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「ちょっと、修学旅行中じゃなかったの?」
電話の向こうで鼓太郎が甲高い声をあげた。
「まぁ色々あって」
「普通は途中で帰ってこないでしょ。それも副担まで巻き込んで」
「集団行動ってかったるいじゃん。1日でギブだった」
「協調性ゼロだもんね」
「なぁ、俺のことより大はどうなんだよ」
「あら、珍しく他人の心配?」
「茶化すなよ」
「大ちゃんは順調に回復してるわよ。靴のこと何かわかった?」
「犯人は見つけた」
「もう早? どうやって探したの?」
「1年の奴らに聞いたんだけど、クラス中から無視されてたらしい」
「何それ、ひどいじゃない。クラス中って何なのよ。担任は知ってるの?」
「知らないふりだな、あれは」
「ひどすぎる。アタシそういうの許せないのよ。今すぐ全員殴ってやりたいわ。寄ってたかって一人をいじめるなんてどうかしてる」
電話の向こうで鼓太郎が興奮して声を荒げた。その直後、耳元で機械的な音が響いた。誰かが同時に電話をかけてきたらしく、画面には“公衆電話”と表示されていた。俺は鼓太郎との会話を素早く終わらせると、もう一度通話ボタンを押した。
「もしもし」
「あ、お兄ちゃん?」
「誰?」
「ひどーい」
妙に鼻にかかった声。
「菜々子だよ。忘れちゃった?」
「公衆電話って……」
「携帯失くしちゃった。だから10円入れてかけてるの。ふふふ。レトロでしょ。お兄ちゃんなら出てくれるかなって思って」
「その呼び方やめろよ。お前の兄ちゃんじゃないだろ」
「いいじゃん。家族になるはずだったんだし。パパね、すっごくショック受けてたよ。朱莉さんにフラれたのかなって。相当結婚したかったんじゃない?」
「それで? 用件は?」
「用事がなきゃかけちゃいけないの? 世間話くらい付き合ってよ」
「これからバイト行かないといけないから。こっちも忙しいんだよ」
「バイト? いつから始めたの?」
「何でもいいだろ。お前に関係ない」
「出た、秘密主義。冷たすぎるよ」
「用がないなら切るぞ」
俺は一方的に話を終わらせた。菜々子とは最初から何も話すことなんてない。母さんと結婚したがってた男の娘ってだけで、俺の人生には何の関係もない。実際、あの男を殴ってからはなるべく西園寺家には近寄らないようにしていた。
玄関ドアを開けると同時に、母さんが青い顔をして飛んできた。そして心配そうな表情を浮かべたまま俺の額に手を当てた。
「熱はないわね。頭痛ってことは風邪かなって思ったけど」
「もう治ったから」
「本当に? なんでもないのね?」
俺は無言で頷いた。
「どこに行ってたの? ずいぶん心配したのよ」
「ごめん。ちょっと用があって」
「そう。悠ちゃんも大人になったのね」
「急になんだよ」
「だって前は何でも話してくれていたじゃない? いつの間にかこうやって秘密を持つようになったんだなって」
「別にそんなんじゃないよ。秘密ってわけでもないし」
「男の子だもんね。いつか離れていくのよね。結婚してお嫁さんが来たりなんかしたら、お母さんのことなんてどうでもよくなっちゃうんでしょ?」
「だからごめんって。今日はどうしてもやらないといけないことがあったんだよ」
「お友達に会ってたの?」
「まぁ、そんなとこ」
「今日の夜はビーフシチューにしたんだけど、食べるわよね?」
「これからバイト。だから明日食っていい?」
「え? バイト?」
「あ……」
母さんには家庭教師のことは言ってなかった。秘密にするつもりだったのに口を滑らせてしまった。
「ちょっと勉強を教えてるだけだよ。小遣い稼ぎ」
「誰に教えてるの?」
「高校生。同い年」
「あら、小学生とか中学生かと思ったわ」
「同じ高校の子なの?」
「聖マヌエル女子だけど」
「あのお嬢様学校の子? どこで知り合ったの?」
母さんの質問攻撃は一度始まるとなかなかおさまらない。「帰ってきたら話す」と適当にかわし、俺は玄関で素早くスニーカーを履いた。
美衣の家にはいつもより20分も早く到着した。美衣はまだ学校から帰ってきていないらしい。家に招き入れてくれた美衣の母は「修学旅行って言ってなかったっけ?」と不思議そうな顔を浮かべながらも、「上で待っていてくれる?」と階段を指さした。そしてエプロンを脱ぎ、バタバタと出かける準備を始めた。夕飯の買い物がまだだったらしい。俺はひとり宮川家に残された。2階へ上がると、美衣の部屋の向かい側のドアが少し開いているのに気がついた。前に美衣が、父親の部屋だと言っていた。「あそこはいつも鍵がかかっているの。書斎だから。誰も入らせてくれないのよ」と話していたのを思い出す。むくむくと湧きあがってくる好奇心には勝つことができず、俺は扉のドアを開けた。元気のない観葉植物だけが目立って見えた。薄いレースのカーテンがかかった窓の近くに大きなワーキングデスクが置いてある。デスクの上には大量の書類やファイルが積み重なっていた。埃の溜まり具合から判断するとあまり掃除はされていないようだった。だが、デスクの上だけは定期的な掃除がされているようにも見えた。とくに写真立てがいくつか飾ってある部分だけは、異様に磨かれているようで、沈みかけたオレンジ色の太陽が綺麗な影を作っていた。
「あれ……」
俺は思わず声をあげた。数ある写真立ての中から気になる一つを手に取った。写っているのは、2歳か3歳くらいの男の子で、小さな黄色のボールを大事そうに抱え、野球帽をかぶっていた。満面の笑み。そこには何の哀しさも映っていない。
「ここにいたの?」
背後で突然美衣の声がした。俺は不覚にも持っていた写真を床に落としてしまい、ガラスを割ってしまった。
「大丈夫?」
美衣は慌てて近づいてきて、デスクの上にあったティッシュを5、6枚手に取り、俺に渡した。
「血が出てるよ。もう拾わなくていいから。私がやる」
「お前は離れてろ。俺が片付ける」
「この部屋は入っちゃいけないのに。パパに叱られるわ」
「悪い。鍵が開いてたんだ」
「開いてたからって勝手に入るのは良くないと思う」
「ごめん」
「写真は私が間違って割ったって言っておくから」
「いや、お父さんにはちゃんと謝る」
授業中も俺はあの写真が心の奥底に引っかかり、美衣が何かを話しかけてきても上の空だった。
「どうしたの? さっきから変だけど」
「あのさ、写真の子……」
「あぁ、あの子?」
「誰かわかる?」
「知らない」
「だよな」
「気になるの?」
「見たことあるような気がして」
「あとで聞いてみる?」
「いい。多分思い違いだから」
俺は時間を確認すると、そのまま美衣の部屋を後にした。階段下では美衣の母親と父親が談笑しているのが聞こえる。
「すみません、不注意で写真立てを割ってしまいました」
俺はふたりの間に割って入り、頭を下げた。
「写真立て?」
美衣の母親は不思議そうな顔を浮かべた。
「ちょっと君」
美衣の父親はあからさまに不機嫌そうな顔を浮かべると、手招きをした。そして一緒にさっきの部屋に入ると、「これか?」と割れた写真立てを指さした。
「はい」
「親に教わらなかったのか? 他人の家で勝手な行動をしてはいけないな。君が入っていいのは、美衣の部屋とトイレ、リビングだけだ。その他の部屋には一切入るな。いいな?」
念を押すように、美衣の父親は再度同じことを繰り返した。
「絶対に入るんじゃない。とくにこの部屋はダメだ。大事な書類とか触ってほしくないものがたくさんある」
「すいませんでした」
俺は深々と頭を下げた。
「この写真……どうして割れたんだ?」
「手から滑り落ちてしまって」
「この写真だけ手に持っていたのか?」
「はい」
「そうか」
「その男の子も家族なんですか?」
「家族……か」
美衣の父親は俯いて深いため息をついた。
「この写真のことは美衣にも妻にも言わないでくれ」
「え……」
「写真立てを割ったことはもういいから。とにかく言わないでおいてほしい」
哀願するような顔を前にして、「もうしゃべってしまいました」なんて言えるはずがなかった。俺はそのまま「わかりました」とだけ告げ、美衣の家を逃げるように出た。