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「悠ちゃん、悪いけどお母さん今日は遅くなるから。晩ご飯は適当に作って食べてて」
「わかったよ。気をつけて」
俺は自分の部屋にこもったまま、ドア越しに話しかける母さんに返事をした。晩ご飯なんて何でもいいのだが、自炊をするのは面倒だ。近くのスーパーで適当な弁当でも買って来ようか。いや、どうせ一人で食べるのだから豪勢に好物の寿司でも取ろうか。胸の奥で渦巻くチリチリする気持ちを抑えつけるように、食べ物の事に意識を集中させようとした。母さんはきっと今夜、西園寺と会うのだろう。俺は言いようのないイライラを無理やり胸の中に閉じ込め、紺色の前開きパーカーを手に取ると、財布を尻のポケットに入れ、そのまま玄関を出た。ボーっと夕焼けを眺めながら川沿いの土手を歩いていると、急に何かにぶつかった。キャンという甲高い声と共に、足に鋭い痛みが走った。下を見ると、白い物体が足首に食らいついているようだった。
「すみません! 大丈夫ですか?」
突然背後から、少し高めの男の声がした。男は数メートル後ろから全速力で俺の方に走ってくる。
「コラ! モコ! ダメじゃないの!」
白い物体は犬だった。モコと呼ばれる犬は、俺の右足首に噛みついていたようで、ジーンズの裾を少し上げると、白い靴下に赤いシミが広がっていた。その男はますます顔を青くして、「キャー大変! 今すぐ手当をしないと」と小さく悲鳴を上げながら、俺の足首にそっと触れた。そして「あの、病院がすぐ近くにありますから一緒に……」と男は慌てふためいた様子で言った。
「触んなよ」
「え?」
「だから、触んなって言ってんだよ」
男はあわてて俺の足首から手を引いた。
「お前、犬の躾してないだろ。ちゃんと紐ぐらい持ってろよ」
「血が出てるし念のために病院に行った方がいいわ。あと、これは紐じゃなくてリードって言うの」
「そんなことよりさっさと消えてくんないかな」
男はオロオロしたような表情で、再び足首を見つめた。
「消えろって言われても、アタシこのままじゃ帰れない。ダメよ、絶対にあなたを置いて行けない」
男は“アタシ”という一人称を使い、手をくねらせながらしゃべり続けた。
「ここじゃなんだし、そこの喫茶店に入りましょ。連絡先とかも紙に書いて渡したいし。治療費も全額払わせて」
黙り続けていると、男は懇願するような目つきで両手をすり合わせてきた。
「一分でいいの。手間は取らせないわ」
俺は不穏な気持ちのまま、喫茶店に入った。断るべきだったと後悔しつつも、男のしつこそうなオーラに圧倒されてしまったのだ。男は窓際の奥の席に座り、俺はその向かい側に座った。
「自己紹介をしてなかったわね。ごめんなさい。白井鼓太郎です。この子はモコ。一応血統書つきのチワワなんだけど、今発情期で気が荒いのよ。本当に申し訳ないことをしてしまったわ。足はまだ痛むわよね?」
黒いエプロンをした初老の店主らしき人物が注文を取りに来た。鼓太郎はモコの背中を撫でながら、「私はいつもの。こちらの方にも同じものを」と告げた。
「あらヤダ、つい勝手に注文しちゃったわ。あのね、ここのパフェがすっごくおいしいのよ。甘いものは苦手?」
「いや」
俺は短く返事をして、そのまま下を向いた。
「あなたもスイーツ好きなのね。アタシ、食べるのも作るのも好きなのよ。甘いものって人生を豊かにしてくれるって思わない? 日本で男がスイーツ好きなんて言うと気持ち悪いって思う人もいるみたいだけど。そんなこと男女平等の精神に反しているわよねぇ。男だってカフェのテラスで堂々とパフェを食べたいのよ」
俺は黙って鼓太郎が喋っているのを聞いていた。
「そうそう、アタシね最近Minっていうサイトで新しいグループを始めたのよ。スイーツ好きな男子だけを集めて少人数のオフ会をやるのが夢なの。みんなでスイーツ批評をしたりして。楽しそうでしょ?」
「さっきから男、男って言ってるけど、その話し方は何なんだよ。なんか女みたいで気色悪りぃんだけど」
「あらー、気づいちゃった? アタシ、名前は鼓太郎で古風な日本男児なんだけど、中身はそうじゃないの。完全な女の子でもなく、完全な男の子でもない。不思議でしょ」
「はぁ?」
「勢いでカミングアウトしちゃった。うふふ」
「マジで意味わかんねぇよ」
「意味なんかわかんなくていいの。ここのパフェを食べれば、そんな下らないことすぐに忘れちゃうんだから」
マスターがパフェをテーブルに上に置いた。
「当店特製のベリーズパフェです」
高く渦巻くソフトクリームの上には、ストロベリー、ラズベリー、ブルーベリーの三種が混ざったソースがたっぷりとかかっていた。
「溶ける前に早く食べて、ね?」
鼓太郎は片目をウィンクさせてそう言った。言われるがままに、ゆっくりと口の中にスプーンを運ぶ。シンプルな見た目とは違い、口の中に今まで経験したことのない深い味わいが広がった。ベリー三種の爽やかな酸っぱさと、濃厚な生乳のテイストが絶妙にマッチしている。
「うまい」
俺は思わず口を滑らせた。
「でしょ? でしょ? やっぱり通にはわかるのよね、この味が」
鼓太郎は頬を紅潮させたまま、ガタンと立ち上がった。そしてマスターの方に向かって親指を立て、「おいしいって! やっぱり世界一の味よ」と大声を出した。幼稚園児のようにはしゃぐ鼓太郎を見ていると、なんだか急に憎めないような感情が胸を支配し始めた。
「櫻井悠」
「え?」
「俺の名前。自己紹介してなかったから」
鼓太郎は満面の笑みを浮かべた。
「教えてくれて嬉しいわぁ。悠くん、よろしくね」
「悠でいいよ」
「大学生?」
「いや、高校生」
「どうりでお肌がすべすべで綺麗だと思ったわ。ティーンだけが持つ輝きを放ってるの。こんな美男子と出会えるなんてアタシってツイてる! 今日は最高のハッピーディよ」
「言っとくけど、俺ゲイじゃないから」
「そんなことわかってるわよ。予防線を張らなくたって一目見たらわかるんだから。悠は最初からノーマルだって思ってたわ。でも、顔はもろアタシのストライクど真ん中! 目の保養ね、目の保養」
じっと俺の顔を見つめる鼓太郎の視線に耐えかね、すぐに話題を変えた。
「ところでさっき言ってたグループの話なんだけど」
「スイーツの?」
「そう」
「『男子スイーツ倶楽部』よ。アタシが管理人なの」