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羽田空港に降り立った俺は、そのまま電車に飛び乗った。修学旅行中に途中で帰るなんて普通はあり得ないことだ。大山を説得するために適当な持病を理由にして、クラスの副担任とともに東京へ戻ってきた。生徒たちの間で“チビハゲ”というあだ名がついている副担任は、もともと修学旅行に行くのは面倒だったようで、「いやぁ、ここだけの話だけど早く帰れてラッキーだよ」と漏らした。しかも、チビハゲは千葉の実家に顔を出すとかなんとか言って、そのままリムジンバスの乗り場へ消えて行った。担任とは正反対で、生徒の事情にはあまり首を突っ込まないタイプらしい。もっとも俺にとってはこっちの方が好都合なのだが。
駅に到着すると、大山から連絡を受けた母さんが顔面蒼白で俺を待っていた。
「ひどい偏頭痛ってどういうことなの? いつからなの?」
母さんは心配のあまり声を震わせている。
「もう治った。大丈夫だよ」
「本当なのね? もう痛くないのね?」
本来なら、親には本当の事を告げるべきなんだろう。だが、俺はあえて嘘を突き通すことにした。洋人の事は母さんに言いたくなかったからだ。
「これから用事がある。だから母さんは先に帰ってて」
「どこに行くの?」
「あとで説明する。夕方には帰るから」
母さんの質問攻めから逃れるために、俺は素早くその場を立ち去った。
洋人の家は、あかねと俺の家のちょうど中間地点にある。徒歩10分で到着する距離なのに、俺はどうして今まで洋人の家に行こうとしなかったんだろう。もちろん忘れていたわけではなかった。だけど、どこか後ろめたい気持ちがあって避けていたのかもしれない。
門の外でインターホンを鳴らすと、数秒後に洋人の母親が玄関のドアから顔を出した。
「あらあら、誰かと思えば悠ちゃんじゃないの。久しぶりねぇ。また背が伸びたんじゃない? 何センチになった?」
「184ぐらいだと思います」
「随分伸びたわねぇ。うちの子も毎日牛乳を飲んでいるんだけどね、なかなか伸びないのよ」
洋人の母親は昔からよく喋る。しかも一度喋り出したら止まらない。俺は質問攻撃から逃れるため、すぐ本題に入ることにした。
「洋人いますか?」
「部屋にこもりっきりなのよ。一体何があったのかしらね。あの子ったら聞いても教えてくれないの」
「入らせてもらってもいいですか? 話がしたいんですけど」
「もちろんよ。会ってあげて」
2階に上がり、ドアをノックする。数秒経ってから、目の前で静かにドアが開いた。
「悠か」
「おう」
「入れよ」
促されるまま部屋に入り、薄いグリーンの絨毯の上に座った。洋人はグレーのトレーナーに黒いジャージを履き、窓際にあるベッドの上に浅く腰を掛けて足をぶらぶらさせている。
「あれ、今って修学旅行中じゃね?」
「帰ってきた」
「なんで?」
「いや、色々あって……」
「集団行動が嫌でぶち切れたとか?」
「なぁ、俺のことはどうでもいいんだけど。それよりなんで学校に来なかったんだよ」
「無意味だから」
「それ俺の台詞じゃん」
「無気力少年?」
「そうそう。洋人が考えた無気力少年の台詞」
「学校なんて無意味さ」
ふたりの声がぴったり合わさった。その瞬間、洋人はふっと口角を上げ、目を細めた。
「やっぱ楽しいな。悠といると昔を思い出す」
「学校来いよ。登校拒否なんてお前のキャラじゃないし」
「たしかに。俺って楽天家だし、何でもプラス思考なのに変だよな」
「別にいじめられてるわけでもないんだろ?」
「ない、ない。でもさ、気まずくて会えないんだよ」
「それって……」
「あかね。この前フラれちゃってさ」
「昨日の夜、聞いたよ」
「そっか。あいつ口軽いからな」
「狂ってるんだよ、あかねは」
「狂気の沙汰だよな。人にストーカーやれって言うんだぜ? 引き受ける方も引き受ける方だけどさ」
洋人は皮肉っぽい言い方で、自分自身を嘲笑した。
「でもさ、宮川美衣ちゃんはいい子だよ。俺があの子の家の周りをウロウロしてて父親に見つかった時だって、なんだかんだで庇ってくれたしな。見ず知らずの男がストーカーなんてしてたら、本当は怖いはずなのにさ。警察に突き出そうとした親父を必死に止めてくれたのもあの子だった」
「警察沙汰にはならなかったんだな?」
「そう、美衣ちゃんのおかげで。でも3時間ぐらい延々と説教されたし、マジにしんどかったわ」
「弁明はしなかったのか? あかねに命令されたって言えば良かったのに」
「言えるわけないよ。俺たち3人は親友だろ?」
「やっぱお前ってスゲーな」
「なんだよ、急に褒めるなよ」
「その寛容さ。俺にはないから」
「まぁな。さすが俺!」
洋人はいたずらっぽい顔でニッと歯を出して笑った。
「悠みたいになりたかったんだよ、ずっと」
「なんで? もっとマシな奴を目標にしろよ」
「いや、俺にとっての目指すべきゴールはお前なんだよ。でも、他人と自分を比べて劣等感に苛まれても、そこからは何も生まれない。こういうの、頭ではわかってるんだけど、ここがさ、拒否して受け入れてくれないっていうか」
洋人は自分の胸を拳で軽く叩いた。
「もしかしてまだあいつのこと……」
「わからない」
洋人はゆっくりと、だがしっかりした口調で話し続けた。
「あかねがずっとお前を目で追ってて、それを見ているのが辛かった。どうしたら振り向いてもらえるんだろうって、お前の髪型とかしぐさを真似したり、わざと無気力ぶってみたりもしたんだけど。結局は何をしても敵わない。俺に優れている点なんて何ひとつ見つからなかった。悠を見るたびに心臓の奥がチリチリしたんだ。そんな風に毎日を繰り返しているうちに、痛みを負うのが怖くなった。だから俺は学校へ行くのをやめた。そう、俺は弱いんだよ」
洋人はおもむろに背を向け、閉まっていたカーテンを力いっぱい横に引いた。
「けど、悠は変わってなかった。昔のまんまだよ」
洋人はこちらに向き直ると、おどけたようにニヤっと笑ってみせた。
「少年よ、そこには愛がある」
「意味わかんねぇ」
「とにかく、今日は来てくれて嬉しかったってことだよ」
洋人はオレンジ色に染まった夕日を背中に浴びながら、照れ笑いをした。




