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 無言でハンドルを握った鼓太郎は、数キロ走って公園のような場所で突然車を止めた。

「アタシ、ダメだった」

 鼓太郎は声を震わせてハンドルに顔を突っ伏した。

「いつも怒ってばかりの父ちゃんがあんなこと言うなんて反則よ」

「だからって泣くなよ」

「泣いてない。泣いてないよ」

「本当に意地っ張りだよな、お前は」

「だったら教えてよ。どの面下げてオカマになりましたって言えるのよ」

「これはあくまで俺の意見だけど」

 鼓太郎はパッと顔を上げてじっと俺の目を見た。

「きっと大丈夫だと思う」

「なんで? どうしてそう思うのよ」

「ただの勘」

「勘? あんたの勘を全面的に信じてぶち当たれっていうの? そんな賭けみたいなこと絶対にできないわよ」

「別にいいけど。俺には関係ないし。けど一生後悔するかもな」

 鼓太郎はしばらく黙っていたが、「一晩考える」とだけ言って再び車を走らせた。


 その夜、鼓太郎は「疲れた」と言ってすぐに布団に入り、眠りについた。今夜の宿は鼓太郎の実家から車で20分ほどの距離にある小さな民宿で、クーラーの効きはあまりよくなかったが、田舎のせいかさほど暑いとも感じなかった。六畳ほどの小さな部屋に布団を2つ並べると、真っ直ぐに歩くスペースもない。俺は自分の布団をささっと畳むと、座椅子に腰をかけてボーっとテレビを見つめた。昼間の楽しかった時間とは裏腹に、夜は寂しかった。鼓太郎の背中を見ていると、無性に泣きたいような気持ちになってくる。

 湿っぽい部屋に入ると気持ちも湿っぽくなる。そういうものだ。俺はフロントらしき所に部屋の鍵を預けると、外へ散歩に出た。頭上には幾千の星が閃めいていた。手を広げて待っていると、掌に小さな星達がたくさん落ちてきそうな気がした。掌が星でいっぱいになったら中を覗いてみよう。そんなふうに子どもじみたことを真面目に考えながら歩いていると、ふと自分の周りに灯りがないことに気がついた。自分の足元さえもよく見えない。そうだ、携帯で鼓太郎に電話をかけよう。ポケットをまさぐってみたが、何も入っていなかった。あ、一度浴衣に着替えた時にポケットから出してテーブルの上に置いたんだっけ――。俺は急に叫び出したいような気持ちになった。暗闇の中に入ると、自分がどこに立っているのかもわからなくなる。声を出していないと、本当にこの闇の中に消えてしまうのではないかという錯覚を起こすのだ。もしこのまま自分が自分ではなくなってしまったら? ふとそんなことが頭をよぎった。次に目を覚ました時には、もう自分は自分ではないかもしれない。そして俺はこの世からいなくなる。いいや、最初から存在してなかったのかもしれない。今までの人生は全て幻想か何かで、最初から現実ではなかったのかもしれない。そんなことを考えていると、「自分」とは一体何なのだろうと思った。自分が自分だと思っているものは本当に自分なのだろうか。頭がおかしくなりそうだった。考えすぎておかしくなりそうなのか、それとも頭がおかしいから考えすぎるのか。悶々としたまましばらく歩いていると、突然ぼうっとしたオレンジ色の光が目に飛び込んできた。街灯だ! 光を求めて、光の方へ一直線に走った。街灯の先に浮かび上がる小さな一軒家。小2時間ほど歩いてやっと民家を見つけた。電話を借りようと思い、「すみません」と少し大きめの声でドアに向かって呼びかけた。

「はぁい」

 数秒経ってどこかで聞いたような間の抜けた声が聞こえてきた。ガラガラと横開きの戸が開いたかと思ったら、昼間見た顔が驚いたように「あらぁ」と言った。

「王子様じゃないのぉ。道に迷ったんでしょう?」

 鼓太郎母は入んなさいというジェスチャーで俺の背中を押すと、玄関の戸を素早く閉めた。

「ここら辺は蚊が多いからね。夜は玄関灯を消してしまうんだ。よくうちがわかったねぇ。暗かったろう。迷ってしまったんだろう。ああ、可哀想にねぇ。さぁ、早く中に入んなさい」

 促されるまま玄関に上がると、鼓太郎父が居間から顔を出した。

「ああ、さっきの子だね。急に帰るものだから気になっていたんだよ。大丈夫かね?」

 鼓太郎父の柔らかい口調になぜか涙が出そうになった。

「疲れた顔をしているね。君は名を何と言った?」

「櫻井悠です」

「ああ、そうだった。すまないね、年を取ると記憶力が悪くなってしまう。今いくつなんだね?」

「17です」

「高校生かい?」

「はい」

「そうか。もう少し上に見えるな。落ち着いているし大人びた風貌だからだろうね。けど、よく見るとやっぱりあどけなさが残っている。そりゃそうか、まだ高校生だったんだからな。それにしても17か。いいねぇ、若いってのは。夢はあるのかい?」

「ありません。何をしたいかも思い浮かばなくて」

「まぁ17なら焦ることはない。君は賢そうだし、大学に入ってからよく考えても遅くはないだろう」

「お父さん、固い話はもういいじゃありませんか。王子様もだいぶ疲れているんだし。ね?」

 鼓太郎母はウィンクをすると、「今日はうちに泊まっていきなさい」と言って微笑んだ。

「遠慮しなくていいんだ。お母さんの教え子なんだから。堂々と世話になりなさい」

 鼓太郎父も歓迎するかのように温かい笑顔を浮かべた。

「あの、電話を借りても?」

「どうぞ」

 鼓太郎母はテレビのすぐ横にある電話台の前に案内してくれた。すぐに受話器を取り、電話番号を押す。だが番号がすらすらと出てこない。途中までははっきり覚えているのだが、末尾2ケタがどうしても思い出せないのだ。52だったか54だったか45だったか……。

「どうした?」

 鼓太郎母が話しかけてきた。1分以上もここに立って首を傾げていたら誰だって不思議に思うだろう。

「番号が思い出せないんです。携帯に登録されているので暗記してなくて」

「あぁ、携帯電話も困ったもんだね。緊急時にはなんの役にも立たないねぇ」

 俺は何とも言えない恥ずかしさに苦笑いを浮かべた。

「電話帳を貸すかい?」

「いいえ、知りたいのは鼓太郎の携帯番号なんです」

「あ」

 鼓太郎母の顔色が変わった瞬間、自分がどんな愚かなことをしたのかを思い知らされた。すぐそばに鼓太郎父がいることをすっかり忘れていたのだ。いや、忘れていたというより意識していなかった。一刻も早く鼓太郎に連絡を入れなければという焦りと、電話番号を失念してしまったという恥ずかしさで、今最も大事なことを隅に置いたままにしていたのだ。時間を1分前に戻してこの発言を取り消せたらどんなにいいだろうと思った。背中に刺さる視線と凍りついたような空気が恐ろしく、鼓太郎父の表情を確認する勇気はなかった。

「電話番号はね、ここに貼ってある」

 鼓太郎母は何事もなかったかのように、電話台の前に掲げられたコルクボードのようなものを指さした。その一覧の中に“鼓太郎”と書かれた番号があった。

「悠? 無事なの? どうして携帯置いていなくなるの!」

「ごめん。今お前ん家」

「どういうこと?」

「道に迷って辿り着いたのがお前んとこだった」

 ふいに後ろからコホンと乾いた咳の音が響き渡り、いつもの調子で喋ることができなくなった。

「無事なのね?」

「ああ」

「怪我とかしてない?」

「大丈夫」

「本当ね?」

「大丈夫だから」

「今から行くから。待ってて」

 鼓太郎の声が遠くで聞こえてきた。今俺の頭の中は鼓太郎父のことでいっぱいだった。電話が切れたのにまだ受話器を持ったままなのは、俺がこの親父を怖がっている証拠なのだろうか。

「櫻井悠君と言ったね」

 後ろでしわがれた声がした。どうやら俺が意味もなく受話器を持っていることに気づいたらしい。

「君はうちの息子の友達だね?」

「はい」

「この学区で櫻井さんと言えば……」

 この人の前で嘘をつき通すのは無理だ――俺はそう直感した。

「君はこの辺の出身じゃないだろう。こんなに目鼻立ちの整った子は見たことがない。それに4~5年前の卒業生で櫻井という名字の子どもはいなかった」

 背中を鋭い刃物で切りつけられたかのようなショックを覚えた。もう覚悟を決めるしかない。潔く嘘を認めて怒られよう。殴られたっていい。俺もこの人を騙した共犯なのだから。

「教え子ではないんです」

「やっぱりそうか。じゃあどうして嘘なんてついたんだ?」

「あれは、あの、事情がありまして、どうしても正直には言えない事情が……」

 冷や汗をかきながら口ごもっていると、玄関からガラガラと戸が開く音が聞こえた。バタバタという大きな足音が近づいてきたかと思ったら、「悠!」と鼓太郎の声が部屋中に響き渡った。さっきまで浴衣で寝ていたというのに、わざわざ昼間の格好に着替えてきたのだろう。メイクの中途半端さがどれだけ急いで駆けつけたかを物語っている。

「鼓太郎なのか?」

 ふいに背後から鼓太郎父のしわがれた声がした。俺は自分の耳を疑った。今、この親父は“鼓太郎”と言わなかったか? 鼓太郎の顔を見ると、驚きで目を白黒させていた。

「だったら、どうする?」

「そうか。お前なのか」

「父ちゃんどうして殴らないの? 息子がこんな惨めな姿になっちゃってどうして怒鳴らないの?」

「それは……」

「だって昔から厳しかったじゃない。嫌いなニンジンをこっそり残した時だって怒鳴られたし、テストで80点台を取った時だって怒鳴られた。それにマラソンでトップ10に入れなかった時も怒られたし、近所のガキ大将にいじめられた時だって言い返す根性もないって怒鳴られた。父ちゃんいつも怒ってたじゃない」

 鼓太郎はいつになくひどく興奮していた。

「すまんな。あの頃は教師としての体裁ばかり気にしていた」

「そうよね。父ちゃんはいつも体裁が第一なのよ。それなのにどうして……どうしてアタシを追い出さないのよ!」

「お前はお前だからだ」

「そうだよ。お前はあたし達の息子なんだよ。いや、娘でもなんでもいいんだ。大切な子どもなんだよ。だからもっともっと顔を見せておくれよ。避けないでおくれよ」

 鼓太郎母は目に涙をためて、鼓太郎の手に触れ優しく撫ぜた。

「けど、アタシ母ちゃんにも父ちゃんにも孫の顔を見せられないんだよ。男として普通の人生は歩めないんだよ。それでもいいの? 近所の連中に後ろ指さされてもいいっていうの? そんな子どもを受け入れてくれるっていうの?」

「音信不通になってから色々な事を考えたよ。正直に言うと、最初はお前をずっと責めていた。あれだけ大切に育ててきたのにどうして急に顔を見せなくなってしまったんだろうってね。元気かどうかもわからない。どこで何をしているのかもわからない。近所からは親不孝者だと言われて私も悲しかった。けれど、お前は昔から心の優しい子だったね。いじめられている子や泣いている子がいたら自分の立場なんて考えずに助ける。そして自分が代わりにいじめられても相手を責めることなくニコニコしている。そんな子だったろう。だからね、家に帰って来ないんじゃないなくて、家に帰って来られない事情があるんじゃないかって考え始めたんだよ」

「父ちゃん……」

「とにかく待とうと思ったんだ。いつかこうして会える日が来るはずだと思った。そしてその日が来たら、どんな事があっても、どんな事を言われても受け入れて温かく迎えようって決めていたんだよ」

 鼓太郎は立ったまま声を出して泣いた。

「でも、まさか昼間のべっぴんさんが我が息子だったとはね。度肝を抜かれるってのはまさにこういうことを指すんだな」

 鼓太郎父がおどけてそう言うと、鼓太郎母も続けて「王子様と付き合ってるならあたしは喜んで賛成するよ。どうせなら嫁さんより婿さんの方がいいからねぇ」と笑いながら言った。

「ほらほら、泣いてないでお茶でも飲みなさいな」

 鼓太郎母は昼間飲んだものと同じお茶を運んできた。

「王子様もほら」

 クーラーのない部屋で熱いお茶を飲むと、じわっと額に汗が滲んだ。ソファに並んで座る俺達に「今夜は泊まっていきなさい」と鼓太郎父は言った。

「そうよ、朝ご飯はここで採れた美味しい焼き魚定食にしてあげるからねぇ。母ちゃん張り切っちゃうよ」

 鼓太郎母は腕まくりをすると、「下準備、下準備」と楽しそうに言いながら台所の方へ消えて行った。

「父ちゃん」

 鼓太郎は父親の方を見つめると、「ありがとう」と照れたように口を開いた。父親は新聞に目線を落とし、「ああ」と同じく照れたように返した。

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