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「来週初めには退院ですか?」
「そう、だからさっきそう言ったでしょ」
見るからに不機嫌そうな目の前のジジイは、眉間にしわを寄せ白衣のポケットに手を突っこんだまま返事をした。
「確認ですけど、母はもう大丈夫なんですよね?」
「そう。問題なし」
「検査とかちゃんとしたんですよね?」
「さっきの説明聞いてなかった?」
「聞いていましたよ。けど納得がいかないんです」
「そういうのが一番困るんだよ」
「でも患者の家族にきちんとした説明をするのも医者の仕事でしょう?」
「今日はお父さんは?」
「なんで父親が出てくるんですか」
「君じゃ理解力不足のようだからね」
「いませんよ、父なんて最初から」
ジジイは面倒臭そうにわざと大きなため息をついた。そしてカルテの個人情報欄に目を落とし「なるほどね」と小さくつぶやいた。
「検査結果は異常なし。その他に聞きたいことは?」
「紙のデータはないんですか?」
「どうせ素人が見たってわからんだろう」
ジジイの投げやりな口調が神経を逆撫でした。
「もう一度検査しろっつってんだろ」
「まったく最近の若い奴は口の利き方も知らんのか」
ジジイはイライラした様子で右手に持っていたボールペンを乱雑に机に置いた。
「いいか? 子供が口を出すんじゃない。信じられないなら他の病院を当たるんだな」
俺は追い出されるようにして廊下に出た。どうせつまみ出されるなら、面と向かってクソジジイと怒鳴ってやるべきだったと思った。
母さんの病室へ行くと、ちょうど看護師が熱を測っている最中だった。
「悠ちゃん!」
母さんは俺の姿を捉えると、喜びに満ちた表情で手招きをした。
「ねぇ、浅井さん」
看護師に声をかけた母さんは、満面の笑みで息子がいかに優秀で運動ができて自分を大切にしてくれているかという自慢話を始めた。浅井さんはそんな下らない話を大げさな相槌を打ちながら聞き、時折チラチラと俺の方に目をやった。
「悠ちゃんもりんご食べるでしょ?」
ふいに母さんはベッドの隣にある小さなテーブルに置かれた平皿を指さした。
「いや、いい」
「どうして? お腹空いてないの?」
首を横に振ると、母さんは残念そうな顔を浮かべた。やっぱり様子がヘンだ。二人の間に流れていた気まずい空気が跡形もなく消えている。母さんは忘れたふりをしているのか、それとも本当に忘れてしまったのか。本意が知りたかったが、意識が戻った直後の人間を質問攻めにするのも気が引けた。
無理やり手に持たされたりんごを頬張りながら病院の敷地内にある広い庭でしばらくベンチに座っていると、急に強い睡魔に襲われた。ここで少し昼寝でもしようか――。
夢を見ていたのかどうかは定かではない。けれど、何か生暖かくて柔らかいものが一瞬唇に触れたような気がして目を覚ました。
「おはよ」
声の主は目の前にいた。だが、まったく知らない顔だった。デニムのショートパンツに胸元が広く開いた白地のノースリーブを着た黒髪ロングの女は、上目遣いで俺の顔をじっとのぞきこんだ。
「人違いです」
「あら、わからない?」
「だから人違いですよ」
「本当にわからないの?」
黒髪ロング女は上目遣いのまま、赤いマニュキュアをした指で俺の膝に触れた。人差し指がほんの少しだけ擦れた瞬間、不覚にも心臓がドキっと大きな音を立てて反応してしまった。
「一体何なんですか?」
俺は動揺を隠すようにしてわざと低い声を出したが、赤い口紅をした黒髪ロングの女はにやりと笑っただけだった。確かに外見は悪くない。むしろ好みだ。けれど全く面識のない女に知り合いのフリをして会話ができるほど俺は器用じゃない。
「まさか気がつかないとはね」
黒髪ロング女は手に持っていた籠のようなバッグから携帯電話を取り出すと、慣れた手つきで通話ボタンを押した。絶妙なタイミングで、今度は聞き慣れた着信音が俺の尻ポケットから流れ始めた。
「出ないの?」
黒髪ロング女に急かされポケットから携帯電話を取り出した瞬間、俺は自分の目を疑った。画面には鼓太郎と表示されていたからだ。俺は狐につままれたような気持ちのまま電話に出ると、目の前の女が「ハーイ」と陽気な声で電話に出た。
「だから、そういうこと」
黒髪ロング女は細い脚を組み直してウィンクをした。
「いやいやいやいや、これは違うだろ」
頭の中はひどい混乱状態だった。なぜ黒髪ロング女が鼓太郎の携帯を持っているのか理解できなかったからだ。
「ビックリした? 騙されたでしょ?」
黒髪ロング女は得意げな表情でニッと笑った。もったいぶったような態度に俺は少しイラっときた。
「何なんだよ、ハッキリ言えよ」
「やだ、本当に気づいてないんだ。 アタシよ、アタシ。鼓太郎よ」
「鼓太郎?!」
俺は急に大きな声を上げた。
「恥ずかしいから今は名前で呼ばないでね」
「その格好……」
「似合う?」
鼓太郎は立ちあがってくるりと回って見せた。
「メイクも完璧でしょ?」
「似合うとか似合わないとかそういう問題じゃないだろ」
「悠ったら本当に気づかないんだもん。調子に乗って口づけでもしちゃおうかと思ったわよ」
「うわっ気持ち悪ぃ。それだけは絶対にやめろよな」
「しないけど。ただ言っただけよ」
「けどさ」
「うん?」
「マジに女かと思った」
「本当?」
鼓太郎は妙に嬉しそうな声を出した。
「それってすごい褒め言葉かも。なんか勇気出た」
「でも、なんでお前がここにいるわけ?」
「何よぉ、さっきメールくれたじゃない。お母さんの意識が戻ったって報告の」
「けど呼んでねぇよな」
「呼ばれてないけど?」
「勝手に来なくていいから」
「邪魔?」
「正直」
「あああ痛い痛い! 突き刺さったぁ」
鼓太郎は大げさに顔をしかめると、大きく膨らんだ胸の辺りを抑えてベンチに倒れるフリをした。
「やめろよ、恥ずかしい」
「助けてぇ」
胸を抑えたまま、鼓太郎はなおもベンチの上で体を捻っている。
「勝手にやってろ」
俺はベンチから立ち上がり、くるりと背を向けた。
「待って」
後ろから伸びた鼓太郎の手は、俺のTシャツの裾を握っていた。
「ありがとね」
「急になんだよ」
「決心がついたの」
「何の?」
「親に会ってくるよ」
背中の後ろから聞こえてくる鼓太郎の声は閑やかだったが、覚悟を決めたような強い芯があった。




