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家に帰ってくる頃には、すでに朝日が昇り始めていた。鉛のように重い足を引きずりベッドに体を投げ出すと、数秒で深い森の中に落ちていくように眠りについた。ここ数年で最も急速で滑らかな入眠だったように思う。
だがその数時間後、心臓を揺さぶられるかのような大音量のチャイムに叩き起こされた。よほど居留守を使おうかと思ったが、インターフォンのカメラ越しに西園寺の姿をとらえた瞬間、完全に目が覚めた。
西園寺をリビングのソファに座るように促し、冷蔵庫から緑茶のペットボトルを取り出した。真新しい客用のグラスにお茶を注ぐと、すぐにグラスの外側に無数の水滴が浮かび上がってきた。
「随分と具合が悪そうだけど。風邪でもひいた?」
「いや、ちょっと疲れてるだけです」
「制服のまま遊びに出かけて、酒を飲んで朝帰り。ベッドに倒れ込んで寝てたってわけか」
西園寺の的確な推理にドキッと心臓が高鳴った。
「もしかして尾行でもしてました?」
「いやいや、自分の高校時代を思い出しただけさ」
西園寺はニタっと笑うと、持っていたブリーフケースから白い封筒を取り出した。
「今日はこれを渡しに来たんだ」
「これって……」
「君が知りたがっていた結果が書かれている」
「もう見たんですか?」
「いいや」
西園寺の言葉にほっと胸をなで下ろした。自分の人生を左右するような事柄を誰かが先に知っているというのは、なんだかフェアじゃない気がしたからだ。
「それで、菜々子の事だけど」
「あの後すぐに会って話をしました」
西園寺の顔は火が灯ったようにぱっと明るく変化した。
「どうだった? 元気にしていたかい?」
「寂しそうでしたよ。誰かに構ってほしくて、愛されたくて、でも叶わないからその辺の男にその穴を埋めてもらっているっていう感じで」
「その辺の男?」
「付き合っている奴ですよ。まぁロクデナシなんですけどね」
「そのロクデナシに会ったのか?」
「紹介されました。彼氏だって」
「そんな……」
「けど、二人はもう会っていないでしょうね。今頃は別の男と一緒にいると思いますよ」
「あの子は……菜々子はどうしてこんなことを? やっぱり片親じゃダメなのか」
「あいつは愛情が欲しくて赤ん坊みたいにギャアギャア泣きわめいているんですよ。男なら誰でもいいって言ってるけど、一回りも二回りも年齢が上なんです。これって、父親を求めてるってことじゃないんですか?」
西園寺は目を見開き、ただ黙って俺の話を聞いていた。
「俺は菜々子の気持ちがわかるんですよ。子どもの時から母さんが忙しく働いてて構ってもらえないことが多かったから。いつも寂しい思いをしていました。ただそばにいて話を聞いてあげるだけでいい。それができないなら一緒にテレビを観るだけでもいいんです。俺はそういう時間がもっと欲しかった。親が一方的にあれはするな、これはするなって命令したり、こうしてちょうだい、ああしてちょうだいってって期待する形じゃなくて」
「あの子の母親が亡くなった時、私はひどく悲しみに打ちのめされてしばらくご飯も喉を通らなかった。ずっと一緒に寄り添ってきた妻ともう会えないのかと思ったら、もう生きていく気力もなくなったんだよ。その姿を小夜子や菜々子が見て、よく心配をしていた。パパはママがいないとダメなんだ、なんて可哀想なパパって言ってね。そんなある日、菜々子の学校の宿題で母の日の作文を書くことになったんだよ。どうしてママは死んだのかって何度も聞いてくるものだから、出産のときに亡くなったと正直に話した。最初は迷ったけど、嘘をついてもいずれはバレると思ったんだ。もちろん菜々子を産んだことが原因だとは言わなかった。もともと妻は病弱だったからね。けれど、あの子は自分が悪いと思いこんでしまった。自分なんか生まれてこなければよかったって言って、昔から私を困らせてばかりなんだよ」
西園寺は緑茶を一気に飲み干すと、ハンカチで額の汗をぬぐった。
「それは違うと思いますよ」
「違う?」
「悪いのは西園寺さん、あなたですよ。生まれた時からずっと菜々子を責めてきた。もちろん自分で意識はしていなかったと思うけど。奥さんを亡くした行き場のない悲しみが、鏡を見るようにそのまま菜々子に映し出されているんですよ。だから菜々子の心はいつも悲しくて苦しくて泣いているんです」
「私とあの子が鏡だって?」
「そうです。二人は鏡のようにお互いの心理状態を映し合っている」
西園寺は困惑した表情で俺を見ると、「君の心理分析を聞きに来たんじゃない」と少し怒ったように言ってソファから立ち上がった。
「逃げるんですか?」
「菜々子のことはもういいんだ。放っておいてくれ」
玄関のドアが勢いよく閉まるのと同時に、携帯に着信が入った。鼓太郎からだった。具合は悪くないかと聞かれたが、DNA鑑定の結果が来たことを告げると、すぐにうちに来ると言って鼓太郎は一方的に電話を切った。そして30分もしないうちにインターフォンが鳴った。
「マジで来たな」
「いいじゃないの。アタシ今日はオフなのよ、オフ」
「どうせ暇だから電話してきたんだろ」
「二日酔いで潰れてないか心配だったのよぉ。あ、それよりハサミ。ハサミはどこ?」
「ちょっと待てよ」
「こういうのは待てば待つほど開けにくくなるの。だから、思い切って開けちゃった方がいいのよ」
「でも……」
「本当の事を知りたいんでしょ? それが悠の望むことなんでしょ?」
鼓太郎に念を押され、改めて自分の気持ちを再認識した。そうだ、俺は真実を知るために西園寺に頭まで下げてDNA鑑定を頼んだんじゃないか。
「じゃあ切るわね」
ハサミを渡すとすぐに鼓太郎が封筒に刃を当てた。俺はごくりと唾を飲み込んでその様子を横眼で見ていた。白い封筒から一枚の白い紙を裏返しにして取り出した鼓太郎は、「どうぞ」と俺に手渡した。
「一人で見るよね? アタシはここにいるから」
鼓太郎は母親が子どもをあやすような柔らかい口調でそう言うと、祈るような表情でソファに座った。ソファに背を向けるようにして立った俺は、その場で紙をそっと裏返した。眼球の動きは自分が予想していたよりも速く、すぐに書面上の数字を捉えた。
「99.9%の確率……」
「もう見たの?」
鼓太郎の驚いたような声が静寂の中で反響した。
「見事に予想通りの展開」
「じゃあ……」
「妹だよ、あいつは」