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4時間ほど車を走らせてやっと鼓太郎の実家に到着した。少し青みがかった瓦屋根に大きな庭がある今どき珍しいくらいの田舎風情の家。玄関は横開きの引き戸で、上の方には木彫りで白井と名字が刻み込まれている。表札を掲げずに木の枠に名前を彫り込むとは変わった趣味だなと思った。一歩一歩と玄関に近づいていくと、鎖に繋がれた芝犬が訪問者を確認するかのように小屋からぬっと顔を出した。だが、すぐに興味なしといった表情で顔を引っ込め、昼寝を再開した。
「おい、犬」
俺の声に犬は無反応だった。
「タラコよ」
「は?」
「この子の名前」
「なんで?」
「なんかタラコっぽくない?」
「何が? どこが?」
「わかんないかしらねぇ。このタラコっぽさが」
鼓太郎は大げさにため息をついた。
「とにかくね、この子はお利口さんなの。犬好きの人にはちゃんと反応するのよ」
「あっそ」
俺の気のない返事に躍起になったのか、鼓太郎は急に猫なで声を出し始めた。
「タラコ、タラコ、アタシよ、お兄ちゃんよ。帰って来たのよぉ」
鼓太郎は犬小屋へ一歩ずつ近づいて行ったが、タラコは一向に反応を示さなかった。眠たそうに半目を開けて鼓太郎の動きを目で追うだけで、外へ出てこようとはしない。
「あれ? 変ね。ボケちゃったのかしら」
「混乱したんじゃない? 香水の匂いで」
「そんなことないわよ」
「なぁ、犬はいいから早く入ろうぜ。ずっとここにいたら日が暮れるぞ」
そう急かした直後、斜め後ろの方から「うちに用事かい?」と少ししわがれた声がした。振り向くと、両手いっぱいにキュウリとトマトを抱えた老婆がポカンと口を開けて立っていた。
「母ちゃん、俺だよ」
鼓太郎の声はいつもより低く、話し方も男そのものだった。鼓太郎の男の声に慣れていない俺は妙な違和感を覚えた。だが同時に、男と女の話し方、声のトーンも自由自在に変えられるとなると、これはこれで便利な気もしてきた。いたずら電話やしつこいセールスの撃退に丁度良い。
「はぁい? あたしゃこの人知らないよ」
間の抜けた声が鼓太郎母の口から漏れた。
「俺だって」
「はぁい?」
「俺だってば」
「何だい、オレオレ詐欺かい」
「オレオレ詐欺は家まで来ないよ、母ちゃん」
二人の掛け合いが面白くて思わず吹き出してしまった。鼓太郎母は笑う俺の顔をまじまじと見つめ、「あら、あんた、随分とハンサムじゃないの。どっから来たの。ここらじゃ見ない顔だね。東京かい? いやに背が高いね。何センチあるんだい?」と矢継ぎ早に質問をしてきた。あまりの質問の多さに呆気に取られていると、「すまないねぇ。あたしゃ興奮しすぎたよ。ピ様似の王子様が現れたのかと思って驚いちゃったんだ」と言った。
「ピ様?」
「あんた知らないのかい? 本当に東京の人かい?」
「だから、俺らは東京人じゃないの」
鼓太郎が口を挟むと、鼓太郎母は首を傾げながらくるりと前を向いた。
「女の子がなんでオレオレ言うかね。まったく今どきの若いもんはわけがわからんね」
鼓太郎母はブツブツ独り言をつぶやきながら、体で玄関の引き戸を開けようとした。だがその瞬間、手に持っていたキュウリやトマトが5つか6つ地面に転げ落ちた。トマトに至っては落下の衝撃で潰れてしまったものもあった。たまたま俺の目の前に転がって来たキュウリを拾ってやると、「すまないねぇ」と言ったが、その腕からさらにまた数本のキュウリがこぼれて地面に落ちた。
「まったく。母ちゃんいつも言ってたよな。大地の恵みは一人占めしちゃいかんよって」
「あんた今なんて?」
「みんなで分け合うためにお天道様が育ててくれたんだって言ってさ、きゅうりやトマトはいつもご近所さんに配ってたじゃないか」
鼓太郎母の顔に明らかな動揺の色が浮かんだ。そして空白の時間が流れた。それはたった3秒ほどの静寂だったが、俺には3分にも4分にも感じられた。やがて、鼓太郎母が沈黙を破るようにゆっくりと口を開いた。
「こたなのかい?」
鼓太郎は何も言わず、ただ真っ直ぐ前を見て首を縦に動かした。
「本当にお前なのかい?」
「そうだよ、母ちゃん」
「どうしてそんなピエロみたいな化粧……」
「ピエロってひどいなぁ」
「それに女の服なんか着て。一体どうしちゃったんだい」
鼓太郎母は目に涙を溜めて唖然としていた。鼓太郎はひどく狼狽する母の小さな体をぎゅっと抱きしめると、「ごめん」とつぶやいた。そして、「ずっと会いに来れなかったんだ。自分がこんなになっちゃったから。申し訳なくてあわせる顔がなかったんだ」と一つ一つの言葉を噛みしめるようにゆっくりと吐き出した。
「こた、こた……あたしのこた……」
鼓太郎母は何度も深く頷き、腕抜きをつけた腕でごしごしと目を拭いた。
「母ちゃん、その目!」
鼓太郎は急に大きな声をあげて笑い出した。
「目がどうしたぁ?」
「それじゃまるでパンダだよ」
さっき腕抜きで目の周りを拭いたので、泥がそのまま目の下やまぶたについていた。
「さぁさ、笑ってないで中に入んなさい。そこの東京から来た王子様も」
鼓太郎母が俺の方を振り返って、おいでというふうに手を動かした。
「だからぁ、あいつは埼玉県民だって。しかも王子じゃないし。母ちゃんちゃんと聞いてた?」
「あんた、キュウリとトマト食べるでしょ? 突然来るんだからビックリしちゃうわぁ。来るならちゃんと連絡くらい入れなさい」
「はいはい。っていうか会話噛みあってないし」
俺は二人のうしろ姿を目で追いながら、玄関で靴を脱ぎ、案内されるままに居間に入った。玄関には大きな木のコート掛けがあり、夏だというのにウィンドブレーカーやジャンパーなどがたくさん掛ってこんもり盛り上がっていた。居間へ通じるドアを抜けると、垢抜けない部屋に真新しい液晶テレビだけが際立っていてなんだかちぐはぐな印象を受けた。L字型の古ぼけたソファーに腰を掛けると、すぐに玄米茶が用意された。
「熱いうちに飲んでね」
「普通は冷たい麦茶とかでしょ。これじゃ余計に汗かくよ」
「暑い時こそ熱いものでしょ。体を冷やすと美容にも良くないんだよ」
「ま、確かに母ちゃんの肌ツルピカだもんな」
「ふふふ。王子様もそう思う? 何歳に見える?」
「え、俺?」
「ね、ね、あたしゃ何歳だと思う?」
さっきの車の中での会話が嫌でも思い出される。たしか鼓太郎は70歳近いと言っていた。だが、ここで70と答えてしまうと完全に地雷を踏む。60はどうだろうか。いや、でもどうひいき目に見ても60には見えない。いくら肌はしっとり潤っていても腰が曲がっているし、話し方が婆さんなのだ。これは困った。無難に間を取って65と言っておくべきか。いや、でももう少し若く言わないと失礼に当たるんだろうか。本人は相当若く見えると思い込んでいるようだし。
「王子が困ってるよ」
鼓太郎がやっと助け船を出した。
「そうかい? ありゃりゃ」
鼓太郎母は目を細めてコロコロと笑った。
「母ちゃん、さっきのトマト切ってよ」
「ほぅれ、やっぱり恋しくなった。うちのトマトは世界一甘くて美味しいからねぇ」
「形は悪いけど」
「無農薬だからさ。王子様にも食べさせないと。さぁさ、切って来るよ」
二人の会話を聞いていると、温かい家族のだんらんに入れてもらっているような不思議な感じがした。
テレビの方に目をやると、台の下はガラスの戸がついたマグネット式のキャビネットになっており、所狭しと細々した小物が並んでいた。お土産品なのかそれとも趣味で集めたものなのか。木彫りの熊もあれば、こけしのような置物もある。
「王子様はあたしのコレクションがお気に召したようだねぇ」
鼓太郎の隣に腰を掛けた鼓太郎母は満足げにキャビネットを見つめた。
「あの、さっきから気になっているんですけど、俺王子じゃないんですけど……」
「あらぁいいじゃないの。うふふ」
「母ちゃん、ダメだよ。王子様にはちゃんとお姫様がいるんだから」
「あら、まぁ。でも、乗り換えるなら今だぁよ」
「悠、聞いた? 乗り換えるなら今だって」
「もれなくトマトときゅうり1年分無料サービス券もついてきますよぉだ」
鼓太郎母のおどけた声とおかしなジェスチャーに俺はまたもや吹き出した。
「あ、笑ったねぇ。 あたしゃ嬉しいよ。東京人にウケるギャグが出たとはね」
「だから、埼玉県民だってば」
「そうか、そうか。わっはっはっは」
鼓太郎母の陽気な笑い声は、まるで夏の向日葵のようだと思った。太陽の光を燦燦と浴びた向日葵は、見る者すべてを元気にしてくれる。いつまでもここにいたいような、そんな不思議な居心地の良さを感じた。
3人で談笑をしていると、「おい、帰ったぞ」と玄関先から威厳のあるしわがれた低い声が聞こえた。
「はぁい」
鼓太郎母はパタパタと小走りで声のする方へ向かっていった。
「ああ、お客さんが来ていたのか」
鼓太郎の父と思わしき人物が俺達を見て軽く頭を下げた。グレーのズボンにクリーム色のシャツ。それにオシャレな緑色のループタイ(ヒモ状のネクタイ)をつけている。
「お邪魔しています。櫻井悠と申します」
俺は慌てて立ち上がり、頭を下げた。ちらっと横を見ると、鼓太郎は無表情のままお茶をすすっていた。
「いいから、座んなさい」
俺は言われるがままにその場に腰を落とすと、鼓太郎父は鼓太郎母の隣に腰を掛けた。
「私にもお茶をくれ」
「はいはい」
鼓太郎母が立ちあがったのを確認すると、鼓太郎父は俺の顔をまじまじと見つめた。
「昔が懐かしくなってうちに来たのかい?」
「あの……」
「違うのか?」
鼓太郎母は昔小学校の先生をしていて、鼓太郎父も中学か高校の先生をしていたとさっき車の中で聞いたのを思い出した。
「は、はい。先生に会いたくて」
俺は咄嗟に嘘をついてしまった。その場しのぎの嘘は良くないと知っていたが、刺すような視線には耐えられるはずもなかった。
やがてお盆にお茶を乗せてやってきた鼓太郎母が「いやぁねぇ真剣な顔しちゃって」と言いながら鼓太郎父の横に座った。
「いいじゃないの、なんでも。あたしゃ子どもが大好きでねぇ。こうして若い子が訪ねて来てくれるのがどんなに嬉しいか」
鼓太郎父はふっとため息をつくと、肩を押さえて首を回した。
「私達ももう年だ。早いもんでね。あっという間に定年さ」
「そうそう。まだまだ現役気分なんだけどねぇ」
「けど教師なんて名ばかりで実際は情けないもんだ。全然お手本になんかなっていない」
鼓太郎父は眼鏡を外し、少し目をこすった。
「息子は3年も音信不通でね。盆も正月も帰ってこない。どこで何をやっているのやら」
「お父さんったら。困っちゃうねぇ。そうやってすぐ感傷的になる」
「お前さん達がちょうど息子くらいの年齢かなと思ってね。年を取るとどうも涙もろくなるみたいでね。すまないねぇ」
鼓太郎父は俺たちに背中を向けると、テーブルの上に置いてあったティッシュで鼻をかんだ。
「教師なんて部活だ生活指導だって年中忙しいものだから幼いころからあまり構ってやれなくてね。近所の主婦連中にもいつかグレるとか、非行に走るとかね、色々と悪く言われたものだ。やっかみも半分入っていたんだろうけどねぇ。けど、息子は道を外さずいつも期待に応えてくれた。本当にあの子は一生懸命だったんだよ、常に何に対しても。だけど、それは結局親のエゴを、見栄を押しつけていただけなのかもしれないって……最近思うんだ。だから息子には恨まれてもしょうがないんだよ。教師の子だから常に1番でなくてはならないって無言のうちにハッパをかけて追い込んでいたんだろうな。あの子がうちに寄りつかなくなったのも、きっと当然の報いなんだよ」
鼓太郎は口をパクパクさせて何かを言いたそうにしていたが、声にならないようだった。膝の上で拳を固く握りしめ体を小刻みに震わせたかと思うと、蚊の鳴くような声で「帰ります」とつぶやき、席を立った。俺も慌てて鼓太郎の後を追い、スニーカーのかかとを踏んだまま外に出た。