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その島は、深い青い空と光の加減で青や緑や銀に色を変える美しい海が印象的な、静かな優しい島だった。


荷台に大きな荷物を積んで、長閑な静けさを掻き分けるように車のエンジン音が響いていた。あちこちに傷を作って、酷使されつくしたように見えるそのトラクターを運転するのは中年を過ぎた男で、いつでも刻まれている眉間の皺を今日もまた伸ばそうともせずに、仏頂面でハンドルを握っていた。

その隣の助手席には少女が1人、退屈そうに窓枠に頬杖をついて流れ行く風景を眺めていた。風にはためく少し丈の合わないワンピースは、ここに来る前に祖母に作ってもらったものだが、父親はそれに対して何の感想を漏らそうともしない。少女にはそれが少し不満で、寂しくもあった。

都会に住んでいた父親が突然引っ越すと言い出したのが数週間前。既に故郷を出て息子である少女の父親と同居していた祖父母が驚いて止めるのも聞かず、元より少女の意見などに聞く耳を持つはずもなく、さっさと手続きをすませてしまった父に、少女は呆れて言葉も出なかった。大慌てで荷造りなどを始めたため、友人たちとしみじみと別れを告げる暇も無かったほどだ。

ばたばたと荷造りをして、飛行機と船の日程を決めて、荷物を送って。

そうして現在港で受け取った荷物と共に、父が購入した中古のトラクターで新居へと向かう所だった。父から今度の引越しについての説明は全くなし。それについて、非難をする事も問い質す事もできないのは、長年のぎくしゃくした関係のせいだ。実の親子と言っても父は仕事浸りで、少女はほぼ祖父母に育てられたようなものだった。それなのに、突然引っ越すと言ってまるで当然のように自分を連れてくるんだから呆れてしまう、と少女は思う。

―――そんな事に、文句も言わないでついてくる自分も呆れちゃう。

目に映る風景は美しい物だった。静かな優しい感じのする島。父と母が生まれ育ち、少女が生まれる直前に離れた島。

初めて見るそこには憧れもあったけれど、やはり少女にとっては憂鬱の方が強かった。


新居と言うにはいささかおこがましい。古ぼけた木造の家を、それでも少女は数日で気に入った。広く取った縁側は海に向かっていて、心地良い海風を運んでくれた。

父は大抵は部屋に篭って何か書き物をしていた。3食の時に少女に簡単な食事を作る他は部屋から出てくることもしなかった。ただ一度、父が外出したのは家に来た初日だけで、少女にちょっと出てくる、と言い置いて、どこかへ行ってしまった。帰ってきた父にどこへ行っていたのか尋ねると、いつもと同じ感情の読めない表情で「古い知り合いのところに挨拶に行っていたんだよ」と言った。

そんな生活で少女が退屈をしないですんだのは、近所に住む親戚だと言う家族のお陰だった。いつも1人でいる少女を気遣って、その家族はよく世話をしてくれた。そこには、あつしという少女より2つ年が上の少年もいた。その辺りで少女と歳が近いのは彼だけだったため、少女は始終彼と遊んだ。夏が終わって学校の時期になると、彼の家族に車で送ってもらって、彼と一緒に学校に通った。

だが、その敦も歳が上がるにつれて、段々と少女に付き合ってくれないようになり、少女はまた、ひとりぼっちになった。

そんな時、少女は彼とであったのだった。


夏休みに入ってすっかり暇になった少女は、その日も1人で海を散策していた。

島に越してきてから既に3年が経っていた。父との関係は相変らずだけど、中学生になった少女は、今は父がどうして自分によそよそしいか推測できるようになっていた。それに大きく手助けしたのは、家の押入れにしまいこんであった古いアルバムだった。父が幼い頃住んでいたというその家には父のたくさんの思い出が残っていたのだ。

つまり、少女の面影が、少女が幼い頃に亡くなった母親そっくりなのだ。その面影を見て、悲しみを蘇らせるのを怖れる。そのために、たったそれだけのために、父は少女の顔を直視できなくて逃げ続けているのだ。少女はそう、解釈していた。

隣家の人は相変らず優しいけれど、そこには少女と同世代の人はいなくて、少し息が詰まる。学校の友人とは良い関係を作れているとは思うけれど、いかんせん学校が遠すぎて簡単に遊ぶ事も出来なかった。

だから、少女が日中する事といえば宿題をやるか本を読むか、それに飽きたら海へ出て気ままに散策するしかなかったのだ。

海を散策するのは嫌いではない。1人遊びも、幼い頃から慣れっこで辛くは感じなかった。

時には日が落ちるまでのんびりしている事もあった。

海には少し潜れば魚がたくさんいたし、珊瑚を育むその海は、場所や時間によって色彩を変えるから、見飽きる事が無かった。越してきたその日、父に絶対に行ってはいけないと言われた場所があって、そこさえ注意して入らなければ、他は自由にどこでも行けた。

その時少女は長い浜辺を素足で歩いていた。海を渡る風はいささか肌寒いほどに涼しくなっていて、夕暮れが近い事を教えていた。そんな中、オレンジ色に染まる空の下で、普段は決して見かけないものを見つけたのだ。岩場の影に膝を立てて、蹲る様に、身を隠すように座っている影。ここいらにいるのはせいぜい漁師たちばかりなのに、その影は漁師という割には体格が完成されていないように見えて、少女は興味を引かれて近づいた。

そっと、岩場の裏に回りこんで様子を窺う。

意外なことに、そこにいたのは少女と同年代の少年だった。日に焼けた健康的な体をまるで悪い事をしたかのように縮こめて、大きな、吸い込まれそうなほどに真っ黒な瞳が、少女が近づくのを少し困ったように見つめていた。

「こんにちは」

少女は思い切って、声を掛ける。少年は、やはり困ったような顔をして、それでも「こんにちは」と言葉を返した。

「何をしているの?」

「別に。海を見ている」

「じゃあ、私も一緒に見ていい?」

少女が尋ねると、少年は即座に首を振る。

「駄目だよ」

「なんで?海はあなたのものじゃないでしょ?」

思わず少女が反発すると、少年は困ったように言う。

「海はどこでも見れるんだから、君はどっか別の場所にいけばいい」

「ここじゃ悪いって事もないじゃない」

少女は言って、開き直ったようにその場にどしんと腰を下ろした。

本当は、久々に会う同世代の存在が嬉しくて、もっと仲良くなりたいと思ったのだ。

「私、なぎって言うの」

少女は腰を下ろすやいなや、少年の顔を覗き込んで口を開く。

少年はまるで知っているとでも言うように「ウン」と頷いた。それ以外に、言葉を発しようとはしない。

「うん、じゃなくて。あなたは?」

「イサゴ」

聞き慣れない単語に、少女は目を瞬かせる。

「いさご?」

「うん、こう書いていさご 」

少年は、砂の上に『沙』と書いて見せた。

「変わった名前」

「ウン」

少年は無口だった。だから、凪は会話を続けるために更に話題を探さなければならなかった。

「沙はここらへんに住んでるの?」

「うん」

「どこ?私はあそこの家なんだけど」

「3年前に引っ越してきたろ?」

「知ってたの?」

「君のお父さんが挨拶に来た」

同世代の子供がいるって知っているのに、なんで父は教えてくれなかったのだろう?凪は少々不満に思いながらも話を続ける。

「知ってたんなら、遊びに来てくれてもいいのに」

「それは、ちょっと難しいんだ」

沙は言って困ったように微笑んだ。

「凪、もう、帰った方がいいよ。お父さんが心配する」

「しないわよ」

即座に返答したため、沙が不思議そうに首を傾げる。

「なんで?」

その行動があまりにも純粋に不思議そうだったので、毒気を抜かれて凪は大きく溜息をついた。

「嘘。分かってる。心配きっとしてるよ。だけど、心配してたって心の中だけなのよね。口には絶対出さないんだ」

「そういうのが、難しい人だっているよ」

そう言って沙は立ち上がる。

「僕ももう、帰るよ。だから凪も帰りなよ」

だが、凪は立ち上がらずに、視線だけで沙を追いかける。

「……また、会える?」

沙はやっぱり、困ったような顔をした。

「会えなくたって、どうって事無いよ」

「私は会いたいの。もうずっと、1人なんだもん」

言っても沙は困った顔をして微笑んだだけだった。

「さよなら、凪」

「……」

睨みつける凪に手を振って、沙は凪の家とは反対の方向に歩いていく。

(……きっともう、ここには来ないつもりだわ)

そう考えると、心の中でもやもやとしたものが湧いてくる。父といい、沙といい、少し酷い気がするのだ。自分を避けるその態度が、

小さくなっていく沙の背中を見つめて思う。

(家をつきとめてやろうかしら)

このままこっそり後を追っていけば、沙がどこに住んでいるのかわかるだろう。

空はそろそろ藍の色が迫ってきて、宵の明星が輝き出していた。

片手に引っ掛けたサンダルを履きなおして、凪は思い切って足を踏み出した。


(どうしよう、ここって、入っちゃいけないって言われてるとこよね)

大きく窪んだ入江にある洞窟の前で、凪は戸惑って足を止めた。

たしかに、沙はこの中に消えて行ったのだ。凪が父に「絶対に入るな」と言われているこの洞窟の中に。

(家に帰るなんて言っていて、私をだましたのね)

そう考えると、悔しいような気持ちになるが、それでも父の言いつけに背く事は躊躇してしまう。

(とりあえず、ここで見張っていればまた会えるって事よね)

それが分かっただけでも良しとしよう。

そう考えて、凪はようやく家へと足を向けたのだった。


「凪、今日はちょっと出かけてくるから」

父の言葉に、畳の上でうつ伏せに寝そべって宿題をしていた凪は顔を上げた。いつの間にやら、気配を感じさせない父がのっそりと立って凪を見下ろしていた。

「お買い物?だったら私も連れて行って欲しいんだけど」

父が出かける用事といったらそれしか思いつかず、凪はそう問いかける。この辺りには商店らしき商店がない。学校の側にはあるから普段はそこで着るものや日用品を調達しているが、夏休みの今、学校に行く用事もなく、そういう機会でもないと買い物ができないのだ。

「買い物じゃない。以前世話になった人が本島で講演をされるそうなんだ。それで、是非来てくれと。かなり遅くなるかもしれないから、戸締りはしっかりしておいてくれ」

「わかった」

言いたい事だけ言い終わると、父はまたのっそりと戻って行く。

いつごろ帰って来るの?、本島へ連れて行ってくれないの?などの言葉がいくつも凪の頭の中をぐるぐると駆け巡ったが、結局口にする事はできず、2、3度金魚のように口をパクパクとさせた後は、大きく溜息をついて諦めて宿題に視線を戻した。

ノートの上には√や%などの面倒くさい数字が並んでいて、凪はもう一度溜息をつくと、ごろんと仰向けに体を返して目を瞑った。


目が覚めてすぐ、薄暗いのにびっくりした。がばりと体を起こすと、体にかけてあったタオルケットがばさりと落ちる。一瞬何が起こったのか分からなくて、それを握り締めながら頭をめぐらせて、ようやく自分が昼間、宿題途中に眠ってしまった事に気付いた。

起き上がって電気をつけて確認すると、きちんと戸締りがされている。体にかけてあるタオルケット共々父がやってくれたのだろう。

テーブルの上にもそれらしいメモなどはなく、ただ人のいない気配だけがぽっかりと空いたように広がっていた。

(そういえば、この家で1人になるのって初めてかも)

いつも凪が学校に行っていて父が一人で留守番をしている事はあっても、その逆はあまりない。買い物などは凪がついでにすませてくるし、父は知り合いが多い方でも趣味が多い方でもない。

(普段いてもいなくても同じって思ってたけど)

寝起きで急に、だからだろうか?なんだかとても心細い気がする。薄暗闇の空間は、どこか殺伐としていて空虚だった。

たまらず凪は財布と鍵だけを持って家を出る。

特に行くあてはなかった。だけど、どうしても1人でいたくなかった。

外に出ると、そんなに真っ暗と言う程でもないのに少し安心した。まだ宵の口で少し明るいし、今夜は月も明るい。

父が帰って来るまで隣家に居させてもらおうと思い、歩いてすぐの気心知れたその家を垣根越しに覗く。だが。

縁側を通して見える風景。それは、家族の団欒だった。敦とその兄弟や両親と、祖父母とが、笑い合いながら夕食の卓を囲んでいる光景だった。

望めばそこに入れてもらえる。現に、そうする事も普段は多いのだ。

だけど、この日に限って凪はどうしてもその足を踏み出す事が出来なかった。なんだか自分がとても場違いに思えてきて、今の気持ちのまま、その中に入れるとはとても思えなかった。

耳を通り抜ける話し声、笑い声。

凪は足に力を込めるとさっと身を翻し、駆け出した。特に目的も行く場所もなかった。だから、がむしゃらに、足が赴くままに走った。だけど、行き着く場所が海でしかない事も、凪は知っていた。そこにしか、自分の居場所がないと知っていた。

忌々しく足を捕える砂を蹴るようにして走る。何かを吹っ切るように、ただ、もどかしさを振り払うように走った。サンダルが砂に深く沈みこむ。それを蹴り飛ばすように乱暴に足を動かし続けるが、とうとう耐え切れずに、足を取られてその場に激しく転倒した。いちど倒れてしまえば、起き上がる気力はもうなかった。

「馬鹿みたい」

ふいに出た呟きはそんなもの。

「これなら、ばあちゃんと一緒に向こうにいた方が良かったのに」

そのほうが、まだ寂しさが紛らわせたのに。

星が散る空が滲む。それが悔しくて、きつく腕を顔にあてた。


微かな物音を耳が捉えたのは少しして気持ちが落ち着いてからだった。何気なくそちらに目をやって、凪は仰天する。いつの間にか、いや、始めからいたのだろう。沙が驚いた顔をして、少し腰の引けた体勢で息を詰めるようにして凪を見つめていた。

「……何、見てるの?」

不機嫌にそう言うと、動揺したように慌てて視線を逸らす。

「凪が、突然来て、走り回って倒れたから、びっくりして……」

(そりゃあ、びっくりするよね)

凪自身は色々なもやもや感を吹き飛ばすためにやった事でも、傍から見れば奇行にしか見えない。

「そっか、ごめんね」

言って半身を起こす。その顔を、沙がぬっと覗きこんだ。

「何?」

「涙」

言って沙は、人差し指で凪の頬を軽く触れる。

「げ……そういうの、見ないフリできないの?」

「だって、泣いてたって事は悲しい事があったって事でしょう?それなら、慰めてあげた方がいいんじゃないの?」

沙は不思議そうにそう言ってにこりと笑う。

「凪がそれで元気になるって言うなら見ないフリするけど」

「今更遅いよ」

凪は言って、大きく溜息をつく。

「別に、大したことじゃなかったの。ただ、日ごろからすこーしずつ溜め込んでる嫌な気持ちがあって、そういうのを、時々爆発させてあげないと耐えられなくなっちゃう……そういう事じゃないかな」

「凪はそれを爆発させてたの?」

「うん」

「じゃあ、もう平気なんだ?」

「多分。でも、もうちょっと、しばらく一緒にいてくれたら嬉しいかな」

言うと沙は少し考えるようにして、それから頷く。

「うん、いいよ。元気の無い時は一人でいたくないもんね」

そう言って、いかにも自然に、当たり前の様に凪の手を取る。

「こうしてると、少し寂しくないよ」

「……うん」

手の温もりが、確かに自分が一人でないことを伝えてくれる。それが、とても心を落ち着かせる。

とても、静だった。天にはたくさんの星が散っていて、月も明るく照っていた。

海はただ静かに潮騒を奏でていて、それが耳に心地良い。

「沙はこの海みたいだね」

不意に凪はそう呟く。

「え?」

「前はそんな風に見えなかったのに……頼りなくって情けないって正直思ったけど、今はなんだか海みたい」

「どういう意味?」

「上手く言えないけど……安心する」

「そう?それは、嬉しいな。僕、海は好きだよ」

「うん。私も好き。……この島も好き。この島は、なんだか優しい感じがするの。だから好き」

凪が言うと、沙はこぼれる様な笑みを凪に向ける。

思わず見惚れる凪に、沙は言う。

「うん、凪がそう言ってくれると嬉しい。島もきっと喜ぶ」

少し早くなった鼓動をなだめるかのように、優しい風がそっと吹いた。


その日以来、沙と会う事はなかった。

どんなにあの浜辺をうろついてみても、入江の前で待ち伏せしてみても、沙は現れなかった。

気に掛かりながらも学校が始まって、凪はまた、忙しい日常に戻っていった。

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