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携帯から流れる着信音で目が覚めた。おもむろにベッドから上半身だけを起こし、サイドテーブルに手を伸ばす。壁にかかった時計を見ると、時刻は朝八時を回っていた。
「せっかくの休みなのに。こんな朝早くから誰だよ」
文句を言いながら携帯の画面に目をやると、メールが一通届いていた。今週末にオフ会をやるから所沢の「黒猫モジャカフェ」に集合と書いてある。差出人は、自分自身を“アタシ”と呼ぶあのオカマだ。俺は基本的に面倒臭そうなものには近寄らないようにしている。よって、オフ会なる集まりにも顔を出す気は毛頭なかった。
「今日は病院の日でしょ? ちゃんと行くのよ、わかった?」
母さんが心配そうな顔で、皿を洗う手を休めてダイニングテーブルに座る俺の方を向いた。
「わかってる。これから行こうとしてたんだよ」
「せっかく開校記念日で休みなのに。病院に行かなきゃいけないなんて可哀想だわ。悠ちゃんの足を噛むなんてどこのバカ犬なのかしら。躾ができてないペットなんて歩かせるべきじゃないわよ。こっちは三針も縫う怪我だっていうのに」
俺は「大丈夫だから」と小さく言い、ぬるくなったコーヒーを一気に飲み干して席を立った。
「行ってきます」
母さんに聞こえるように大きな声で言い、玄関のドアを閉めた。歩いて五分もしない場所にバス停がある。そこからは病院行きの直行バスに乗ればいいだけ。時刻表を確認して時間きっかりに到着したのに、まだバスは来ないようだ。時刻表によれば五十分には来るはずなのに、今日もバスは五分以上遅れているようだった。俺は昔から待つのが嫌いだ。ムシャクシャする気持ちを抑えられず、目の前の「停留所」と書かれた棒を足で蹴り上げた。ゴンッという大きい音と共に、すすけた銀色の棒が少しへこんだ。
「ひどい……」
ふいに背後から若い女の声がした。振り返ると、裾がふわっと広がった膝丈の白いワンピースに黒いストッキングを履き、白いフリルのついた傘を持った美女が顔を歪めていた。胸元には大きな赤いリボンがついており、丸い襟の下には校章が小さく刺繍されている。見覚えのあるこの制服は、聖マヌエル女子高のものだ。
「モノに八つ当たりするなんて」
白いフリル傘の女は呆れたような顔を浮かべ、ため息をついた。丸くて大きな瞳で俺をキッと睨み、頬をピンク色に染めて腕組みをしている。
「子どもだって見ているのに。私が今ここで通報したら、器物損壊で捕まるわよ」
バス停に並ぶ親子連れの視線を背中に痛いほど感じながら、俺は軽いパニックに見舞われていた。
「ねぇ、ちょっと! 無視してないで何とか言いなさいよ」
白いフリル傘の女は赤い唇を尖らせながら、一歩、二歩とジリジリ近づいてきた。そしてあと数センチでお互いの体がぶつかるというところで、バスがプシューと大きな音を立てて急停車した。十分以上の遅れを取り戻すかのように、荒い運転でもしてきたのだろう。いつもの停車位置より十センチ以上離れて停まった。俺は高鳴る心臓の音を耳の奥で聞きながら、目の前でドアが開くのをスローモーションの映像を観るかのように見つめていた。まるで風邪を引いた時のように、頭が熱く、ボーっとしている。
「早く入ってください」
白いフリル傘の女は俺の腕を細い指でつかんだ。ドアが開いたのに一向に足を動かそうとしない俺を見て、既にバスに乗り込んでいた数人の乗客も不思議そうな顔を浮かべていた。「発車します」という声がはるか遠くで聞こえたような気がした。そして、次の瞬間――。俺はバスの床に思いっきり投げ出され、尻もちをついてしまった。キャーという声と同時にバスは再び急停車し、運転手と白いフリル傘の女が駆け寄ってきた。
「お客さん、大丈夫ですか? 立ち上がれますか?」
運転手は青ざめたような表情で、俺に話しかけた。
「気にしないで運転してください」
「怪我はないですか?」
「大丈夫ですから」
「でも……」
「いいから戻ってください」
俺の強い口調に圧倒されたのか、運転手は不安そうな顔でチラチラと後ろを振り返りながら運転席へ戻って行った。
「どうぞ使って」
白いフリル傘の女は、泣きそうな顔のままで俺の右手にハンカチを握らせた。
「手首から血が出てる。手当てしなきゃ」
ハンカチをよけて手首を見ると、床で擦れた皮膚から血が滲み出ていた。出血量の割に痛みは感じなかった。
「いいよ、平気だから」
俺は平静を装いながらも、ドキドキと強く胸を打つ心臓の鼓動に明らかな動揺を感じていた。「総合病院前」とアナウンスが流れたのを聞き、「次で降りるから」と俺は下を向いたまま口を開いた。バス停に着くなり、俺は早歩きで外へ出た。運転手はまだ心配そうな顔を浮かべていたが、これ以上恥の上塗りをしたくないという俺の気持ちを察したようで無言で送り出してくれた。
「あの……」
病院に向かって歩き出した瞬間、ふいに背後から声がした。振り返ると、俺のすぐ後ろに白いフリル傘の女が困ったような顔で立っていた。
「え? なんで?」
「私のせいって思われたらヤだし。それにハンカチも」
「同じの買って返すよ」
「無理よ。そのハンカチ、日本では売ってないから」
白いフリル傘の女は、肩より少し長い黒髪を揺らして俺の横に並んだ。女の横顔を見た瞬間、俺の心臓は再びキュっと締めつけられ、途端に息ができないような苦しさを覚えた。
「ハンカチはクリーニングに出してから郵送する。連絡先はここに書いて」
俺はジーンズのポケットからクシャクシャになったガムの包み紙を出し、わざと冷たく突き放すような口調で言った。