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「足の傷だいぶ良くなったね」

 白衣を着た四十代前半くらいの外科医が俺の足首を触りながら言った。

「もう来なくていいですか」

「そうだね、抜糸をした後も順調だし」

 俺はホッと胸をなでおろした。

「病院に来るのは嫌かい?」

「雰囲気がどうも……」

 俺は適当な言葉で誤魔化した。実際、病院が好きな奴なんて滅多にいないだろう。消毒液のツンとした臭いを嗅いでいるだけで食欲が失せてしまう。俺は小さい頃、何度も母さんと一緒に病院へ来たことがあった。父親が俺たちを捨てた後、母さんは三回男を作った。一人目の男に捨てられた後、母さんはしばらく神経衰弱になって心療内科に入院をしていた。二回目の男には身体に暴力を振られて、何度か病院に通院していたことがあった。そして三回目の男には言葉の暴力を振られ、精神的に限界に達したのか自殺未遂を起こして救急車で運ばれた。俺は自分のことで入院をしたことは一度もない。病院へ来るたびに思い出すのは、幼いころのおぞましい記憶と母さんの弱った姿だった。

 会計窓口の前に立っていると、ふいに背後から聞き慣れた声がした。

「あら、櫻井君じゃない」

 声のする方に目をやると、学級担任の大山が俺の方を見て微笑みながら手を振っていた。

「どうしたの? どこか悪いの?」

「足をちょっと」

「学校でもしばらく引きずってたもんね。大丈夫なの?」

「もう治ったんで」

 大山は「そう。良かった」と言い、右手を自分の胸に当てた。「最近の櫻井君はなんていうか……変わったね」

「そうですか?」

「うん。丸くなった感じ。前はもっとかどがあったのよ」

「そうかな」

「自分で自分のことって見えないのよね。私もそう。家族に指摘されて初めて気づいたりするの」

「先生もどこか悪いんですか」

「私じゃないの。お見舞いよ。父が入院してるの」

 大山はもっと喋りたそうにしていたが、俺は早く家に帰りたかった。

「じゃあ俺はこれで……」

「もし迷惑じゃなかったら寄って行かない?」

「え?」

「病室。うちの父の」

 大山の後ろについて個室へ入って行くと、頬のこけた土気色の老人がベッドに横たわっていた。七十、いや七十五くらいだろうか。背中を向けて窓の外を眺めていたが、俺たちが入ってきたことに気づいて途端に機嫌の悪そうな声を出した。

「誰だ貴様は」

「父さんそんな言い方は失礼よ」

「ふん。勝手にワシの部屋に入れるな」

 いかにも偏屈そうな爺さんは、俺の顔を一瞥しただけでまた窓の方を向いた。

「いいじゃないの。ここは病室よ」

「いらん口を叩くな」

「こちらは櫻井君。うちの学校で一番優秀な生徒よ。頼んで来てもらったの」

 爺さんは喉をピーピーと鳴らしながら何かつぶやき、窓の方を向いたまま大きく息を吸った。その時、運悪く痰が詰まったのか肩を大きく揺らしながら咳をし始めた。

「櫻井君、悪いけど飲み物買ってきてもらえる?」

 大山は申し訳なさそうな顔でポケットから小銭を出し、俺の手に乗せた。

 正直に言えば、こんな爺さんの相手をするなんて面倒だった。自販機に行くフリをしてそのまま帰ろうかと思った。でも苦しそうにしている爺さんの寂しそうな後ろ姿が脳裏に浮かび、俺の足は再び病室の方へ戻って行った。

「ひどいじゃないの!」

 病室のドアを開けようとした時、大山の金切り声が飛んできた。

「ワシはもうすぐ死ぬんだ。もう放っておいてくれんか。誰も連れて来んでいいし、お前ももう来るな」

 爺さんの声はさほど大きくなかったが、ドア越しにもハッキリ聞こえた。

「そんな言い方ってないわ。父さんが心配なのよ。だからこうして顔を見に来てるんじゃないの」

「お前は無理をしておる」

「そんなことない。私は……私は……」

「ワシのことは許さんでいい」

「父さん、やめて。もう言わないで」

 大山のすすり泣く声が聞こえてきた。

「泣くなら帰れ」

 爺さんが急に大声を張り上げた。その直後、目から大粒の涙をぽろぽろと零した大山が勢いよくドアから飛び出してきた。

「先生!」

 俺は慌てて大山の後を追った。病院の屋上へ向かっているようで、ものすごい速さで階段を駆け上がって行く。重い鉄扉を開けると、大山がうずくまった状態でフェンスにもたれかかっていた。

「先生、さっきの……」

「聞こえてた?」

「少しだけ」

「まったく恥ずかしいわね。あんなところを聞かれちゃうなんて」

 俺はなんて言っていいかわからず、黙っていた。大山は顔を見られたくないのか、フェンスの方を向いたまま「ごめんね。もう帰って」と小さく呟くように言った。

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