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 いつもより早く登校し、教室であかねが来るのを待っていると後ろから軽く肩を叩かれた。

「どうした? 怖い顔してさ」

「あかねは? もう来てるよな?」

「さっき会ったよ。職員室の前で」

 俺は洋人の返事を最後まで聞かず、教室を飛び出した。とにかく今は一刻も早くあかねに会って事の真相を確かめなければならない。

 職員室の前の壁に寄りかかり、腕組みをしたまま人の動きを食い入るように注視していると、あかねとクラスメイトの女子が二人並んで廊下の向こう側から歩いて来るのが見えた。あかねはすぐに俺の姿を捉えると、こちらへ走って来て「おはよう」と弾んだ声を出した。

「珍しいね。いつも遅刻ギリギリなのに」

「話があるんだけど」

 俺の声は明らかに機嫌の悪いものだった。そのためか、あかねは「放課後でいい? もうすぐホームルーム始まるし」と逃げるように答えた。

「いいから来いよ」

 俺はあかねの手首をつかみ、ねじって上にあげた。抵抗するあかねを無視し、手首をつかむ指に力を入れた。

「来いっつってんだろ」

「やめて。離してよ」

「嫌だね。話が終わるまで離さない」

 周囲の視線を感じながらもあかねの手首をつかんだまま階段を上がり、屋上の扉を開けた。途端にゆらゆらとした陽炎かげろうがねっとりと毛穴を塞ぐように皮膚に絡みついてきた。

「話って?」

 あかねが不満そうな表情で俺を下から睨みつけた。手首を開放すると、俺はフェンスにもたれかかり、わざとらしく大きなため息をついた。

「なんか感じ悪い」

「とぼけるのも大概にしろよ。お前のせいでこっちはめちゃくちゃなんだからな」

「私が何かした?」

「昨日俺の彼女に嘘を吹きこんだろ。何て言ったんだよ」

「へぇ、悠の彼女……」

 あかねはふてくされてソッポを向いた。

「ちゃんと答えろ」

「何って事実を教えてあげただけよ」

「なぁ、お前の頭ん中どうなってるわけ?」

「どうって……」

「俺と付き合ってるって? お前が? なんでそうなるんだよ」

「だって、だって……悠を好きになったのは私が先なのに」

「お前と付き合った覚えはないし、これから先も付き合う予定はない。可能性は限りなくゼロだ」

 俺はそれだけ言うと、踵を返しドアに手を掛けた。

「待ってよ、ひとつだけ聞かせて。それで納得するから」

 あかねは懇願するような声を出した。

「あの子のどこがいいの? 顔? それともお嬢だから?」

「お前に関係ないだろ」

「あるよ。私、ずっと悠のことだけを見てきた。だから……」

 あかねの両腕が後ろからぎゅっと俺を締め付けた。

「やめろって」

「やめない」

「いいから離せ」

「嫌だ。ずっとこうしてる」

「そういう行動が迷惑だって言ってんだよ」

「お願いだから。今だけでいいの。今だけこうしてて」

 あかねのすすり泣く声が背後からはっきりと聞こえてきた。これじゃあまるで俺が悪いみたいじゃないか。女を泣かせるのは本当に気分が悪い。

 どうしたらいいものかと悩んでいると、重々しい鉄の塊が荒っぽくドア枠を叩きつける音が耳に入ってきた。ドアの向こうから顔を出したのは洋人だった。真剣な顔つきで一直線に歩いて来たと思ったら、次の瞬間にはパンッという乾いた音が屋上に響き渡っていた。驚いて後ろを振り向くと、あかねが右側の頬を押さえ、目にいっぱい涙を溜めていた。

「いい加減に目覚ませよ!」

 洋人の怒鳴り声にあかねはヨロヨロとその場に座りこんだ。そんなあかねの前に洋人は両ひざをつくと、ふわりと包み込むようにあかねを抱きしめた。

「もうやめよう。十分だろ?」

「でも……」

「これ以上自分を傷つけんな」

 洋人の手はあかねの頭をふんわりと撫でた。

「本当は辛くて辛くて息もできないほど苦しいんだろ?」

 ぎゅっと抱きしめる洋人の長い睫毛には涙の粒が光っていた。

「俺はここにいるから。あかねがいてほしいって思う時にはいつも」

 あかねを抱きしめたまま、洋人は優しくそう言った。あかねは再び嗚咽を繰り返したかと思うと、今度は大きな声で泣き出した。

「けど私、本当にひどいことばっかりしてた。洋人にも悠にも」

「もういいよ。あの時は俺もお前も正気じゃなかったんだから」

「ごめんなさいぃ……ごめんなさい……ごめんなさいぃぃ……」

 あかねの声は聞きとれないほどに擦れていた。

「全部、ぜーんぶ水に流そう。そしてまた一からやり直そう。な?」

 洋人から向けられた言葉に、俺は「ああ」と今の気持ちをその一言に託した。一人じゃ背負いきれないほどの強い想いを長い間ずっと胸に抱き続けてきたのかと思うと、あかねがなんだか不憫に思えたのだ。決して叶うことのない願いを持ち続けるほど哀れなものはない。それは今俺が一番知っている。


「さっきは悪かったな」

 洋人はへへっと照れ笑いを浮かべた。泣きじゃくるあかねを保健室へ連れて行った後、俺たちは再び屋上に来ていた。

「やっぱり俺さ、あいつが好きだ」

 洋人は何かをふっ切ったのか清々しい声でそう言った。

「結局許したのか、何もかも」

「うん、まぁ。許すってそんな大げさなものでもないけど」

「けっこう派手にやってただろ、あかねの奴」

「まぁな。けどそういうのも全部ひっくるめて、あれがあかねだから」

「お、出たな。洋人語録に付け加えておくとするか」

 洋人はハハッと陽気に笑うと、「暑いな」と言いながらYシャツのボタンを一つ外した。

「それよりさ、美衣ちゃんは?」

「んー、多分ダメだろうな」

「ダメって?」

「昨日病院で知られちゃって。血の繋がった妹だってわかった途端、口を利いてもらえなくなった」

「自分から言ったのか?」

「いや……」

「とにかくしばらくは様子を見るしかないんじゃないか?」

「正直わかんないんだよ。このままフェードアウトした方があいつにとってはいいのかなって時々頭をかすめるんだ」

「その話、本当なの?」

 突然、俺たちの背後から鋭い声が聞こえた。

「あかね?!」

「それってどういう……」

 あかねは口に手を当てたまま茫然と立ち尽くしていた。

「もしかして私のせいなの? 妹だってバレたのはあんなことを言ったから……」

「きっかけは何であれ、どうせいつかはわかることなんだし」

「どうしよう、そんなこと知らなくて……。悠のこと傷つけるつもりなんてなかったのに……」

 あかねは再び情緒不安定になり、しゃがみこんで泣き出してしまった。

「俺に任せて」

 洋人はそれだけ告げると、あかねを支えるようにして鉄扉の向こうに消えて行った。

 一人になると途端に強い孤独感に襲われた。胸が締め付けられるように苦しくて、あかねがしたように大声を上げて泣き出したい気分だった。

 けれど、あかねと俺には一つ決定的な違いがある。初めて二人で歩いた川沿いの土手で、俺は初めて美衣の唇に触れた。あの時のソフトクリームが口の中で広がっていくような、柔らかくて甘い吐息を、あの何にも代えがたい幸せな想いを、ずっとずっと封じ込めておこう。傷がついてしまわないように、壊れてしまわないように、大事に大事にしまっておけば、俺はきっとこの思い出だけで生きていける。そうなふうに思えた。

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