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もう少し実家に泊まっていくという鼓太郎を残し、翌朝は最寄り駅まで鼓太郎母に車で送ってもらい、電車で帰ることになった。家までの距離は長かったが、気晴らしにはちょうど良かった。車窓からボーっと外を眺めていると、このまま知らない土地で毎日を過ごすのも悪くないと思えてきた。
夕方近くになり、リビングの窓から日が沈むのをじっと見つめていると携帯にメールが届いた。差出人は宮川美衣。用件は、たったの一言「さようなら」と書かれていた。このさようならが意味するのは、恋人関係に対するものなのか、それとも金輪際会わないということなのか。俺にはわからなかった。文脈から判断しようとしても、メールの本文が一行しかないのだからわかるはずがない。読んだ瞬間は心臓が止まるかと思うぐらいのショックを受けたが、心は思ったよりも鈍感で麻痺をしたかのように何の感情も持たなくなった。もっと悲しみに暮れてご飯が食べられなくなったり、動悸が止まらなくなったりするのかと思ったが、案外平気だった。普通に夕飯を食べ、風呂に入ってベッドに横になった。だが目を瞑ると、漆黒の中から白っぽく光る文字が浮かんできた。
さ よ う な ら
この5文字は浮かんでは消え、消えてはまた現れる。チカチカしたライトをみているようで頭がズンと重くなった。ふいに鼓太郎が前に一度連れて行ってくれたオカマバーのことを思い出した。ミルという女(正確には男)は元気にやっているだろうか。どうせ眠れないのだから、ちょっと外の風にでも当たってくるとするか。俺は浴室でシャワーを軽く浴びて汗を流すと、黒いズボンに黒地のシャツ、黒い野球帽に黒いスニーカーというまさに黒ずくめの格好で外に出た。夜の街を歩くには、少しでも目立たない格好をしていったほうがいい。単純にそう思ったのだ。
夜の新宿はうるさい。色の強いネオンが自分を見てと言わんばかりに自己主張を繰り返す。右を見ても左を見てもそんな調子だから、早くどこか静かな場所に入りたいと思ってしまう。オカマバーの場所はうろ覚えだったが、行けばなんとかなると思っていた。けれど、現実というのはいつもそんなに甘くはない。それでも行ったり来たりして小1時間ほどウロウロしていると、「ねぇ」と後ろから肩を叩かれた。
「君、さっきから何してるの」
振り返ると、白い半そでのセーラー服を着た女が立っていた。
「そっちこそ誰ですか」
「あたし? ふふっ、花の女子高生」
俺は腹を抱えて笑いたい気分だった。どうひいき目に見ても女子高生には見えないのだ。安っぽい生地のコスプレ衣装を着た30過ぎのオバサンといったところだろう。
「補導されますよ」
俺はわざと話に乗ったフリをした。
「君こそ。未成年でしょ」
「はずれ。21」
咄嗟に適当な年齢が口から飛び出した。
「ふぅん。どう見ても10代って感じだけど。まぁいいわ」
「ところで駅ってどっち?」
「あ、迷子になっちゃった? 可愛いっ」
女は赤いマニキュアを塗った指を口に当てた。
「ガキ扱いするなよ」
女は手に持っていたプラカードのようなものを小汚い店の壁際に置くと、「子ども扱いは嫌ってわけね。じゃあ大人の遊びでもしようか?」と言って俺の顔をまじまじと見た。
「何だよ」
「特別プライスで」
決してブスではないし、性格が悪そうにも見えない。今この瞬間だけでも、あの5文字が頭から消えてくれればいい。少しの時間でもいいから美衣の顔が頭から消えてくれれば本望だと思った。
先導するようにして女はホテルの門をくぐると、常連だとわかっているのか受付の婆さんは何も言わずに鍵を渡した。ドアを開けると、女はすぐにシャワーを浴びると言って浴室へ行った。女が出てくると、俺もシャワーを浴びるように言われた。安っぽいボディソープとシャンプーのボトルを眺めていると、なんだか無性に自分を殴りたいような気持ちになった。だがもう一方で、可哀想な自分を慰めてやりたいという気持ちも消せなかった。
浴室から出ると隣に大きな鏡と洗面台があった。鏡の中の自分は、知っている自分ではないように思えた。同じ顔をしたどこかの知らない誰か。そいつが鏡の向こうで「ばっかじゃねぇの」と呟く。
「まずは髪でも拭いたら?」
ベッドの方から声が飛んできた。女はフフっと笑うと、タバコに火をつけた。
「ドライヤー使う?」
「いらない」
髪の毛から雫が滴って毛羽立った絨毯にいくつもの染みを作った。
「髪まで洗うことないじゃないの」
女は俺の顔を見ると「初めてでしょ、こういう所」と言って含み笑いをした。俺は少し力を入れて女をベッドに倒すと、そのまま覆いかぶさるようにして首筋に唇をつけた。
「キスマークは困るんだけど。これでも一応商品ですから」
俺は聞いていないフリをして貪るように喉元へ唇を強く押しつけた。
「ねぇ、櫻井悠君」
ふいに名前を呼ばれ、俺の体は硬直した。
「なんで?」
「定期券」
女は俺の目の前で期限の切れた通学定期券をひらひらさせた。黙って女の体から離れると、隣にゴロンと寝転がった。
「シャワー浴びてる隙に財布見ちゃった」
「金入ってなかったろ」
「今どき3000円なんてね。クレカもないし。苦労してんのね」
女は余裕そうな表情で口角を上げると、俺の体の上に乗っかってきた。
「これくらいはサービスしてあげようか。夏休みの思い出にね」
にたっと笑うと女は足の方に移動し、ベルトに手をかけた。その瞬間、何か得体の知れない嫌悪感に胸が圧迫されて息をするのも辛くなった。
さ よ う な ら
白い文字が目の前でまたチカチカと点灯を始めた。鮮明な映像は頭の中でじわじわと広がり、壊れたビデオレコーダーのように何度も繰り返し繰り返し再生される。
「具合悪いの?」
女の手はベルトを外し、ファスナーを下げようかという所でぴたりと止まった。俺は深く頷くと、大きなため息をついた。
「水持ってきてあげる」
グラスを受け取り、一気にミネラルウォーターを流し込むと一瞬だけ文字が消えた。だが、またすぐに戻って来るような気がして何もする気が起きなかった。
「ここで一晩休んだら?」
「いや、帰る」
「もうお金は払ってあるから。あんたがいてもいなくてもあたしは構わないわよ。どうせそろそろ仕事に戻らなきゃいけないんだし」
女はさらっと言うと、「高校生に夜の新宿はまだ早いわよ」とささやいて俺の頬にキスをした。
「そんな驚いた顔しないで。最初からわかってたわよ。男は化粧で誤魔化せないからね。こんな商売してると年齢ぐらいすぐにわかるようになるわ」
自信たっぷりなその物言いに、返す言葉がなかった。
「何か悩みでもあるんでしょ」
俺は頷いた。
「最近別れたとか?」
再び頷くと、女は「未練たらたらね」と言った。
「自分の気持ちを無理に抑えるから未練になるのよ。諦められないって素直に伝えればいいじゃないの」
「それが許されない相手でも?」
「何? 高校教師とか?」
「妹。父親が同じ腹違いのな」
「ふぅん。で、認知はされてるの?」
「認知?」
「そう。父親はその妹かあんたを認知してるのかって聞いてるの」
「妹は父親と暮らしてる。俺は認知されてない」
女は事も無げに「じゃあ問題なしね」と言った。
「知らんぷりして付き合っちゃえばいいのよ。認知されてないんでしょ?」
「ってかさ、なんでそんなに詳しいわけ?」
「知り合いでいたのよ。あんたみたいなのが。とにかくね、具合悪くなるほど悩んじゃダメ。あたしがこんなこと言うと無責任なんだろうけど」
女は俺の背中を軽く2、3回叩いた。
「好きなら真っ直ぐ進めばいいのよ。あんたの気持ちに嘘がないなら、堂々としていればいいの」
「けど向こうはもう会いたくないんだと思う。さようならってメールが送られてきたし」
「ああ、よくある、よくある。女ってあまのじゃくなのよね。会いたいのに会いたくないって言うような生き物だから。取り扱い注意よ」
女は明るく笑うと、「ああ、次のお客の時間だわ」と呟いて、夜のネオンの中へ消えて行った。