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真実を知った日から、俺の心は右に行ったり左に行ったりしていた。会いたいという気持ちと会ってはいけないという気持ちが交互に押し寄せてくる。けれど、会いたいという思いは到底我慢できるものではなかった。抑えようとすればするほど、とめどなく溢れ出てくるのだ。ああでもない、こうでもないと2日ほど迷った挙句、結局美衣にメールを送ってしまった。“今すぐ会いたい。話したいことがある”と。
約束の時間を15分くらい過ぎた頃にインターフォンが鳴った。ドアを開けると美衣が肩を上下に揺らして立っていた。きっとバス停から走って来たのだろう。
「遅れちゃったね」
美衣は申し訳なさそうに言った。
「いいよ、俺も今帰って来たところだし」
「ホームルームがちょっと長引いちゃって。修学旅行の事でいろいろ揉めてるの」
「そっちは秋だっけ?」
「うん、9月」
美衣はリビングのソファに浅く腰を掛けると、足元に学校指定の黒い皮製の学生カバンを置いた。そして少し緊張した面持ちで背筋を伸ばし、仰ぐように顔の前で両手をパタパタさせた。
冷蔵庫から出したばかりのミネラルウォーターを細長いグラスいっぱいに注ぎ、ソファの後ろ側から美衣に手渡した。
「ありがとう。ちょうど喉が渇いていたの」
美衣は嬉しそうにそう言うと、グラスに口をつけた。傾いたグラスから水が減っていくたびに喉が小さく動くのが見えた。美衣の汗ばんだ喉元から鎖骨の辺りに目線を落とすと、突然体の奥からドクンと熱い何かが弾け飛び、美衣の全てを自分の物にしてしまいたいという衝動的な思いに駆られた。
「ねぇ、話したいことって何?」
美衣はそわそわした様子で口を開いた。
「聞きたい?」
「うん」
正直に言うべきか、言わぬべきか。この場に及んで俺はまだ迷っていた。
「話しにくいの?」
美衣は心配そうな顔で横に座る俺をじっと見つめた。
「いや、そんな深刻な話じゃないんだよ」
「え? そうなの?」
「夏休みの予定とか新しいカテキョの話とか、そういうの聞きたいなと思って」
「なんだ、そんなこと?」
「最近ずっと会えなかったし」
「もう、ひどい。別れ話だったらどうしようってすごく不安だったんだから」
美衣は少し怒ったような素振りを見せた。
「大事な話って言うから来たのに」
「本当は来たくなかった?」
「そういうわけじゃないけど……」
「お前さ、よく考えてみろよ。どこに別れる理由があるんだよ」
「何か嫌われるようなことしちゃっかたかなとか。気づいていないだけで色々あるのかなって」
「ないよ」
「本当に?」
「本当に」
「本当の本当に?」
「しつこい」
「だって……」
「お前ってホントに俺のこと好きだよな」
「バカ。そういうこと言わないでよ」
美衣は照れたように頬を紅潮させ、口を尖らせた。
「なぁ、二人だけでどっか行こう」
「え?」
「もうすぐ夏休みだし」
「旅行ってこと?」
「そう。俺達だけで」
美衣は少し考えるような素振りを見せたが、すぐに顔をほころばせて頷いた。
「どこに行こっか?」
「できるだけ遠くに」
「遠く? どうして?」
「現実逃避ってやつかな」
そう言うと、俺は美衣の左手を取って力強く引っ張った。
「もう頭ん中がお前でいっぱいなんだよ」
俺は半ば無意識のような状態で吸い寄せられていくように、美衣の唇にキスをした。未来がどうであろうと、運命がどうであろうと、そんなことはどうでも良かった。今、俺の目の前に美衣がいる。この瞬間をただ自分だけのものにしたかった。美衣の体を後ろに倒し、無理やりこじ開けた唇に舌を侵入させる。そして両脚の間に自分の膝を滑り込ませ、耳元に、首筋に、鎖骨にと唇を這わせた。その度に小さく零れおちる甘美な声音が、耳の奥で俺の本能を刺激した。自分の中に残っていたほんの少しの理性が崩れていく。堕ちる準備はできてるかい? 自分が自分に問いかける。これから俺は罪を犯す。そしてその罪を一生背負って生きて行く。そう覚悟したところで、突然美衣がすっとんきょうな声をあげた。
「あ、すごい共通点」
俺の右肩を指さしながら、自分の右肩もぐいっと前に突き出してみせた。
「なんか不思議だね、同じ所にあざがあるなんて」
美衣の言葉に心臓が止まりかけた。
「もしかしてソウルメイトの証とか」
「いや、まさか」
「でも初めて会った時も初対面って感じがしなかったし」
ふいに99.9%という文字が脳裏をかすめた。
「この話はやめよう」
俺は上体を起こして美衣から離れ、淡いグリーンの絨毯の上にソファを背にして両ひざを立てて座った。
「どうして? 私何か変なこと言った?」
「違うんだよ」
「じゃあどうしてそっち向いてるの」
「お前には関係ないことだから」
「ちゃんと説明して。どうして怒ってるの?」
美衣の声に被さるようにして、テーブルに置いてあった携帯がブルブル震えて着信を知らせた。
「いいよ、出て」
美衣の訝しげな態度から逃げるようにして俺は通話ボタンを押した。電話は総合病院の看護師からだった。「お母さんの意識が戻りました。先生からお話があるのでこちらに来てください」と一方的に早口で告げると、看護師は忙しそうに電話を切った。
「ごめん。行かないと」
「どこへ?」
「病院。母さんが入院してて」
「え? どこか悪いの?」
「足を滑らせて線路に落っこちた。それだけ。大したことないよ」
「大丈夫なの? ひどい怪我だったんじゃない?」
「全然」
「本当に?」
「ああ、もう治ってるから」
美衣は立ちあがってスカートの裾を直すと、釈然としない表情のまま玄関を後にした。