39
「こんな所でまた櫻井君に会うなんて」
総合受付の前に並ぶビニール製の椅子に座っていると、後ろから声をかけられた。振り向くと、水色と白のストライプシャツに細身のジーンズを履いた大山が立っていた。
「どうしたの? また怪我でもした?」
「先生こそなんで消えたりしたんですか」
「まぁ色々あってね」
「事情も言わずに辞めるなんて先生らしくないですね」
「そう?」
「ハッキリけじめをつけるタイプだと思ってましたから」
「ごめんね、今回はちょっとやむを得ない事情っていうか……」
「夜逃げですか?」
俺のくだらない冗談に大山はわざとらしく笑い、隣の椅子に腰をかけた。
「父がね、北海道のホスピスへ転院することになったの」
「ホスピス?」
「うん、病状が悪くてもうどうにもならないの。だから最期くらいはせめて本人の希望通りにしてあげたいなって」
「北海道へ引越すんですか?」
「うん。みんなにはちゃんと説明してからって思ったんだけど。実はこれからすぐ引越しなのよ。こっちの引き上げと父の世話とでてんやわんやになっちゃってて」
「ずいぶん親孝行なんですね。しかも北海道って、もっと近くを選べばいいじゃないですか」
「父の生まれ故郷にね、帰してあげたいの」
「へぇ。親にそこまで尽くせるなんてすごいですね。俺には無理ですよ」
大山は肩に掛けていたデニム地のトートバッグからワインレッドの長財布を取り出した。そして、カードホルダーの一番後ろの部分に入っていた写真を俺の目の前に差し出した。
「この人、私の婚約者だったの。大学時代に知り合った人」
「日本人じゃないですよね?」
「中国人。二十歳の時、旅行中に知り合ったの。お互いに一目惚れって感じで、滞在中はずっと一緒に過ごしたわ。日本に帰って来てからは遠距離恋愛になって、お互いにメールや手紙でやりとりしてた。それでもお互いに半年に一度は行き来していたわ」
大山は「こんなこと、普通は生徒に話すべきじゃないのにね」と苦笑しながらも言葉を続けた。
「ある日、彼は父に会いたいと言ってきた。結婚を許してもらいたいって。気持ちは嬉しかったけど、すぐに断ったわ。だって付き合っていることすら言ってなかったのよ。父の性格上、外国人は無理だとわかっていたから。とくに中国人に対してはあまりいい感情を抱いてなかったし。その時はなんとか彼を誤魔化せたんだけど、やっぱり2回目は無理だったのよね。本気で結婚したいからって私に内緒で父に会いに来たのよ。日本語を一生懸命勉強してなんとかコミュニケーションを取ろうって彼は頑張っていたんだけど、結局は玄関で怒鳴られて塩を撒かれて追い出されちゃって。その後、私たちは父の承諾なしに結婚を進めようとしたんだけど、これもバレて計画は失敗しちゃってね。結局は駆け落ちをしたの。けど、それもダメだった。彼のアルバイト先に父が乗り込んでいって、次の日、彼はどこかへ消えてしまったの。今も見つからない。中国へ帰ったのか、それとも日本にいるのか。音信不通のままもう何年も経ってしまったの」
大山は写真を大事そうにそっと財布に戻した。
「忘れたいのにね、捨てられないのよ」
「じゃあなんでお父さんのために北海道に行くんですか? 許せないとかそういう気持ちはないんですか?」
「不思議よね。一生許してやるもんかって啖呵を切って実家を出て行ったのに。今は憎む気すら起こらないの」
「死にゆく人への同情ですか?」
「わからないわ。どうしてこんなにも穏やかな気持ちで父と接することができるのか。自分でも気味悪いくらいよ」
「先生は許せたんですね、お父さんの事を」
「どうかな。自分の心って、実は自分が一番見えてなかったりするでしょう。だからわらかないの、本当に。幼少期が特殊だったからちょっと普通の人とは違った考え方をするのかもしれないわね」
「特殊?」
「うん。私は父が外で作った子どもなの。ずっと母子家庭だったんだけど、4歳の時に母を亡くして1年ぐらいは養護施設にいたのよ。けど、ある日突然父が迎えに来たの。私を引きとりたいって言ってね。施設に馴染めなくて毎日いじめられていたから、迎えに来てくれた時、父のことを救世主だって思ったわ。仕事人間だったけど、継母の早紀子さんも血のつながらない妹も最初はすごく優しくしてくれた。毎日が楽しくて、世界が一瞬にして灰色からピンク色に変わったように思えたわ。家族にもっともっと認められたくて勉強も運動も頑張ったの。中学の成績はほとんどオール5だったし、テニス部の部長にも選ばれた。生徒会長にも推薦された。学校から帰ると早紀子さんがすごいねって、さすがだねって頭を撫でてくれたわ。それが一番の喜びで、誰に褒められるよりも嬉しかったの。けれどね、妹がグレて夜遊びを始めたくらいから、私に対する態度は180度変わったわ。妹が家に帰ってこないのは私のせいだって言われたり、私の分だけご飯を作ってもらえなかったり。成長するにつれてだんだんと顔が母に似てくるのが気に入らなかったのもあったみたい。毎日鏡を見て思ったわ。自分の存在があんなに早紀子さんを苦しめるのならいっそ死んでしまおうかって」
大山は昔の記憶を掘り起こすかのように、時折目をつぶりながらゆっくりとした口調で話を続けた。
「結局ね、私には父しかいないの。この世で一人しかいない親なのよ。血の繋がったたった一人の家族。年取ってくると気難しくなって時々本当に泣きそうなくらい傷つくことも言われるけどね。それでも私は一緒にいたい」
「さすが大人ですね」
「そんなことないわ。私だって少し前までは父のことを本気で憎んでた。婚約者を奪われた悔しさもあったし、それに対する反省も謝罪も一切ないんだもの。だから顔を見るのも嫌でお見舞いにも滅多に来なかったの。けどね、少し前、担当医に今夜がヤマ場だって言われて来てみたら、本当に死にそうになっている父が目の前にいて。苦しそうな顔を見ていたら、この人は罰を受けているんじゃないかって思えたのよ」
「罰……」
「だけどね、同時に昔の記憶が頭をよぎったの。養護施設にいた頃、父を救世主だと感じたあの日の記憶が。くしゃくしゃって頭を撫でてくれた父の大きな温かい掌を思い出して、無性に泣きたくなっちゃってね。今まで父にも早紀子さんにもうまく甘えられなかった自分が、心の中でぽろぽろと大粒の涙を流してた。私ね、気がつくと父の手を握って死なないでって何度も何度も祈っていたの」
「小さい時の記憶って強烈ですよね。影響力強いっていうか」
「記憶もそうだけど、その時抱いた感情は簡単に消せないのよね」
大山は両手を椅子の端について足をぶらぶらさせた。
「私は大人なんかじゃなくて、ただ父親に甘えたいだけ。4歳の時、私を救いに来てくれた父にまた会いたいの。看取るって言うと聞こえはいいけど、結局は一緒にいたいだけなのよ。たくさん話をして、たくさん笑って、最期くらい家族らしい温かい時間が欲しい。ただそれだけなの」
大山の横顔は、父親に構ってほしいと切望する4歳の少女のようだった。