然の中にいると、言葉なんていらない気になってくる。だけど、凪と話していると人とわかりあうには言葉しかないんだな、って思う」

当然のように、そんな事を言う。確かに、どこか沙には浮世離れした雰囲気があるから、深く考えもせずに凪はそのままその言葉を受け入れてしまった。

沙は慌てて思い返したように付け足す。

「でも凪、忘れないで。僕は危険な事をしろって言っているわけじゃないんだよ?」

「どう言う事?」

「僕の言った事を確かめようとして、嵐の日に海になんてでちゃいけないって事」

「なんでそんな真剣なの」

凪が言うと、息を詰めるような顔で凪に言い聞かせていた沙は決まり悪そうに顔を背けた。

「昔、いたんだ。僕の言葉を確かめるって嵐の日に海に出てきた子が」

「それでその子は?」

一瞬だけ見せた、痛みを堪えるような沙の表情に、凪は悪い答えを予想しながらその続きを待つ。だが、返ってきた言葉はあっけらかんとしたものだった。

「大変だったよ。捜索隊が出るまでの騒ぎになった。なのに本人は、木に登ってまるでなんでもない顔をして海を見てたんだ。お陰ですごく叱られたそうだけどね」

「人騒がせねえ」

凪が呆れた声を出すと、沙は微笑んで凪を見つめる。

「凪に、少し似ているよ」

その言葉で、凪は"その子"が女の子だった事に初めて思い至った。


気持ちがもやもやしている事に気付くのに時間はかからなかった。凪は自分の抱いている感情が何かを見誤る程、子供であるつもりはなかった。だからこそ、真っ直ぐに"その子"と沙の関係を尋ねることができなかった。沙が"その子"の話をしたのは、後にも先にもそれだけだった。


「凪、勉強してんのか?」

そんな声に顔を上げると隣家の敦が無造作にサンダルを脱いで、縁側から上がりこんでくるところだった。行儀悪くアイスの袋を口にくわえていた。

「受験、結局どうしたんだっけ」

「敦、珍しいね」

「夏休みだしな。たまにはお前と遊んでやろうと思って」

本島の全寮制の男子校に通っている敦は、こちらに顔を出す事はめったになくなっていた。久々に見ると、以前見た時よりも背が伸びてしまって、体つきもしっかりとして、顔つきも引き締まり、もう既に半ば大人の仲間入りをしてしまっているのだと嫌でも分かってしまう姿になっていた。

「それこそ、珍しい」

一時期は女と遊んでいてもつまらないと凪を邪険にしていたのに、どういった心境の変化だろう。

「俺も大人になったって事だよ」

「何それ」

凪は少し噴き出して、台所にコップと麦茶を取りに行く。

「俺カルピス」

「そんなもの、ありません」

「ちえ、しけてるな」

言いながらも敦は出された麦茶を一気に呷った。

「で?受験はどうするって?」

コップを縁側の床の上に置いて、改めて尋ねる。

「保留。今のところ冷戦状態。私は島の高校行きたいって言ってるのに」

「そろそろ決めなきゃ拙いんじゃないか?」

「だったら、敦がお父さん説得してよ」

これっぽっちも思っていない軽口を、いかにも簡単に叩ける。敦はただでさえ凪の父親に苦手意識を持っている。あの仏頂面がいつも怒っているようで恐ろしいのだと以前言っていた。

「いいよ?」

「へ?」

「今度お前の親父さんに話してみるよ」

「どう言った風の吹き回しよ?」

驚いて問いかけると、敦はよく日に焼けた顔満面に笑みを浮かべた。

「言ったろ?大人になったって。少しは素直になる事にしたんだ。……お前が島の高校来てくれた方が、俺は嬉しい」

「……素直すぎて怖い」

「なんだよ、それは」

敦は笑って戯れに凪の頭に拳骨をあてる。凪も笑ってそれを受けながら、心の底で何かが変わっている予感を感じた。

「ところで、どこ行く?」

「何が?」

「遊んでやろうと思って来たって言っただろが」

その言葉に、凪は笑う。

「遊ぶって言ってもここら辺じゃ行くトコないよ。あと、私は受験生なの」

「そんな事言ってな。ちょくちょくうちの前通ってどっか遊びに行くくせに」

その言葉に、凪は一瞬詰まる。敦の家の前を通って行く場所は、沙のいる入江だ。だけど、そこは父親に入ってはいけないといわれている場所であるから、簡単に知られてしまっては困るのだ。人の少ない土地だから油断していたが、見ている人はいるものだ。

「それは気分転換にちょっと散歩」

「随分なっがい散歩だなあ」

「放っといてよ……あー、もう、敦がいると全然勉強進まない。帰れば?」

「冷たい事言うなよお」

だらしなく板の間に寝そべらせていた体をむくりと起こして敦は言う。

「勉強見てやっから」

「見れるほど出来るの?」

「馬鹿言うな、島一番の進学校に通ってる俺に向かって」

「……3つしかないうちの一番ね」

憎まれ口を叩きながらも、凪も敦も笑っていた。


ゆっくり穏やかな時間を過ごしているようでも、沙と一緒に過ごす時間がとても早く感じ出したのは、凪がそれを惜しむようになったからだろうか。もう少し、もう少し一緒に居たいといつの間にか心が募っている事に今更気付く。敦に見られたこともあるから警戒しなければいけない、そう思った翌日でもそれは勝って、結局入江に足を運んでしまう。

だけど、凪は気付いていなかった。いや、薄々気付いていても、それの実態をよく知らなかった。敦の好意がもう以前向けられていた物とは同等の感情ではない事を。そしてその感情は、相手への興味を強くさせる事を気付いていなかった。

いそいそと入江へ向かった凪は、敦がこっそり後を付いてきているなど思っても見なかった。敦の方も、凪が誰かと待ち合わせをしているとは夢にも思わなかった。

だから、凪が誰か見たこともない男と一緒にいて、とても楽しそうにしている事や、凪がその男に向ける視線の意味に即座に気付いてしまった事に当然のように打ちひしがれて、とぼとぼと帰路についた。そして、その帰り道でたまたま出会った凪の父親に、その事を話してしまったのは、おそらく親に内緒で会っているであろう凪と男へのほんのささやかな復讐のつもりだったのだ。本当に、それだけだったのだ。


凪と沙はその時、浜辺で貝を拾っていた。沙が言うには上手く削れば綺麗なアクセサリーになる物がある、というのでそれを見繕っていたのだ。沙の黒い瞳は波に攫われた後の砂浜で目敏く綺麗な貝を見つけては、その場所を凪に教えてくれた。

始め、凪は拾うのに夢中で気付かなかった。沙の言葉が突然不自然に途切れた事や、その伸びやかな肢体が硬直してしまった事に。気がついたのは問いかけた言葉に返事がないから。顔を上げた凪は棒立ちになる沙の視線の先を追って、目をむいた。

「お父さん……?」

普段はほとんど家にこもりきりの父親がそこに立っているという、それだけでも驚きなのだ。だが、それだけではなかった。父親は、今まで凪が見たことのないような表情をしていた。

その表情を、上手く言い表す言葉は、思いつけなかった。激しく皺を刻んだ、歪んだ表情。憤怒の表情に、一番近いかもしれない。だけど、その一方で泣きそうな瞳が印象的で、辛そうで、悲しそうで、苦しそうで、だけどそれを打ち消す程にもっと暗い光が宿っているようにも感じた。その感情の名前を探すのに凪は思考をめぐらせて、思い至った時に愕然とした。

(憎しみ、だ)

父親は、そんな色々な感情をまぜこぜにした視線を、ただ沙に注いでいた。まるでそれで射殺そうとでも言うように、一心に、注いでいた。

対して沙は、隣で見ていて哀れに思うほど、青褪めて小刻みに震えてさえいた。

「沙」

父親は確かに、そう呼んだ。沙の体がびくりと大きく跳ねる。

「約束したはずだ。凪には近づかないと」

「……ウン」

沙はまるで金縛りにあったように父親を見つめながら掠れた声で返事をした。

「あんなに約束したじゃないか。凪の前には絶対に姿を現さない。確かにお前は約束してくれただろう?」

「……」

父親の声は、感情を押し込めたように無機質だった。無機質で、冷たくて、底冷えするような憎しみがこもっていた。

「どうして凪とそんな親しくなっているんだ?また、お前は……」

凪は隣に立つ沙の姿に息が止まりそうだった。

いつも明るい顔をしている沙の表情は、いまや完全に怯えに支配されていて、青褪めた唇の下の歯が小さくかちかちと鳴っている。今にも、倒れてしまいそうだった。倒れてしまえばいいのに、そこで踏み止まっているから、今にも壊れてしまいそうだった。

「また、私の家族をめちゃくちゃにするのか?」

ひゅ、と沙が苦しげに息をするのが見えた。体の震えはいちだんと激しくなっている。

(限界だ)

それだけが、分かった。

凪は咄嗟に手を出して、沙の掌を強く掴む。その感触に、沙がハッとしたのを感じた。

「凪……」

「逃げよう」

口を開きかけた沙の行動と、怒りに染まった父親の顔を無視して、凪は沙の手を引いて走り出す。いつもと反対だと思った。だけど、どうしても沙をこの場所から守らなければならないと思った。

隠れる場所ならいっぱい知っていた。沙が教えてくれた場所がたくさんあった。

走って走って、逃げ込んだ力強く茂った原生林の一つに登って父親が追ってこないのを確かめると、凪はようやく沙を振り返った。

「もう、何しでかしたの」

息が荒い、まだ呆然と遠くを見ているような瞳の沙にそう問いかける。沙は少し遠くを彷徨うような顔をした後、やっぱり困ったような顔をした。

凪は構わず続ける。

「うちの父親の仏頂面を崩した人間なんて初めて見たよ。しかもあんな激しく」

「ウン」

「うん、じゃなくて……」

いらいらと言いかけた言葉を、凪は途中で途切ってしまった。唖然として、沙の顔を凝視する。

沙の大きな漆黒の瞳から、驚くほど大粒の、透明な雫がぽとりぽとりと次から次へと流れ落ちてくる。声も出さずに、目を見開いて、ただただ沙は涙を流していた。

「どうしたの?」

凪は声を柔らかくしてそう問いかける。

「悲しいの?慰めてほしいの?」

ううん、と沙は首を振る。

「悲しいけど、慰めてもらってもちっともよくならない。失ってしまったものは、返ってこないから。その喪失を惜しんで、僕は泣いてるんだ」

「じゃあ、私はどうしたら沙が元気になるの?」

凪が問いかけると、沙は突然強く凪の手を握った。

「しばらく、こうしていて」

まるで、縋りつくような手の握り方だと思った。そうしていなければ振り落とされてしまうとでも言うような、心細そうな握り方だった。


「凪、もう帰りなよ」

木の上は涼しい夕刻の風が吹きぬけていた。砂浜にいるよりも星が近くて、それを静かに眺めていたら、不意に沙がそう言った。それで、凪は沙の涙がいつの間にかおさまっていた事に気付いた。

「僕はもう大丈夫だから、うしおのトコに戻りなよ」

「お父さんと、知り合いなの?」

どういう知り合いなのだろう?当然のようにその名前を呼び捨てにする関係。

「友達だったんだ」

「過去形なの?」

「うん」

沙はとても悲しそうに、それでもとても透き通った笑みを浮かべる。

「潮は恐れているんだ。凪が離れていっちゃうのを。強そうに見えて、本当はとても繊細で脆い人なんだ。仏頂面もいろんな物から自分を守るために身につけなきゃしょうがなかったんだ。……とても、悲しい人なんだ」

「どういう関係?」

「それは、潮に聞くといい。潮はきっと、とても心配しているから、一刻も早く帰ったほうがいいよ。僕はもう、大丈夫だから」

沙の声はやはり静かで、潮騒のようだと思った。

「……怒られるかしら」

呟いた凪に沙は確信に満ちた笑みを浮かべる。

「大丈夫」

その声に、後押しされるように、凪は木を滑り降りて駆け出す。

「またくるから」

そう、叫んであとは後ろも見ずに走った。

空には満天の星が散っていた。優しい風は背後から背を押すように吹いてきた。

全てがとても美しくて、少し怖いと感じた。


家の中は静かだった。父の靴はあるのに、明かりはついていなかった。

みしみしときしむ床板をなるたけ音をたてないように努力しながら歩くと、台所のテーブルに顔を手で覆って上体を伏せた父の姿が薄暗い中にも確認できた。その姿は、まるで懺悔をしているようだと思った。

「お父さん?」

小さく呟くと、父親はのろのろと顔を上げる。暗がりのため、表情はよく見えなかった。

近づいて行くと、突然強い力で腕を引かれた。

体中が軋むほど強い力で抱きしめられて、凪は声も出なかった。父親は、凪の肩に顔を埋めて、静かに静かに、涙を流していた。声の一つも漏らさない、悲痛なその泣き方は、どこか沙に似ていると思った。


父親はすぐに引越しをする、と言った。理由は何も言わなかった。沙の事を尋ねようにも、その事には触れないでほしいと空気が語っていた。

翌日にはもう、船に乗せられて、島を離れる事になっていた。


「あ、これ……」

島で後始末をしている父が先に着くようにと送って来た荷物を整理しながら、凪は思わず呟いた。

「どうしたの?凪」

耳聡く聞きつけて、荷解きの手伝いをしてくれていた祖母がそう問いかける。

「お父さんとお母さんの若い頃のアルバム……」

ああ、と祖母は微笑んでそれを受け取る。そして、懐かしむようにゆっくりとページを繰った。

「あんたも、お母さんに年々似てくるなあ」

「お父さんとお母さん、幼馴染?これ、島だよね?随分小さい頃から一緒に写ってる」

「あんたが住んでた家に父さんが住んでて、隣の敦ん家に母さんが住んでたんだよ。幼馴染も幼馴染さ。あんたの母さんも島を愛してる人だった」

「私、お母さんの話、全然聞いた事ないよ?」

「お父さん、今でも好きだからねえ」

とんちんかんな祖母の答えに、凪は首を傾げる。

「どう言う事?」

「傷が痛んで話せないという事だろ。亜沙子とも、色々あったけど、結局手放せないほどベタ惚れだったんは、潮の方なんだから」

「色々?」

凪が尚も問いかけると、祖母は真剣な瞳で凪の顔を覗きこんだ。

「凪、あんたもそろそろ母さんの事、知っとくといいだろう。あんたが父さんに冷たくされる度に説明してやろうかとも思ったけど、まだ幼いから分からないと思って話してなかったんだ」

その祖母の真剣な声音に、凪は姿勢を正して座りなおした。

それを見て、祖母は頷く。

「潮から連絡があったんだ。あんた、沙と会ったんだってね」

突然そんな事を言われて、凪は動揺した。動揺した自分を奇妙に感じて、慌てて頷いた。

「うん。でも、それが関係あるの?」

「あるよ。沙は、あの子は、あんたの母さんの死に関わった張本人だ」

「どう言う事?」

凪は訝しげに首を傾げる。

沙はどう見ても凪と同年代だ。母が死んだのは凪が2歳の頃だから、そんな幼い沙がどうやって母の死と関わってこれるのか、到底想像できなかった。

「お前の母さんって、何で死んだんだと思う?」

「病死じゃないの?」

「そうなら改めてこんな事聞くかい……あの子、自殺したんだよ」

凪は一瞬、眩暈を感じた。まさか、母親がそんな亡くなり方をしているとは思わなかった。アルバムで見る限り、母親はとても明るく朗らかに笑っているようで、こんな人が自殺など考えるとは到底思えなかった。

「なんで……?」

尋ねた声は震えていた。祖母は小さく溜息をつく。どこか、諦めと悔恨をない交ぜにしたような仕方だった。

「お前が、他の男との子供でないかと、お前の父さんが疑っていたからだ」

「私?」

「そう。潮は亜沙子が他の男の事を好きなのだと思っていた。そいつと結ばれないから、代わりに自分と結婚したんだと思っていた。だから、結婚した後も、ずっとそういう想いを抱いていて、言葉も心もすれ違って、どんどんぎくしゃくして行って、上手くいかなくなって……亜沙子はずっと向こうで育ったからこっちで相談する友達もロクにいなかったんだろうね。気づいた時には相当思いつめていて、ノイローゼのようになってしまっていた」

凪はなんと言っていいのか分からずに沈黙した。自分の母親の話だとは思えなかった。だけど、妙に納得したような気もした。父親の流した涙の理由に、少し触れた気がしたのだ。

「それから潮は自分を責めて責めて、それでも亜沙子の面影を宿したお前に真っ直ぐに向き合うことも出来ずに仕事に逃げて、お前ともすれ違って、悪循環だ」

頭の中で色々な事が回っていて、すぐには処理できそうになかった。

ただ、その中で一つの疑問が浮かび上がって、何も深い事を考えずに口にする。

「でも、なんでそれが沙と関係あるの?」

これは、自分たち家族の問題じゃないか。それ以上のことでも、それ以下でもない。

祖母は少し難しい顔をして、それからなんとも複雑な顔をする。

「こんなこと、私も信じられないくらいだからお前も信じられないと思うけどね……亜沙子の好きだった男というのが、沙なんだ」

「は?」

意味が掴めなくて問い返した凪に、祖母は重ねて言う。

「沙は、昔から全く成長しないんだ。そういう子なんだ、あの子は」


いてもたってもいられなかった。通帳と財布を掴んで家を飛び出して、タクシーに飛び乗っていた。信じられない話だけど、どこかで納得している自分がいた。

沙のあの浮世離れした雰囲気。時々見せる寂しそうな顔。そういう物が、沙が普通の人間でないと言われても納得できる何かを感じさせていた。

空港に向かうタクシーの中、昔読んだ、ピーターパンという話を思い出していた。成長できない少年。ずっとずっと、少年のままで夢の島で冒険に明け暮れる。沙はそこまで威勢が良いわけではないけれど、島で自然に囲まれながら穏やかに暮らしていたのだろう。

ずっと一人ぼっちで。

それを考えたら、いてもたってもいられなかった。

祖母の話では、沙はいつ頃からいたのか誰も分からないという。祖母も、凪の父親に聞くまでその存在は知らなかったと言っていた。今も詳しくは知らないのだ、と言っていた。


港で船を下りると、夕暮れの中、父親がのっそりと立っていた。古ぼけたトラクターが側に停車していた。

「おばあちゃんが、お前が家を飛び出していったと大慌てで電話をくれた」

「うん。私、沙に会いに来たの」

凪は目の前の仏頂面を睨みつける様に言う。

「会ってどうする。お前は沙に何もしてやれんぞ。俺たちは沙を追い越してどんどん成長する。やがては沙を残して行く事になる。亜沙子はそれが悲しいと、沙を捨てたんだ」

「……お父さん、沙ってなんなの?」

凪の問いかけに父親はトラクターのドアを開けた。

「家に行こう。乗りなさい」

凪が乗り込むとかかりの悪いエンジンをふかして車を発進させ、それから父は語りだした。

「沙が何かなんて、私だって分からない。亜沙子と入江で遊んでたらたまたま、出会ってそれから仲良くなって3人で良く遊んだ。それだけなんだ……だけど、沙自身が言うには、ずっと昔から島に住んでいたらしい。誰にも気付かれずに、木の上や洞窟や、そういうところを渡り歩いてのんびり生活をしていると言っていた。今はあの入江の洞窟をねぐらにしているそうだ」

「沙は、年をとらないの?」

「本人はそう言っていたな」

「お母さんは、沙の事が好きだったの?」

凪が言った時、父親の顔が辛そうに歪んだ。それでも、凪は続ける。

「なんでお父さんはお母さんと結婚したの?なんでこの島を離れたの?なんで戻ってきたの?」

今まで聞きたくても聞けなかった。どうしても、踏み込めないと思っていた。だけど、そういう遠慮はもうしたくなかった。すべきでないと思えた。父と自分を隔てるものは、そういう遠慮のせいでますます広く深くなっていくように思えたのだ。

「母さんと結婚したのは、それでも私が母さんの事を好きだったからだ。だけど、このまま沙のいる島にいるのは辛かった。二人の事を疑ってしまう自分が浅ましくて嫌だった。それでも、ここにいたら自分に隠れて会っているんじゃないかと疑わずにはいられないように思えたんだ。……結果的には、あまり変わらなかったが」

父親はとても静かに話した。どこか諦めたように、落ち着いていた。

「沙はとても魅力的だった。優しくて、物知りで、本当に島を愛していて、島そのものみたいな男だった。自分が沙に憧れる分だけ、亜沙子の気持ちも分かって辛かった。沙を嫌いになりたくもなかった。そうやって1人で勝手に沙を敵視している自分が、嫌いだった」

それは、懺悔だった。面影の似た凪を亡くなってしまった母へ見立てた、静かな告白だった。

トラクターの振動が、越してきた日と同じように体を細かに揺らしていた。

「ここに帰ってきたのは、亜沙子からの遺言だよ。凪にこの島を見せてあげたかったのか、沙が寂しくないようにと思ったのか分からないけれど」

それ以上、父親は何も語らなかった。凪ももはや聞くべき事は聞いてしまったような気がして、そのまま黙りこくった。

トラクターの窓から最後の夕日が差し込んでいて、父の横顔を照らしているのをただ眺めていた。


凪が入江に行くと、沙はとても驚いた顔をしていた。どうして驚くのと凪が問いかけると、困ったような笑顔で「もう来ないと思ってたから」と言った。


「君たちが引っ越してきた日にね、潮が僕に向かって頭を下げたんだ。土に頭をつけて、凪に近づかないで欲しいって言うんだ」

沙は海を見つめながらそう言った。

「潮は昔とはすっかり変わってしまっていて、僕はそれがとても悲しくて、涙が出た。昔3人はとても仲が良かったのに、いつの間にこんなにすれ違った関係になってしまったのだろうと思うと、とても悲しかった。潮の事は大好きだったから、憎しみを向けられるのは、とても辛かった。潮が悲しそうなのも悲しかった。潮はとても繊細だから、凪が亜沙子のようになってしまうのが怖くって、いつも不安だったんだ。僕と出あったら、君も亜沙子のようになるんじゃないかって」

沙の声はそんな事を話す時でもやはり、穏やかで心地良い耳障りだった。凪は黙って話の続きを待つ。

「あの二人は、初めての人間の友達だったんだ。色んな事を教えてくれた。自然の中で1人で生きることしか知らなかった僕に、人と話す楽しさを、触れ合う温かさを、会えなくて寂しいと思う気持ちを教えてくれた」

「うん」

「あの2人がいなくなってから、僕は人間が恋しかった。寂しかった。……だから、潮との約束を破って、凪がこっちに来てからは、ずっと隠れて凪を見ていた。凪に見付かってしまった時も、潮を怒らせてしまうと思ったけど、本当は嬉しかった」

思いがけない言葉に、凪は目を見開く。沙はふふ、と笑って話を続けた。

「凪と会っているのが見付かった時、また潮を怒らせてしまう、これ以上、憎まれてしまうと思ったら本当に怖かった。完全に、悪いのは僕はだから。あんな必至に頼んでいた潮との約束を、裏切ってしまったんだから」

沙は悲しそうに目を伏せて、続けた。

「君のお母さんは、本当に君のお父さんが好きだったんだよ?だけど、君のお母さんはとても優しくて、優しいから僕の事を哀れんで涙を流してくれたんだ。可哀想ねって頭を撫でて、労わってくれた。僕が、僕だけがここで一人ぼっちであまりにも可哀想だから、自分もお嫁にいけないって言うんだ。……だから、勘違いなんかされちゃうんだ」

沙はとても悲しそうに、少し悔しそうにそう言った。

「うん。沙、話してくれてありがとう」

凪は言って、少し身を乗り出してこぼれ落ちた沙の涙を指で辿る。涙に濡れた瞳は黒々と輝いて、本当に美しいと思った。吸い込まれそうなその瞳を真っ直ぐに見つめて、凪はきっぱりと言う。

「私、私は沙の事大好きだよ?他の誰よりも大好きだよ」

「……うん、ありがとう。僕も凪が大好きだよ。でもね」

沙はその濡れた瞳を、綺麗に細めて微笑んだ。それは、染み入る程優しくて、悲しいほど透明な笑顔だった。

「もう、過ちは繰り返せないんだ。僕はもう、潮を裏切れない」

顔に触れていた凪の手に触れて、軽く押し返す。凝視する凪の視線の先、沙の歯並びの良い口が「さよなら」と形作った。


凪は一心に帰路を歩いていた。少し早足で、大股に足を踏み出す。

空には満天の星が散っていた。

しばらく歩いて、入江から遠ざかって、ようやく凪は立ち止まって空を見上げる。

(あの星は、あの日沙が降らせた星と同じだろうか)

月が細くて星が明るい夜だった。

吹きつける風は、そろそろ本格的に肌寒いと感じる時期になっていた。微かに、気の早い秋の虫が鳴き始めるのが聞こえる。それが、とても寂しかった。

見上げていた星がふいに滲む。

何を見るにつけても、思い出してしまう。

忘れられるわけがない。この島は、彼そのもののような島だ。

優しくて、静かで、穏やかで。

「う……」

すとん、とその場にへたり込む。最初の一声が出ると、後はもう止まらなかった。

「うわあああああ」

天を仰いで、喉が裂けるかと思うほど、大声を上げて、凪は泣き崩れる。涙が溢れて、地面に落ちる。泣き声はどこまでも、星空に吸いこまれて行く。

「うわあああああああん」

まるで子供の泣き声だった。小さな幼児が母親を恋しがって泣くような、助けを求める切実な泣き声。

過去を思い出しても、そんな大声を出して駄々を捏ねた事は、一度もなかった。

泣き声を聞きつけた足音がこちらに駆けつけてくる。幼い頃から求めて止まなかった大きな手だ。

凪は泣き続けながらそちらへ手を伸ばす。

駆け寄った大きな温かい手が、凪の手をしっかりと握った。

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