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大山が教師を辞めた。朝のホームルームにやってきたのは大山ではなく、副担任のチビハゲこと佐々木秀雄だった。
「突然だけど、今日から僕がC組の担任を引き継ぐことになりました」
「どういうことですか?」
あかねが大声をあげた。
「いやね、僕も事情はよくわからないんだよね。実際、昨日校長に呼び出されてそう言われただけだから」
「ちゃんと説明して下さい。大山先生が突然いなくなるなんておかしいじゃないですか」
あかねの大きな声にクラス中が同調した。
「君たちの気持ちはわかるけどね、僕も知らないんだからどうしようもないんだよ」
チビハゲは面倒臭そうにため息をつくと、名簿を開き、出欠を取り始めた。大山が辞めたことを知って動揺していたクラスの連中も、下校の頃にはいつもの日常に戻っていた。今の俺たちにとって、世界の中心は自分であって、他の誰でもない。他人の事情に関心を示すことはあっても、それはたったの一瞬であり、またすぐに忘れ去ってしまうのだ。
「櫻井君、ちょっと」
声のする方を見ると、チビハゲがドアの近くで手招きをしていた。
「何ですか」
「電話だって。警察から」
チビハゲは額の汗をハンカチで拭きながら、小声でぼそっと喋った。
「俺に? 警察?」
「お母さんの事らしい」
背中に冷水を浴びたような恐怖を感じた。
すぐに職員室へ走り、電話を取った。
「悠君ですか? 櫻井朱莉さんの息子さん?」
「はい」
「所沢警察署の南と申します。お母さんが先ほど事故に遭いまして、今すぐ総合病院に来てもらえますか?」
無我夢中で走り、バスに飛び乗った。閉まりかけのドアの隙間に体を滑り込ませる。一番後ろの席に座ると、深呼吸をして息を整えた。総合病院前というアナウンスを聞いた途端、ぼんやりと美衣の顔が浮かんだ。あの時、このバスからすべては始まった。美衣と出会うことがなければ、きっと真実を知ることもなく、人生に波風を立てることもなく、誰も傷つかずに済んだのかもしれない。
病室に入ろうとすると、ドアの前に待機していた若い警察官に声をかけられた。
「君が櫻井悠君かな?」
「そうですけど」
「ちょっと話を聞かせてもらえないかな」
「まず母の様子を見たいんですが」
俺はドアを開け、そっとベッドに近づいた。顔を見た瞬間、心臓が止まりそうになったいつもの母さんの面影はなく、目元はくぼみ、唇は白っぽく見えた。まるで死人なのだ。
「ちょっと話を聞かせてもらえないかな」
警察官は、ドアを少し開け、申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「いいですよ。入ってください」
ベッド横に丸椅子を二つ並べて座った。
「他に家族は?」
「いません」
「そうか」
「何があったんですか?」
「人身事故のようなものかな」
「人身事故?」
「線路に落ちてそこに電車が。幸い怪我はかすり傷程度だったけど、意識が戻らないんだ」
意識が戻らないという言葉に、後頭部をハンマーで思いっきり殴られたようなショックを覚えた。
「足を滑らせたとか誰かに押されたとか、そういうことですか?」
自分の声がかすかに震えているのに気づいた。
「いや、ホームは人がまばらだったし、防犯カメラを確認したが事件性はなさそうだった」
「それってつまり」
「言いにくいけど、恐らく自殺だろう」
鋭いナイフで心臓を突き刺されたような感覚がした。原因は俺だとわかっているから余計に辛い。今まで母さんを守ろうとし、必死に傷つけまいとしてきたのに、結局は自分が母さんを追い詰め、ついには殺してしまったのだ。俺は母さんのひんやりとした手を握り、ごめんと呟いた。