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「どうしたの?」

 家のドアを開けると、玄関まで出迎えに来た母さんが驚いたような声を出した。

「いやに暗いわね」

「そうかな」

「お医者さんに何か言われた? まだかかるって?」

「いや、傷はもう治ったって。今日で終わったよ」

「かわいそうな悠ちゃん……ひどい目にあったわね。躾のできてないバカ犬は外を歩かせないでほしいわ。飼い主も飼い主なら犬も犬よね。ちゃんとうちに謝罪にも来ないで。こっちがその気になれば訴えることだってできたのよ。うちの大事な一人息子に怪我を負わせるなんて。それも身体に残るような傷を……」

「飼い主には治療費をもらったんだし。俺にはちゃんと謝ってたから」

 母さんはまだ鼓太郎の犬を責めているようだ。この分だと、事あるごとに一生言い続けるかもしれない。俺の胸にじわじわと母親に対する疑問が広がった。これまでの人生、俺は母さんの言うことを肯定して生きてきた。だけど、最近は小さなことに違和感を持つようになってきていた。 

 母さんはダイニングテーブルに俺を座らせると、奥からとっておきのハーブティーを出してきた。

「いいことでもあった?」

「わかる?」

「昔からずっと変わんないよな、母さんは」

「失ったのは若さだけね。お母さんにとって悠ちゃんはいつまでも私の大事な大事な赤ちゃんなのよ」

「な、何だよいきなり」

「だから、いつまでも優しい悠ちゃんでいてね。お母さんを一人にしないでね」

「急にどうした?」

「なんでもないの」

「何だよ、ちゃんと言えよ」

「自分の気持ちがわからないのよね」

「え?」

「昨日の夜、西園寺さんにプロポーズされたの。嬉しかったわ」

 プロポーズという言葉に俺の心臓はぎゅっと締め付けられた。

「だけどね、わからないのよ。自分の本当の気持ちが」

「じゃあ断ればいいじゃん」

「そういう簡単なものじゃないのよ」

「アイツのこと好きなの?」

「西園寺さんには感謝してる。本当に良い人だし、優しくしてくれるし」

「へぇ」

「でも」

「でも?」

「胸がこう……熱くならないのよ。ドキドキできないっていうか……。そういう感情を持てないの。でもね、あの人と一緒になれば生活は安定するし、仕事だって減らせるわ。老後も安心できるしね」

 俺は母さんから目をそらした。

「こういう話、悠ちゃんにはまだ早かったかしらね」

「どういう意味だよ」

「付き合ってる子を紹介してくれたこともないし、恋愛経験ないでしょ?」

「んなこと関係ねぇだろ」

「あるわよ。恋の相談は経験者じゃないと共感できないでしょ」

「母さんはさ、何のために生きてんの?」

 俺は母さんの顔をまともに見ることができず、俯いたまま声を絞り出した。

「その年でまだドキドキしたい? 恋愛がしたい? 俺がいるのに? 息子じゃ足りないのかよ」

 胸を渦巻いていた黒い感情を吐き出し、呆気にとられる母さんを尻目に俺は外に飛び出した。隣家で飼っている大きな白い犬がフェンスからひょこっと顔を出した。シッポを振りながら、甘ったるい顔で何かを訴えている。普段なら頭を撫でてやるのだが、今はそんな気分じゃなかった。慕ってくれる犬にさえも八つ当たりをしてしまいそうな自分が怖い。

 気がつくと外は真っ暗になっていた。俺は小一時間ほどの道のりを歩き、西園寺家の前まで来ていた。自分でもどうしてここに来たのかは覚えていない。インターホンを鳴らすと、数秒で地味な格好をした四十くらいの女が門の近くまで小走りでやってきた。

「どちらさま?」

 黙っていると、女は俺の着ている制服に気づいたようで、「あら、お嬢様の同級生かしら?」と自分から口を開いた。

「菜々子お嬢様のクラスメイト?」

 中学生に間違われたことに軽いショックを覚えながらも、俺はすぐに否定をした。

「小夜子お嬢様にご用ですの?」

 俺は首を縦に振った。

「お名前は?」

「櫻井悠」

「ここでお待ちくださいね」

「中に入れてもらえないかな?」

「お嬢様の許可がないと……」

 女はオレンジ色の石畳が敷き詰められた道をパタパタと小走りで戻って行った。石畳の両脇には、イングリッシュガーデンを思わせる広い庭がある。オレンジ色の屋外灯が色とりどりの花を照らす。奥のほうにはライトアップされた大きな噴水も見える。きっと専属の庭師が日々欠かさずに世話をしているのだろう。三分ほど待っていると、薄いピンク色のカーディガンに紺色の膝丈プリーツスカートを履いた小夜子が門の前にやってきた。

「櫻井君? こんな夜に何でしょう?」

「いや……」

「サツキさんが彼氏だって勝手に勘違いしてるの。連絡なしに来られるのは困ります」

「サツキさん?」

「うちの家政婦さん」

「前はいなかったよな?」

「あの時はパパがサツキさんを早く帰らせたんです。自分で料理するってきかなくて」

「お父さんはいつ帰ってくる?」

「あぁ、パパに会いに来たんですか」

「ちょっと話があって」

「今はお仕事でいません。もうすぐ帰ってくると思います。中で待っててください」

 小夜子は俺を先導するように一歩先を歩いた。玄関を開けると、目の前にはシャンデリアと大きな螺旋階段がある。小夜子は三十畳はあろうかという広いリビングルームに俺を通し「ここにいればパパに会えます」と言って階段を上がろうとした。

「ちょっと待てよ」

「お茶なら今サツキさんが持ってきますから」

「聞きたいことがあるんだけど」

「何ですか?」

 小夜子は首を少し横に傾げて、俺の向かい側に置いてあるソファに腰をかけた。

「あのさ、お父さんの離婚って……原因とか知りたいなって思ったんだけど」

「それって興味本位ですか?」

「違うよ。うちの母さんにプロポーズしたって……君のお父さんが」

「そう」

「だから息子として色々知っておきたいっていうか。あ、いや、でも言いたくないなら無理に聞く気はないから。今のは忘れ……」

「離婚じゃない」

「え?」

「死別です。病気でした」

「病気?」

「菜々子が生まれたと同時に亡くなったんです。子どもを堕ろせば母体は助かったんですけど、ママは菜々子を選びました。赤ちゃんと自分の命を引き換えに死んでいったんです」

 俺は小夜子が発する一言一言にズシンとした重みを感じた。

「それからうちはおかしくなりました。パパは魂の抜けた人形みたいになって。表には出さないようにしてるけど、心のどこかにしこりを持ってるんだと思います。菜々子を愛せないのもそれが原因かもって思うんです」

 自ら服を脱いだ菜々子の大人びた顔が頭に浮かんだ。そして同時に俺がアイツにぶつけた暴言も鮮明に蘇ってきた。

「菜々子、最近帰って来ないんです。メールはたまに返信があるんですけど、電話にはほとんど出なくて。友達の家に泊めてもらってるっていうんですけど……」

「外泊か」

「あ、櫻井君! お願いがあるんですけど……」

 小夜子は何か思いついたように、急に俺の手首を握った。そして強い力で俺の腕をぐいっと引っ張った。華奢なくせに握力は結構あるようだ。パタンと自室のドアを閉めると、小夜子は「代わりに菜々子に電話をしてくれませんか」と言った。淡いピンクで統一された十二畳ほどの広々とした部屋の真ん中には、花柄のピンクのカバーがかかったセミダブルのベッドが置いてある。そこに小夜子はちょこんと座り、手招きをした。俺は小夜子から少し離れた位置に座り、頭を横に振った。

「どこにいるのか聞くだけでいいんです」

「断る」

「お願いします」

 小夜子は俺の前に立って頭を下げた。

「困ったな」

「心配じゃないんですか?」

「そりゃ心配してないわけじゃないけど」

「櫻井君の携帯からかければ出ると思うんです」

 面倒臭いことに巻き込まれてしまった。菜々子と関わるのは正直苦手だった。

「私、櫻井君にも責任があると思うんですが……」

「は?」

「あの晩、菜々子と何かありましたよね?」

 俺はドキリとしたが、冷静を装って口を開いた。

「人のせいにすんなよ」

「あの晩からおかしくなったんですよ。すっかりご飯を食べなくなってしまって」

 嫌な予感がする。俺の言ったことで菜々子は傷ついて家に帰って来なくなったのだろうか。もしそうだとしたら、俺にも責任の一部はあるかもしれない。

「わかった。かける」

 小夜子は俺の言葉を聞いて嬉しそうに顔をほころばせた。五回ほど呼び出し音が鳴り、菜々子らしき声が聞こえた。

「もしもし?」

「あ、櫻井だけど」

「お兄ちゃん……なんでかけたの?」

「お前の姉ちゃんに頼まれたんだよ」

「なぁんだ。心配してかけてくれたのかと思った」

「心配は……したよ」

「ホント?」

 菜々子の声が弾んでいるのがわかる。

「今どこにいるんだよ」

「えー、知りたい?」

 小夜子が俺の隣で「迎えに行くって言ってください」と小声で指示を出している。

「迎えに行くから」

「マジに?」

「マジだから早く言えよ」

「ごめん、今は無理」

「は? なんで?」

「だってホテルにいるんだもん」

「ちょっと待てよ。ホテルって……」

 小夜子は青ざめて立ち上がった。そして、ホテルの名前を聞いてと小声で俺に耳打ちをした。

「ホテルの名前は?」

「言ったら迎えに来んの? 彼氏といるのにな」

「彼氏?」

「そ、昨日ナンパされたの」

「おい!どこのホテルだよ!」

「ねぇ、菜々子を救おうとしてる? 無駄だよ。私は誰からも愛されてないの。だから、別に何をしたって誰も悲しまないよ」

「んなことねぇよ。姉ちゃんが心配してるだろ。父さんだっているじゃねえか。俺だって……」

「笑わせてくれるね。お兄ちゃんだって私のこと嫌いでしょ。浅ましい女は嫌なんでしょ」

「あれは……」

「今更遅いよ、弁解なんて聞きたくない」

「あの日はいきなりお前が服脱いで……」

 小夜子がぎょっとしたような顔で俺を睨んだ。

「あ、いや。あれは事故……」

 俺は慌てて小夜子に弁明を始めた。頭の中はまさにカオス状態だ。小夜子は俺の手から携帯をもぎ取ると、いきなり菜々子を怒鳴りつけた。

「いい加減にしなさいよ。どれだけ心配かけてると思ってるの!」

「小夜子、どうしたんだ」

 急に背後から男の低い声がした。ドアが開き、西園寺が顔を覗かせている。

「おっ、悠君じゃないか。元気にしていたかい?」

 西園寺が俺に向かって右手を上げた。フレンドリーに振舞っているつもりだろうが、かえって軽々しい男に思える。コイツの魂胆は何なんだ。何が目的なんだ。後ろから殴ってやりたい衝動を抑えながら、西園寺の背中を睨みつけた。

「菜々子と話しているのか? パパに代わりなさい」

 西園寺は小夜子の手から携帯をそっと取り、「もしもし、菜々子か?」と低い声で話し始めた。その途端、恐らく電話が切れたのだろう。西園寺は少し困惑したような顔を浮かべたまま「すまんな」と言い残し、部屋を出て行った。

「あのさ」

 俺も数歩遅れて螺旋階段を下り、西園寺の背中に向かって声を発した。

「なんだね?」

「本気で結婚するつもりじゃありませんよね」

「あぁ、そのことか」

「まだそんなに母のこと知らないですよね」

「たしかに君の言う通りだ。僕たちは知りあって間もない。本気じゃないと思われるのも無理ないな」

「俺は反対ですから」

「理由を聞かせてもらえるかな」

 西園寺はにこやかな表情のままで言った。

「自分で考えたらどうです?」

「僕に嫉妬してるんだろう。お母さんを独り占めしたいのに取られて悔しいのかな」

 ニヤっと笑った西園寺の顔が俺の怒りに火を注いだ。

「恋愛にうつつ抜かしてる場合じゃねぇだろ。まず自分の娘をどうにかしろよ。プロポーズの前にもっとすることあんだろ。母親が死んだのは菜々子のせいなのかよ」

「櫻井君!」

 小夜子が螺旋階段の途中で足を止め、恐怖に凍りついたような顔で俺の名前を叫んだ。

「小夜子、お前がコイツに言ったのか」

「ママの話になったものだから……」

「なんでお前はペラペラと他人にうちの事を話すんだ」

「おい、人の親に結婚申し込んどいて他人ってことはねぇだろ」

「櫻井君、もういいんです。ごめんなさい」

 小夜子は今にも泣き出しそうな顔をしてサツキを呼んだ。そしてサツキに促されるまま、俺は西園寺家の門を後にした。

 自分の行動が理解できない。いったい俺は何をしたかったんだろう。前の自分だったら、あんなに怒鳴ることもなかったろうに。無関心がポリシーだったし、他人との関わりはなるべく避けてきた。人間関係なんて面倒臭いだけだからだ。それなのに西園寺家の問題に自分から首を突っ込むなんて俺はバカだ。大バカだ。あんな家、あのまま放置しておけば良かったんだ。西園寺家がどうなろうと俺には関係ない。

 家につくと、母さんは「ただいま」という俺の声を聞いて玄関まで走ってきた。座って靴ひもをほどく俺の頭を、母さんが後ろからそっと撫でる。「ごめんね。お母さんには悠ちゃんだけよ」

「俺は反対だから。あの男もきっとまた傷つけるんだ。母さんを捨てるに決まってるんだから」

「わかってる。悠ちゃん、わかってるわ」

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