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ピピピピピ……無機質に鳴り響くメールの着信音。音量が大きかったせいかすぐに目が覚めた。美衣からのメールだということに気づき、俺は慌てて上半身を起こした。メールのタイトルは“初デート”。俺の心臓はデートという文字を見た瞬間に、バクバクと音を立てて反応し始めた。恋愛に対してあまり耐性がないせいか、近ごろはすぐに心拍数があがってしまう。ちょっとしたことで心臓がドキドキするなんて、幼稚で恥ずかしいような気がした。
「朝ご飯食べなさい! 遅刻するわよ」
母さんの声が階下から響き渡っている。普段から腹式呼吸を実践しているせいだろう。声はかなり大きい。食卓テーブルにつき、ご飯とみそ汁、甘い卵焼きを一切れ、そしてシーザードレッシングがかかったレタスを一口、胃に流し込んだ。
学校へ向かう道で、あかねと洋人が二人並んで歩いているのが見えた。あの二人と話すのは正直面倒だった。とくに今朝はこの幸せな気分を誰にも邪魔されたくない。俺は道路の端を歩き、知らん顔で二人の横を通り過ぎようとした。だが、少し通り過ぎた所で洋人に肩をがっしり掴まれてしまった。
「無視すんなよ。冷たいなー」
洋人はヘラヘラした口調で言った。
「そうよ。私たち、日浅トリオじゃない」
あかねは横で不満そうに口を尖らせた。
「その言い方やめろよ。恥ずかしいだろ」
「洋人のひ、あかねのあ、櫻井のさ~。三人そろって日浅トリオ~」
洋人が急にメロディーを口ずさんだ。この歌は小学一年生の頃、当時流行っていたCMの替え唄として俺が作詞したものだった。日浅というのは、当時一大ブームを巻き起こしたアニメ番組でヒーローを演じていた俳優の名前だ。日浅龍之介に憧れていた俺たちは、自分たちの頭文字を集めると偶然“ひあさ”になることが何よりも嬉しかったのだ。
「悠さ、この前聖マの校門で誰かと会ってたろ?」
「え、誰?」
あかねは訝しげな顔つきで俺を見た。
「いや、人違いだろ」
「従妹がメールしてきたんだよ。お前が校門の前にいたって」
「従妹?」
「言ってなかったっけ? 四月に聖マの中等部に入学したんだよね」
「何しに行ったの?」
あかねが機嫌の悪そうな顔で尋ねた。
「ついに彼女探しを始めたってわけかー」
「そうなの?」
「悠はモテるからな。聖マの子でも女子大生でも選り取り見取り。誰とでも付き合えるだろ。いいよなー顔のイイ奴はお得で」
「あーうるせー。お前らに関係ないだろ」
「いいじゃん、教えてよ。親友だろ? 悠にもついに彼女ができたとか?」
洋人が俺の肩に再度手を回してきた。その時、腹の中で堪忍袋の緒が切れるのを感じた。
「失せろ」
俺は吐き捨てるように言い、洋人の胸の辺りを手のひらで力いっぱい押した。
「何すんだよ」
今度は洋人がうめき声を上げながら、すごい力で俺の胸倉をつかんだ。その時、制服の上着のポケットに入っていた携帯がゴツっと音を立てて地面に転がり落ちた。慌てて拾おうとしたが、あかねの方が数秒早かった。ヤバイと思ったがすでに遅かったようだ。携帯の画面を見たあかねは顔を硬直させ、すぐに走り去って行った。いつもとは違うあかねの行動に洋人は狼狽したような表情を浮かべ、慌てて追いかけていった。あかねから投げるように手渡された携帯に目をやると、画面には美衣からのメールが表示されていた。今朝メールを確認した時からずっとこの画面のままだったのだ。
チャイムが鳴るのと同時に俺は教室を後にした。今朝のメールの内容は、放課後に動物園に行きたいというものだった。
「櫻井君! こっち!」
聖マの校門の前にある横断歩道の脇で、美衣が手を振っているのが見えた。
「時間ぴったりだね」
美衣は声を弾ませて、俺の腕に自分の腕を巻き付けた。
「ここではやめ……」
俺の声をかき消すように、「いいの! 自慢しちゃいけない? 初めての彼氏なんだもん」と美衣は言った。
「噂になったらマズイだろ」
「どうして? クラスのみんなには櫻井君と付き合ってるって言っちゃったよ」
「マジかよ……なんで自分から言うんだよ」
「ダメだった? ごめんなさい」
「とにかく俺は目立つのが嫌いなんだよ」
美衣は小さな声でもう一度「ごめんね」と言った。長いまつ毛にうっすらと涙が浮かんでいる。
「でも櫻井君はひどいよ。私の気持ちなんて無視してる」
「お前の気持ちってなんだよ」
「ほら、名前でも呼んでくれないし」
美衣はプイっと顔をそむけた。
「おい、むくれんなよ」
美衣の行動があまりに子どもっぽくて、少しからかってやりたくなった。
「宮川ー」
美衣は向こう側を向いたまま返事をしない。
「宮川さん」
まだ無視をしたままだ。
「そんなにむくれてるとブスになるぞ。ほっぺが膨らんだまんまリンゴみたいな顔になってもいいのかよ」
美衣は急に俺の方に向き直って、顔を真っ赤にして言った。
「リンゴって何よ!」
「ほら、その顔だよ。怒ってばっかりいると眉間にシワが寄るぞ」
俺は美衣のシワが寄っている部分を人差し指でそっと押さえた。美衣はふいに触れた俺の指に、困惑したような顔を浮かべた。
「美衣」
俺は耳元でそっと名前を囁くと、美衣の頬に自分の唇を当てた。まるで苺大福のもちもちした皮に唇が触れた時のような感触が伝わってくる。
「なんか大福みてぇだな」
俺は思ったことをそのまま口に出した。
「え?」
「お前のほっぺた」
「ヤダー」
「なんでだよ」
「大福ってなんかお年寄りっぽい」
「は?」
「他にもっと可愛い例えってないの?」
「ない。美衣は苺大福だな」
「それって褒めてるの? けなしてるの?」
「さあね」
「和菓子と洋菓子、どっちが好き?」
「洋菓子」
「苺大福とイチゴのショート、どっちが好き?」
「イチゴのショート」
美衣はショックを受けたような顔を浮かべ、歩いていた足を急に止めた。
「意地悪……」
「ん?」
「なんで意地悪言うのよ」
美衣は俺の背中を小さく叩いた。
「櫻井君なんて嫌い」
美衣は白い制服の裾をふわふわと風になびかせながら、小走りで俺の隣から離れた。俺はただ自分のそばに置いておきたくて、すぐに後を追った。
「捕まえた」
イヤイヤするように体をねじる美衣をさらに強く抱き寄せる。
「苺大福は俺の大好物だよ」
俺は美衣の体を後ろからぎゅっと抱きしめた。春の風に当たって冷え切った体をじんわり温めるように――。