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焦げ茶のレザーソファに深く腰を掛け、修太は大きなため息をついた。
「久しぶりに集まったっていうのに。さっきから暗い顔しちゃって」
修太の向かい側に座る鼓太郎が口を尖らせた。
「ため息ばっかりついてると幸せが逃げちゃうんだって」
「やっぱ今日は帰るわ」
カーキ色の肩掛けカバンを乱暴に掴み、修太は席を立とうとした。
「待ってよ」
鼓太郎はソファから立ち上がり、修太の腕をがっちりつかんだ。
「離せよ」
「ダメ。ちゃんと言ってよ。気持ち悪いじゃないのよ」
鼓太郎の引っ張る力が思いのほか強かったらしく、修太は少しよろけながらも再びソファに腰を下ろした。
「元気だけが取り柄のくせに。今日のあんたおかしいわよ」
「相変わらず失礼やな」
「あら、事実じゃない」
修太はもう一度深くため息をつくと、鼓太郎の顔をじっと見た。
「実家の病院がな、ヤバイんやって」
「ヤバイ?」
「潰れるって」
「ウソ……」
「ウソなんかつかんわ」
「え? どういうこと?」
「とにかく明日大阪に帰る」
「大学は?」
「さあな。このまま学費出してもらえるかどうかもわからんし」
「でも落ち着いたら帰ってくるんでしょ?」
修太は目の前のコーヒーカップに視線を落とし、テーブルについた傷を何度も爪で引っ掻いた。
「俺ほんまに医者になりたいんやろか」
「え? そこ? 悩むとこ違うんじゃないの?」
「なんかな、兄貴がヤバイんやって。患者側の遺族に訴えられて窮地とか言ってたわ」
「医療ミス?」
ふと母さんの顔が思い浮かんだ。あの冷たい手の感触がじわりと皮膚に浸透していく。背筋がぞくぞくするような嫌な寒気が俺を襲った。
「詳しい話は聞いてない。けどオカン泣いてたわ」
「深刻そうね」
「医者なんてやってられんわ。自分の命削ってまで一生懸命治療したって全然報われないやんか。今まで何のために勉強してきたのかわからん」
修太は魂が抜けたような表情で、財布から千円札を取り出しテーブルに置いた。そして視線を落したまま静かにカフェを去っていった。
「悠はどう思う?」
「どうって?」
「修太のこと。ずっと黙ってたから」
「あいつには呆れてるっていうか、嫌悪感を抱いてるっていうか、そんな感じだから喋りたくないんだよな」
「赤ちゃんのこと?」
「あまりに無責任だろ」
「気持ちはわかる。でもそれとこれとは別よ。一応修太だって仲間なんだし。心配ぐらいしてあげても……」
「俺はあいつのこと友達だと思ってないから。そもそも自分のまいた種だろ? 普段の行いが悪いからああなるんだよ」
「そんな身も蓋もない……。修太ってあんなだけど根は真面目なのよ。きっと人知れず悩んでいると思うけど」
「結局あいつの擁護かよ。まぁお前にはわかんないよな。母子家庭の苦労なんて味わったことないもんな」
「何よそれ」
「お前と俺は全然違うってこと」
「アタシにだって悩みくらいあるわよ」
「ゲイってだけだろ?」
「随分と簡単に言うわね」
鼓太郎は視線を下にずらして、寂しそうに小さく笑った。
どちらが誘ったわけでもなかったが、俺たちはカフェを出た後に小さな公園に寄った。横に二つ並んだブランコにそれぞれが腰を掛ける。古ぼけて錆ついた金属音と、乾いた木の軋む音がシンと静まり返った闇の中に吸い込まれていく。
「今日ね、アタシの誕生日なの。お祝いしてよ」
鼓太郎はさっきコンビニで買ったばかりの缶ビールを二つ袋から取り出すと、そのうちの一つを俺に手渡した。缶を開ける時のプシュッという小気味よい音が耳を撫でる。俺は少し前に味わったビールの苦さを舌の奥で感じ、ちょっぴり背伸びしたような気分になった。
「あ、間違えた。未成年はこっち。ノンアルコールね」
鼓太郎は袋から別のビールを取り出し、差し出してきた。
「もう遅いって。ほら、飲んじゃったし」
俺は早口でそう言うと、もう一度缶に口をつけ、苦い液体を一気に流しこんだ。
「まだ乾杯もしてないのにね」
鼓太郎は呆気に取られたような顔を浮かべながらも、どことなく嬉しそうに「ハッピーバースデー トゥーミー」と口ずさんだ。
それから俺たちは勢いよくブランコを漕ぎ、とりとめのない会話をしてゲラゲラと大声で笑い合った。体中の毛細血管に染みわたっていく何リットルもの苦い液体が頭を痺れさせる。楽しくて楽しくてしょうがない。体中の毛穴から湯気が出るんじゃないかと思うくらいに汗をかき、俺たちはただひたすら笑いまくった。腹を抱え、芝生の上を転がり回る。心の奥底に沈んでいるドロリとした悲しみを、苦しみを、痛みを、すべてを消し去ってしまうかのような大きな声で、息ができなくなるぐらいに笑い合った。