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教室に入り自分の席につくと、あかねと洋人がいつものように俺の隣にやってきた。
「その足、一体どうしたのよ」
あかねがビックリしたような顔つきで尋ねた。
「別に」
「機嫌悪いなー」
あかねは小さくつぶやくと、「悠は秘密主義だもんね」と言いながら洋人の方を向いた。
「お前が怪我するなんて珍しいじゃん。とっくに部活なんて辞めちゃったのにさ」
「さっき足引きずってたでしょ」
あかねは早口でそう言うと、「いつでも肩貸してあげるよ。悠なら大歓迎」と明るく笑った。洋人はそんなあかねを見て、不満そうに頬を膨らませた。
「俺にはやってくれないのかよ」
「あ、先生だ」
あかねと洋人は前をちらっと見て、自分の席へ戻って行った。
「それでは一時間目の授業を始めます」
白いブラウスの上にベージュのジャケット、そして黒い膝丈のタイトスカートを履いた大山が教室の壇上に立った。
「起立」
日直係の覇気のない声が遠くで聞こえた。俺は皆より一歩遅れ、右足をかばうようにしてゆっくりと立ち上がろうとした。その瞬間、大山のピシャリとした声が教室中に響き渡った。
「櫻井君、ダラダラしないで」
「先生っ、櫻井君は足を怪我しているんです」
間髪入れずに、あかねが声をあげた。
「あら、そうなの。じゃ、無理に立たなくていいから」
大山は俺の方を見て、意味ありげな微笑を浮かべた。生徒たちが着席した直後、突然誰かの携帯から大きな着信音が流れた。
「授業中、携帯の電源は切るって決まりでしょう。一体誰なの?」
大山が腕組みをしてイライラしたような声をあげた。生徒は誰も声を出さず、教室はシンと静まり返った。
「決まりは守らないといけないわ。もう高校生なんだからそれぐらいわかるでしょ? 学校に携帯なんて必要ないのよ、本来は。でも、あなたたちのお父さん、お母さんがうるさいから学校は仕方なく許可をしてあげているわけ。そもそも授業中に電源が入っているなんておかしいわよね? 授業を聞く気があるのなら、先生への敬意を示してほしいわ。私、ルールを守れない生徒は嫌いよ」
結局、一時間目の国語の時間は説教で始まり説教に終わった。大山は興奮すると熱く持論を語り始め、チャイムがなるまでぶっ通しで喋り続ける。生徒たちが飽き飽きした表情を浮かべていてもお構いなしだ。
「櫻井君、ちょっと」
大山はチャイムが鳴り終わるのと同時に、俺の机の方に歩いてきて手招きをした。
「この前の話なんだけど」
「この前?」
「櫻井君の生活態度について。もう忘れちゃった?」
「あぁ、覚えてます。だけど、別に話すことはありません」
「私にはあるのよ。とにかく放課後、進路相談室に来て。いいわね?」
「今日は時間がないんですけど」
「じゃ、お母さんに連絡するわね。あなたのそのサボり癖について相談しないといけないから」
「は? 親には関係ないはずです」
「いいえ、関係あるわ。あなたが来ないなら親御さんを呼ぶしかないわね」
俺は胃がキリキリ痛むのを感じながら、強引な人間は罪だと思った。自分の意見を盾に他人の気持ちを潰してしまうのだから。そのうえ本人には罪悪感がまったくないから余計に性質が悪い。
ホームルームが終わった後すぐに、進路指導室の引き戸を開けるとそこには既に大山が待機していた。
「まずは座って」
大山は教室の真ん中に置かれた二人掛けのソファーに座っており、俺には目の前にある向かい側のソファーに座るように言った。
「まずはお礼を言わないといけないわね」
「お礼?」
「櫻井君がいなかったら、私パニックになっていたと思うの」
「俺は何も」
「この前の地震の時……」
「あぁ、そういえば」
うっすらとした記憶が頭の中に蘇ってきた。
「櫻井君って実は優しい子なのよね。それがわかって嬉しかった」
大山の声に被さるように、聞いたことのあるメロディーが突然カバンの中から鳴り響いた。
「ごめんなさい、電話だわ」
大山は小走りで部屋の隅まで行くと、小声で話し始めた。
「学校には電話しないでって言ってるでしょ。何度言ったらわかるの? 今日はちゃんと病院に行くから。だからそこで待ってて。いい?」
携帯を左手に握ったまま、大山は浮かない表情で戻ってきた。
「とにかくお礼だけでも伝えられて良かった。本当にあの時は助かったわ。私、子どもの時に大きな地震を経験してて。それ以来揺れが怖いの。恥ずかしい話なんだけど、あの時は体が硬直して動かなくなっちゃって」
大山は照れたように頬を赤く染め、ドアの方へ歩きながら言った。
「今日はもういいわ。帰って」
俺は肩かけカバンを手に取ると、進路指導室を後にした。外靴に履き替えて校門を出ると、今まさにオレンジ色の太陽が家と家のすき間に沈みこもうとしていた。春の風が、頬をひんやりと刺激する。まるで俺の乾いた心を突き刺すかのように冷たく、重い。地震が起こったあの日、俺は無意識に大山の怯える姿と昔の母さんの姿を重ねていた。母さんは俺の父親に捨てられた後、他の男と付き合い始めた。相里という名のモヤシみたいな男だった。相里はアルバイトでパチンコ屋の店員をしていたが、うちに転がり込んで間もなくヒモ男に成り下がった。母さんはピアノとモデルスクールの講師をしながら、四歳の息子とヒモ男に飯を食わせていた。最初は「不景気だから仕方がないのよね」と相里に同情的だった母さんも、日に日に仕事を探すよう催促するようになり、口喧嘩が絶えなくなった。その頃からだろうか――相里が母さんに暴力を振るうようになったのは。母さんがぶたれるたびに、蹴られるたびに、俺は叫んだ。「やめろ!」と何度も何度も泣きながら懇願した。母さんの前に立って男から浴びせられるパンチを受け止めようとした。でも幼かった俺は簡単に張り倒されてしまった。俺は無力だった。できることといえば、隠れて祈ることだけだった。布団の中で頭から毛布を被り、神様に「ママを助けてください」と毎晩涙が枯れるほどに祈り続けた。そんなある日、相里はキッチンで料理を作っている母さんに「別れよう」と告げた。俺はドア越しに相里の声を聞き、ついに神様が母さんの味方になってくれたんだと喜びに体を震わせた。ところが――母さんは予想外の言葉を口にした。
「私を捨てないで。一人にしないで」
母さんは相里の背中にしがみついた。だが、それを力いっぱい肩で振り払うようにして、相里は家を出て行った。カレーライスの匂いが漂うキッチンで、母さんは顔を床に伏せて大粒の涙を流し始めた。ティッシュ箱が空になってしまうんじゃないかってくらいに涙を流し続けた。俺は静かに母さんの背中に回り、後ろから力いっぱいぎゅっと抱きしめた。
「ママは一人じゃない。僕がいるよ。僕が守ってあげるから」