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ぼんやりとした意識がチャイムの音で呼び戻された。天井に浮かぶ点々とした黒いシミを見つめ、どのくらい眠っていたのだろうと考えた。腕時計を見ると、午後5時過ぎを示している。体を横に傾けると、カーテンの向こう側からオレンジ色の光が漏れていた。そして、その中に黒い人影が見えた。小さくカーテンを開けると、ベッドに横たわる少女は夕日の眩しさを避けるように、俺の方に体を向けて眠っていた。目の前にいるのは紛れもなく美衣だった。その表情には葛藤もなく、哀しさもなく、汚れもない。じっと見つめていると、急に離れがたいような気持ちになった。一度は別れを決意したが、自分の決断を翻したい思いに駆られた。
小学1年生の時、あの人に手を引かれて近所のデパートで催されていた小さな展示会を訪れた。そこで天使の絵を何枚か見たのだ。教会に行ったことはなかったが、幻想的で美しい天使の姿に心がきらめいた。あの時感じた心を強く持っていかれるような感覚を、また今ここで感じている。美衣の眠る顔を見て、俺はふと絵の中にいる天使のようだと思った。それも世界一美しい天使。俺は美衣の眠るベッドに浅く腰をかけ、そっと背中に触れた。もちろん羽なんて生えているはずがないのに。それでも俺は、美衣が天から舞い降りてきた天使だったらどんなに良かっただろうと思った。いつか天に帰ると言われても、妹だって言われるよりはずっとマシなはずだ。美衣の肌に触れるのは今日が最後だ。この瞬間で全て終わりにしよう。そう自分に言い聞かせ、俺は美衣の頬にそっと指を置いた。横に撫でるように触れるだけで、自分の中にある熱いものが全身を駆け巡り、今にもショートを起こしそうになる。ずっとこうしていたいのに。ずっと触れていたいのに。そうすることが許されない自分の境涯が憎くてたまらなかった。
「ん……」
美衣がうっすらと瞼を開けた。
「ごめん」
俺は慌てて指を引っ込めた。美衣は戸惑ったような顔を浮かべたが、すぐに起き上がったて笑顔を作った。
「もう帰るね」
少し俯き加減にそう言うと、カバンを手に持ってドアの方へ向かった。
「電話とかメールとか、しつこくしちゃってごめんなさい。勝手に嫌われたのかなとか考えちゃって。学校にまで押しかけて、そのうえ貧血で倒れちゃうなんてバカみたいだよね」
このまま去ってしまう――そう思った瞬間、俺は美衣の手を強く握り、後ろからぎゅっと抱きしめた。
「行くな」
美衣の身体が硬直した。
「何も喋んなくていいから、もう少しここにいろよ」
「だけど……」
「いてほしいんだよ」
美衣は俺の方に向き直り、コクンと小さく頷いた。
「私もずっとずっと一緒にいたいよ。さっきね、思ったの。絶対に負けたくないって。負けるって言っても単なる勝ち負けじゃなくて。なんていうか、櫻井君のこと失いたくないって強く思えて、思わず腕を強く引っ張っちゃった」
美衣は少し肩をすくませて照れたように笑った。ずっとずっと一緒にいたいというその言葉だけで、白黒の世界にまた鮮やかな色が戻ってきたように、俺の心に光が差し込んだ。