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ホームルーム中、物音を立てずこっそりと教室へ入っていくと、担任の大山由香がプリントを配っている最中だった。一番後ろの窓側の席に近づき、椅子をゆっくりと引く。その時、上靴の縁と椅子がぶつかってカツンと高い音が鳴った。クラス中の連中が俺の方を向く。大山も俺の方を見た。
「また櫻井君なの? 放課後話があるから、進路相談室に来なさい」
プリントを手に持って俺の席までツカツカと歩いてくると、鋭い声でそう言った。大学を卒業して二年目に初めてクラス担任を任された大山は、この腐った社会を教育で変えられる――そんな風に考えている新米教師だ。
俺は他人に自分の悩みを相談したいなんて微塵も思わない。それなのに放課後に呼び出されて一体何を話せと言うのか。大山と話すのはかなり億劫だったが、担任から母に電話がいってしまえばもっと面倒なことになるだろう。放課後、進路指導室の前の壁にもたれかかっていると、大山が廊下の向こうから小走りで駆け寄って来るのが見えた。そして、手に持っているカギで解錠してからドアを開け、俺にも入るようにうながした。大山は二人掛けのソファーに足を組んで腰をかけ、俺にも目の前にある向かい側の三人掛けの茶色のレザーソファーに座るように言った。
「櫻井君、悩みがあるんでしょう? だから、そんな態度を取るのよね?」
大山はなだめるような声で俺の目を見つめた。
「いいえ」
「櫻井君の家はお母さんひとりで子育てをしているんでしょ。それなら大変よね」
「大丈夫です」
「無理しなくていいのよ。私はあなたの担任なんだから。ちゃんと正直に話してみて。私が力になるから」
大山はしつこかった。俺が感情を表に出さないのをいいことに、お節介オーラを発したまま十分以上も説得を続けてきたのだ。
「私は櫻井君が心配なの。今まで、母子家庭の子を何人か見てきたけど、どの子もいろんな問題を抱えていたわ」
「俺のどこに問題があるって言うんですか? 授業に出ないからですか?」
「それもあるわ」
「じゃ、本当の事を言いましょうか。うちの学校はレベルが低い。俺にとっては昼寝の時間でしかないんですよ。どっちにしろ授業なんか出たって出なくなって同じです」
「たしかに櫻井君は成績優秀で常に学年一位を保っているわね。それは私も認める。でもね、学校は勉強を教わるだけの場ではないのよ。人間関係とか道徳とか、そういうことも学んでいく場なの。だから、いくら成績が良くても授業をサボってはいけないわ」
俺は何の反応も示さずに黙っていた。すると、大山は少しイライラしたような口調で言い放った。
「櫻井君、聞いてるの? 理解したら返事くらいしてちょうだい」
「あの、帰ってもいいですか」
俺は呆気に取られている大山の返事を待たず、ドアを開けて廊下へ出た。