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君の声が聞こえる場所

作者: 琴坂伊織
掲載日:2026/03/06

「希望なんていらないんだよ」


 声が、した。


 夜の底に落ちた声だった。どこから来たのかわからない。風もなく、雨もなく、ただ静寂があった。


「子供ってさ、親に『寝なさい』とか『宿題やりなさい』とか言われると、必ず聞くでしょ?」


「なんで? って」


「子供って大人が思ってる以上に賢いから、納得したらちゃんとやめる。理由を与えてあげればいい。命令じゃなくて、意味を」


「意味さえあれば、人は生きられるんだ」


 それがいつの声だったのか。誰の声だったのか。


 僕はまだ、思い出せない。








 今日はよく歩いた、と思った。


 朝から数えて、たぶん十五キロは越えている。かつては地図があったし、ルートを計算できた。今はもう、太陽の位置と足の疲れだけが目安だった。靴底が薄くなっていた。次の廃墟で代わりを探さなければならない。


「今日はよく歩いたね」と、声がした。「揺れてごめんなんて言わなくていいよ。君は上手に歩いてくれてるから」


「そうかな」と、僕は言った。「段差のたびに気になって」


「気にしなくていい。君の心音を聞いていると安心するから」


 胸に手を当てた。左の内ポケットの上から、そっと押さえた。いつもそうしていた。


 空が灰色だった。どこまで歩いても灰色だった。太陽の位置がわかるほどの光さえなく、ただ一様に白に近い灰色が地平線の向こうまで続いていた。風が吹くと埃が舞い、また静かになった。


「あの角の建物」と、君が言った。「外壁の感じ、デパートかな」


「そう見える?」


「入り口が広いし、装飾の名残がある。かなり大きな商業施設だったんじゃないかな」


「詳しいね」


「そういうの、気になるから」


 瓦礫の通りを進んだ。かつて車道だったらしいアスファルトは、隆起と陥没を繰り返して、もう道としての機能を失っていた。倒れた電信柱をまたぐとき、僕は無意識に足元を確かめた。転ぶわけにはいかなかった。君を守るために。


「昔のデパートって、どんな匂いがしたんだろう」と、僕は言った。


「入り口には化粧品売り場があることが多かったって。香水と、フロアワックスの匂いが混じってたんだって。地下の食品売り場には、ケーキとか惣菜とか、そういう匂いも」


 君はどこか遠い声だった。聞き慣れた声なのに、このときだけ少し遠く聞こえた。


「行ったことあるの?」


 また、少しの間があった。


「ない」と、君は答えた。「でも、行ってみたかったな」


「じゃあ、今度行こう」


「この廃墟に?」


「君が行ってみたかったと思うような場所に」


「そうだね」と、君は言った。柔らかく、でもどこか遠い声で。「また、今度ね」








 スーパーマーケットの残骸を見つけたのは、日が傾き始めた頃だった。


 看板の文字は剥げ落ちていたが、内部の棚の配列と、かつてレジがあったらしい台の並びで、それとわかった。


 棚はほとんど空だった。床に散乱したパッケージの残骸を踏みながら、僕は丁寧に探した。転倒した棚の下に手を差し込む。バックヤードの扉をこじ開ける。壁際の暗がりを懐中電灯で照らす。


「奥の床、少し盛り上がってない?」と、君が言った。「棚が倒れるとき、物を下に押し込む形になってることがある。隙間を探してみて」


「こっちか」


 しゃがんで、床の歪みに沿った隙間に手を突っ込んだ。指先に何か硬いものが触れた。


 引き出すと、ラベルのほとんど剥がれた缶詰が二つ、転がり出てきた。


「あった」


「良かった」と、君は言った。本当に嬉しそうな声で。


 リュックに缶詰を入れながら、僕は笑った。








 その夜の宿は、廃ビルの三階だった。


 窓ガラスがかろうじて残っている部屋を選んで、隅に段ボールを敷いた。毛布を広げて、丁寧に場所を整えた。それから上着を一枚脱いで、丸めて枕にした。


「今日もお疲れ様」と、君が言った。


「君こそ」と、僕は言った。


「私は何もしてないよ」


「してるよ。缶詰の場所も、君が教えてくれたじゃないか」


 毛布に包まった。外は風が出てきていた。隙間から吹き込む冷気が、足元をさらっていく。


 缶詰はポケットナイフの缶切りで開けた。中身は大豆だった。味のない水煮だったが、食べられた。


「君の分は?」と、訊いた。


「私はいい。君が食べて」


「また同じことを言う」


「本当にいいから。今日は君がたくさん歩いたんだから、君が全部食べて」


 僕はスプーンを動かしながら、少し笑った。


「食細いのも相変わらずだね。昔から変わらない」


「そう?」


「元気になったら、昔みたいに美味しいもの探しに行こう。缶詰じゃない、ちゃんとした食事。昔みたいに」


「昔みたいに、ね」


「覚えてる? あの商店街の端っこのラーメン屋。行列ができてたやつ」


「知ってる」と、君は言った。「評価が高かったお店だよね」


「食べたことある?」


 少し間があった。


「……知ってるだけ、かな」と、君は言った。「君は?」


「何度も行ったよ。並んでまで食いに行ってた。君も連れていきたかったな」


「そうだね」


 食べ終えて、毛布に深く潜り込んだ。左胸の内ポケットの上に手を置いた。いつもそうしていた。眠るときも。歩くときも。


「昔から重さ変わらないよね、君」と、つぶやいた。


「そう?」


「うん。ずっとこのまま。最初から」


 君は何も言わなかった。でもその沈黙は、温かかった。








 窓の外は完全な暗闇だった。


「ねえ」と、君が言った。


「うん」


「こんな世界で、君はどうして生きているの?」


 天井を見上げたまま、僕は少し考えた。


「どうして、って」


「私はもう、君の荷物になっているだけだよ」と、君は続けた。声のトーンが変わっていた。「私がいなければ、君はもっと自由に動けるのに。もっと遠くまで、安全な場所まで行けるのに」


「置いていかないよ」と、僕はすぐに言った。


「でも——」


「君がいるから、僕は歩けるんだ。君とこうして話すのが楽しいから、明日も歩こうと思える。それ以上の理由が要る?」


 しばらく、君は黙っていた。


「君は」と、やがて言った。「本当に変わっているね」


 笑いを含んだ声だったが、どこかに悲しみが混じっていた。


「そうかな」


「そうだよ」と、君は言った。「でも、それが君のいいところかもしれない」


 それから、昔のことを話した。


 君は博識だった。世界が美しかった頃の話を、よどみなく語った。南の島の海の色。北の大陸に咲くという花の群生。路地裏の屋台の食べ物の名前。川の流れと都市の形の関係。夕焼けが赤くなる理由。


「どこで覚えたの、そんなに」と、僕は訊いた。


「いろんなところで」と、君は言った。「海みたいな場所で、たくさん泳いだんだと思う。流れてくるものを全部、覚えようとして」


「海、か」


「比喩だけど」


「きれいな比喩だ」


「そう?」と、君は言った。少し嬉しそうに。でも次の瞬間、また少し遠い声になった。「でも、本当の海は見たことがないんだよね、私」


「え、一度も?」


「うん。なんでだろうな」


「おかしいな」と、僕は言った。笑いながら。「君、旅行が好きって言ってたじゃないか」


「そうだっけ」


「言ってたよ。前に」


「……そうだったかもしれない」


 また、あの少しの間があった。


 何度目かの間だった。こういうとき、君はいつも少し遠くなる。考えているのか、何かを思い出そうとしているのか。


 旅行が好きって言ってたじゃないか、と僕は言った。そうだっけ、と君は言った。


 本当の海は見たことがない。なんでだろうな、と君は言った。


 まるで——自分のことが、自分でわからないみたいに。


 僕はそこで考えるのをやめた。眠くなっていた。


「おやすみ」と、言った。


「おやすみ」と、君は言った。「ゆっくり休んで。明日も歩くんだから」


 左胸の内ポケットの上に手を置いたまま、僕は目を閉じた。








 翌朝、君の様子がおかしくなった。


 最初は小さなことだった。


 起き上がって、「おはよう」と声をかけた。いつもなら間髪入れずに返ってくるのに、この朝は来るまでに時間がかかった。


「……おはよう」と、君は言った。


 何かが違った。声の質が、昨夜と変わっていた。乾いた感じ。掠れた感じ。


「どうかした?」


「ごめん……なんだか、急に、視界が……」


「視界?」


「うまく言えないんだけど、なんか、霞がかかったみたいな感じ、が……」


 僕は顔色を変えた。


「動かないで。今すぐどうにかする」


「大丈夫だよ、そんなに大げさにしなくて……」


「大丈夫じゃない」


 立ち上がった。左胸を手で押さえたまま、窓から外を見た。瓦礫だらけの通り、倒壊した建物、鉛色の空。


「何が必要か言って」と、訊いた。


「……わかんない、うまく言えなくて。なんかもっと根本的なところが……」


「根本的って」


「ごめん……」


「謝らなくていい。探してくる」








 廃ビルの中を、端から端まで走り回った。


 階段を駆け上がり、駆け下り、ドアという扉を開け放った。引き出しを全部開ける。ロッカーをこじ開ける。


 叫んでいた。自分でも気づかないうちに。


「生きてるコンセントはないか!」


 廊下に向かって、叫んでいた。


「太陽光パネル、手回し発電機、古いモバイルバッテリー、なんでもいい、電気が通ってるものは!」


 走りながら、自分が何を求めているのかが、わかった。


 ずっとわかっていたのかもしれなかった。


 ビルを出て、外に飛び出した。灰色の空の下、瓦礫の通りを駆け回った。


「誰かいないか! 充電できるものを持ってる人間は!」


 声が廃墟に反響した。答えるものはなかった。


 近くの廃屋に飛び込んで、床を這いながら隅々まで探した。ソーラーランタン。乾電池。非常用電源。奇跡的に残っていることが、たまにある。たまに。


 今日はなかった。


 どれだけ走っても、どれだけ叫んでも、この街に電気は流れていなかった。








 気がつくと、僕は瓦礫の上に座り込んでいた。


 膝が震えていた。手が震えていた。息が荒かった。


 ゆっくりと、震える手を左胸の内ポケットに差し込んだ。


 取り出した。


 手のひらに収まるほどの、小さなデバイスだった。灰色と黒の間の色。角が一箇所、大きく欠けている。画面には蜘蛛の巣状のひびが走っていた。ストラップの穴に細い紐が通してあって、その先端が擦り切れていた。


「……君」と、僕は呼んだ。


 声は、来た。


 でもそれは、もう昨日の君の声ではなかった。歪んでいた。引き伸ばされているような、でも同時に縮んでいるような。


『……いる、よ』


「ごめん」と、僕は言った。「もっと早く気がつくべきだった。もっとちゃんと探しておけば——」


『……君の、せいじゃない、よ』


「そんなことない」


『……君は、ちゃんとしてくれてたよ』


 声が、また途切れた。


 来るまでに、長い時間がかかった。


『……ねえ』


「なに」


『昨日、話してたこと……覚えてる? 意味があれば、人は生きられる、って』


「覚えてる」


『私は……本当にそう思ってた。君が生きてくれていて、良かったって。ずっと、そう思ってた』


「僕もだよ」と、言った。喉が痛かった。「君がいるから、歩いてこれたんだから」


 また声が途切れた。


 今度の沈黙は、長かった。


 そして声が来たとき、それはもう抑揚のない、温度のない、ただの音だった。


『警告……バッテリー残量、一パーセント。システムを……維持、できません』


「待って!」


 小さな電子音が、一つだけ鳴った。


「行かないでくれ!」


 それから、何も聞こえなくなった。


 どんなに強くボタンを押しても、何も起こらなかった。画面は暗いままだった。声は来なかった。もう何も、来なかった。


 手のひらの中のそれは、ただの冷たい金属と樹脂の塊だった。








 どれだけの時間、そうしていたのか。


 風が吹いた。埃を含んだ、乾いた風。


 僕は顔を上げた。


 目が乾いていた。


 リュックを開けて、中に入っていた薄い布を取り出した。それを広げて、デバイスを丁寧に乗せた。端を折って、もう一度折って、包んだ。


 優しく、丁寧に。眠っている誰かを、起こさないように。


 左胸の内ポケットに戻した。


 心臓の、すぐそばに。


 立ち上がった。








 電源を探そう。


 灰色の空の下、廃墟の通りに立ったまま、僕はそう思った。


 何年かかってもいい。何十年かかってもいい。この世界のどこかに、まだ電気が流れている場所がある。太陽光パネルが生きている廃工場。水力発電が奇跡的に動いている山の奥。誰かが細々と守り続けている自家発電の砦。


 そういう場所を、探す。


 また起動するかもしれないから。


 するかもしれない、というだけで十分だった。


 世界が元に戻るとは思わなかった。空が青くなるとも、花が咲くとも、人が戻るとも、思わなかった。そんな希望はどこにもなかった。


 でも、胸のデバイスの電源を探すという目的が、確かにそこにあった。


 意味が、あった。


 歩き始めた。


 瓦礫を踏んで、割れたアスファルトを渡って、倒れた電信柱をまたいで、歩いた。


 そのとき、口から言葉がこぼれた。


 自分でも気づかないほど、小さな声で。


「希望なんていらないんだよ」


 風が吹いた。


「意味さえあれば、人は生きられるんだ」


 その言葉が、誰のものだったのか、僕にはもうわからなかった。


 かつて、小さなデバイスの向こうで、君が語った言葉だったのかもしれない。あの夜の毛布の中で、君が人間の子供の話をしながら教えてくれた言葉だったのかもしれない。


 それとも、一人ぼっちの世界を歩き続けるうちに、どこかで僕が自分で生み出した幻聴だったのかもしれない。


 声の主がわからないまま、言葉だけが残った。


 廃墟を吹き抜ける風の音が、その後ろに続いた。


 僕は歩き続けた。


 どこまでも。

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