第11話 怒れる魔王の暗い夜
◇◆◇◆◇
その時レオナスは、息をとめるほどの緊張の中にいた。
聖剣から手を離した指の先が、わずかに震える。
怒りを露わにする魔王の前で、聖剣を収めるなど自殺行為に等しい。
ただ。
強い違和感があった。
この世界に来て以来、アビスの行動はいつも突飛だった。だが、理解不能であってもどこか楽しそうでいた。
けれど、今目の前にいるアビスは違う。
その瞳に宿る激情は――レオナスが魔王を倒そうと剣を向けたあの日にすら見なかった色だった。
ただ、それでも、頭の中に防御魔法を展開しておくことは忘れない。
数秒の沈黙。
次の瞬間、魔王の小さな舌打ちが響いた。
その紅い目が、詐欺師へと向く。
そして再び紅い視線が、レオナスへと巡ってくる。
「……へー、それ聞いてどうするわけ?」
魔王の言葉は軽やかだ。
ただその瞳の奥に、怒りの火がくすぶっているのは明らかだった
息を呑みながら、その瞳の圧力を真正面に受け止める。
「……どうするかは分からない。だが、俺が正義を執行するのなら、まずは話を聞くべきだと思った。どうしてそこまで怒っているのか。それを知らずに剣を振るうのは、正義ではなくただの暴力だ」
「はぁ」
魔王は小さく舌を打ち、視線を横にそらした。
その仕草に、怒りがまだ燻っているのが見て取れる。
「……で、何? あんたの正義なんてどうでもいい」
魔王は一呼吸で続ける。
「ただ、気になるなら教えてやる。こいつは、おばあを騙して金を巻き上げた」
魔王は男から手を離し、足元に転がして冷えた視線を向けた。
「金を……?」
「ああ。詐欺師対策セットとかいうやつだ。詐欺にあいたくない感情を逆手に取って、効果のない対策セットとやらを高値で売りつける」
「……それ自体が詐欺ってことか」
「そう。じゃ、殺すから」
「待て!」
右手に魔力の塊を生み出そうとした魔王に、制止の言葉を投げる。
「あ?」
赤い視線がふり向いた。
レオナスは、昂ぶりそうな自らを律するつもりで一つ息を置き、冷静に言葉を続けた。
「……俺もこの世界に来て三週間が経った。その間、ただお前の監視だけをしていたわけではない」
魔王が、眉をひそめる。
「何が言いたい?」
紡ぐ言葉を選びながらゆっくりと息を吐く。
「この世界のこと、人々のこと、色々と見てきた。そして分かったのは……文化が違っても、根本は変わらないということだ。善人も悪人も、そして被害者も加害者も」
魔王はつまらなさそうに顎を少し上げた。それを慎重に見守りながらも言葉を続ける。
「……残念ながらこの構図は俺らがいた元の世界と同じだ。だったらこれも同じだろう。こういう詐欺には大抵――胴元がいる。こいつは末端でしかない」
その言葉に魔王は、紅い瞳を軽く細めた。
「……つまり、首長がいるってわけか」
「ああ。そいつを炙り出して捕まえなければ意味がない」
「ふぅん」
魔王は肩をすくめ、足元の男に目を向けた。
「じゃあ、こいつに吐かせっか」
「待て」
その一言に、魔王がいい加減嫌そうな顔を見せる。
ただ、ここで引くわけにはいかない。
「お前がやったら……吐く前に殺してしまうだろ?」
魔王は口元に少しだけ笑みを浮かべた。
「……まぁ、殺さないはずがないね」
レオナスは小さく息をのむ。
「だったら意味がない。俺がやる」
「へぇ」
魔王が嘲笑交じりの声を漏らした。
「お堅い勇者サマが拷問まがいのことでもするっての?」
「違う」
レオナスはなるべく静かに答える。
「俺の魔法だ」
「へー」
魔王は初めて興味が湧いたかのように、目を丸くした。
「便利な魔法があるわけか。で、その勇者サマは、その魔法でアタシの代わりに吐かせてくれると」
「ああ」
自然と、声が固くなる。
「俺としてもあまり気分のいい魔法ではない。だから、条件がある」
「条件?」
魔王の瞳に鋭い光が宿るのを見ながら、続ける。
「胴元のところに行くことになっても――決して人間は殺さないと約束しろ」
その一言に、魔王は眉を跳ね上げた。
「はぁ?」
声に、明確な怒りが混ざる。
「ねぇ……いい加減、ナメたこと言うのやめない?」
魔王の足元の闇が瞬時にして広がり、レオナスを飲み込む。
その中で、冷静さを失わないように強く意識しながら、一言だけ魔王の名前を呼ぶ。
「アビス」
アビスは答えない。
「お前は、今、誰のために怒っている?」
アビスの瞳が、小さく見開かれた。わずかな動揺――それを逃すまいと、慎重に言葉を重ねた。
「俺には、お前の怒りが正当なものに思える。ただ――」
間を置き、言葉を継ぐ。
「やりすぎているだけだ」
その言葉にアビスは怒りを滾らせた。
「ナメたこと言ってんじゃ……」
それでも、レオナスは言葉を重ねる。
「そのおばあは、お前が人殺しをしたと知ったら――どう感じる人物だ?」
その一言に、アビスの瞳の炎の揺らめきが、完全に停止するのが見て取れた。
予想以上の反応に、レオナス自身も言葉を失った。
短い沈黙。
夏の夜の熱気の中で、ただ冷たい風が吹き抜けた。
アビスの瞳に、ふと、苛立つような、抑えたような光がよぎった。
「勇者……あんた」
その声が冷たく響く。
「アタシの首に鈴でもつけたつもりか?」
背筋が粟立つ。皮膚が警鐘を鳴らすのを感じながらも、ゆっくりと首を振った。
「そんなつもりは、少しもない」
再び張り詰めた沈黙が流れる。
やがて――アビスが短く息を吐いた。
「……まぁ、いい」
アビスは不機嫌そうに腕を組み、足元の詐欺師を見下ろす。
「人死にが出ない程度にしてやる」
レオナスがわずかに安堵の息を吐いた瞬間、アビスは続ける。
「心臓を数秒止めるくらいで許してやる」
「だめだ」
レオナスは目を伏せ、少しだけ疲れた気持ちで言った。
「お前……分かって言ってるだろ?」
そんなレオナスを見据えながら、アビスが小さく鼻を鳴らした。
「どうかな?」
口元に浮かんだ笑みが、ひどく愉快そうだった。




