序章
山間の麓を生い茂る木々を避けながら、男女が斜面を転がり落ちる勢いで駆け下りていく。天を覆い尽くす黒々とした雲が落とす大粒の雨の勢いは強く、まだようやく葉をつけはじめたばかりの枝々の間を突き抜け、二人に容赦なく打ち付けられる。
まだ日中であれば多少の視界も効くのだろうが、すでに陽は落ち、人里もないこのあたりに光と呼べるものはない。心許ない夜目を頼りに、二人は闇の中をひた走る。先を行く男のは時折背後を振り返って女を気遣い、同時に闇の向こうに追跡者の姿がないかを確認する。
そうしてどこまでも続かと思われた木々は唐突に終わりを告げる。わずかな平地の向こうには山間を流れる急流が二人の行く手を阻んだ。この雨で増水した川は人一人など容易く飲み込む勢いで、今にも川岸に溢れ出そうになっていた。
二人は開けた場所に身を晒す愚を犯さず、直前で足を止めるとそれぞれ手近の大木の陰に素早く身を隠した。息を殺して周囲に視線を走らせて神経を研ぎ澄まし、追手の気配を探る。目に見えぬ攻撃にも神経を巡らせるも、傍を流れる滝の如き激流が微細な音をかき消してしまい、男は忌々しげに舌打ちをする。
男はまだ年の若い、見目麗しい美青年。神秘的なまでの甘いルックスは、街中で微笑みかけられた全ての女性が心奪われることだろう。
そのルックスに似合わぬ無骨なボディアーマーを身に着け、腰には時代錯誤な長剣を下げている。
青年は間を隔てて隣の大木を背にした女に問いかける。
「キャサリン、通信はどうだ?」
「だめです。どうやらジャミングはかなり広域に展開されているようです」
その女、キャサリンは小型無線機の周波数を合わせるも、返ってくるのは激しいノイズばかりであった。
「かなり周到だな。最初の狙撃といい、相手は間違いなく最初から俺達を狙っていたな」
青年は表情を歪め、悔しげに唸る。脳裏には、上半身を一撃で吹き飛ばされた仲間の姿が過る。
「魔属討伐だと聞いて来てみれば、この襲撃。アーネスト、やはりあの男は……」
「今その話はよそう。とにかく今はこの状況を切る抜けることだけに集中するんだ」
アーネストと呼ばれた青年は彼女の言葉を遮るように言った。キャサリンは表情を面に出すことなく「わかりました」と事務的に頷く。長い髪をバレッタで後ろにくくり、パンツスーツを着こなす彼女は、見た目は知的なキャリアウーマンだ。こんな場には似つかわしくないように見えるが、大型拳銃の装弾を手慣れた様子で確認する姿を見ればその印象も消える。
「ホーガン、タリア、ドーラ……みんな死んでしまった。でも、君だけは死んでも守るぞ」
「やめてください。この状況であなたが犠牲になっても事態が好転する可能性は低い。第一、そんな最期はあなたには似合いません」
思いつめたアーネストの呟きを、キャサリンはオーバルフレームのメガネを指で押し上げながらピシャリと言い切る。アーネストは「そうだな」と、微笑を浮かべながら返した。
キャサリンは仲間の中では最も古く、そして最も深い特別な間柄である。
冷たい口調に聞こえるが、感情に流されず客観的な意見を口にするのは彼女の魅力であり、そんな言葉の中にも優しさを潜ませていることをアーネストは理解している。
「しかし奴らは何者なんだ?」
「犯罪組織による報復かもしれません。過去のミッションで私達は三つの犯罪組織を壊滅させています。そのいずれの系列の者ではないかと。有力なのところですと――」
「いや、それはないだろう。ただのマフィアやテロ組織程度ならこんな苦労はしない。奴らは明らかに訓練を受けた輩だ。それに……」
それを言葉にすること躊躇わうアーネストに「それに?」と顔を覗き込みながら投げかける。
「考えたくはないが、もしかすると相手は――キャサリン!」
アーネストはとっさに彼女の名を叫ぶ。キャサリンは身構えるが、その時すでに足元に忍び寄っていたそれはアクションを起こしていた。
それはワイヤーで連なった無数の刃。
雨粒を切り裂いて駆け昇る連刃は、一瞬にしてキャサリンの体に絡みついた。すると大蛇がそうするようにキャサリンの全身を締め上げ、太腿、脇腹、胸、そして首筋に刃が食い込んでいく。衣服の下からは、じわりと血が滲んで広がる。
キャサリンは身じろぎはおろか、声すら上げることもできず、震えながら助けを求めるようにアーネストに眼差しを向けた。
「アーネ――」
消え入りそうな儚い声で口にしたその名を、彼女は最後まで言い切ることはできなかった。
連刃の先端がキャサリンの後頭部を貫き、口腔から勢いよく飛び出した。ルージュよりも赤い血が、彼女の口の端から滴るのを、アーネストは半ば呆然と見つめることしか出来なかった。
さらに、獲物に興味が失せた刃の蛇は乱暴にその身を引き戻した。それにより傷口を乱暴に広げられ、彼女の全身はズタズタに切り裂かれた。
その場に崩れ落ちるキャサリン。体中から溢れる鮮血を降りしきる雨に溶かしながらうつ伏せに倒れ伏し、その美貌の右半分を泥の中に埋めた。
「キャサリン!返事をしろ!おい、キャサリン……!」
アーネストはその身を抱き起こすが、瞳から命の灯は失われている。もう彼女が言葉を発することはない。
彼女の死を信じられないアーネストは歯を食いしばりながら頭を振り、大粒の涙を浮かべる。目の前で起きた、突然の凶事に彼の頭は混乱を極めた。
「勇者アーネストだな」
そのアーネストの背後から、低く、重々しい声がかけられる。アーネストはとっさに振り返りながら、剣の柄に手をかけた。
声をかけてきた男は上から下まで身に纏う物すべてを黒一色で統一させていた。そして頭部にはガスマスクを着用し、その素顔を覆い隠している。
さらに反対側から同じ出で立ちの黒服がもう一人。こちらは背格好を見るに女性のようだ。その腕には剣とも武具とも取れる不思議な形の武器を携えている。まだ新しい血に濡れる刀身を見るに至り、この女がキャサリンを殺した相手だと理解したアーネストは、腹腔の奥からマグマの如く怒りが込み上げてくる。
だが、その感情以上に戦士としての本能が、即座に斬りかかることを思い止まらせた。彼らの放つ、言い知れぬ異様な雰囲気が、感情に任せて襲いかかっても倒せる相手ではない事を知らせていた。
「何者なんだ、貴様ら!?」
「もう一度、問う。勇者アーネストだな?」
「尋ねているのはこちらだ!」
まるで機械のように淡々と問いかける黒服に、仲間を殺された怒りを爆発させて叫ぶ。しかし、それすらも意に介さず、黒服は彼をアーネストと判断し、話を進める。
「我々に同行してもらう」
「この状況で、素直に応じる奴がいると思うか?ふざけるな!」
「貴様に拒否権はない。大人しく従うか、力でねじ伏せられて強制的に連行されるかのどちらかだ」
まるで咬み合わない会話の中に、明確な敵意を示した黒服。アーネストは怒りに震える声を抑えながら、黒服に確認をするように問いかけた。
「俺が勇者だということを知った上で襲ってきたんだな……?」
黒服は何も答えない。のっぺりとしたマスクから表情など読めようはずもなく、まるで人形にでも話しかけているような気分になる。
「なら俺のDEEPも知っているな!」
アーネストがそう叫んだ瞬間、横を流れる川の水が高波となって激しい勢いで押し寄せててきた!
大雨でついに川が氾濫した、というわけではない。
溢れた出た水は渦となって天を目指したかと思うと、女黒服目掛けて打ち下ろされた。しかも、形のないはずの水が細く圧縮され、一筋の鞭状に変形させていた。
自然の現象ではありえない。明らかに、攻撃の意思を持ってそれは繰り出された。
風切り音を上げ撃ち出された水の鞭は、常人には反応すらできない高速であったが、女黒服は素早い身のこなしで大きく飛び退り、水の鞭を辛うじて躱してみせた。
その間に水の鞭はさらにその数を増やしていた。命を吹き込まれたかのごとく陸へと這い上がった水流は、アーネストを守るように雄々しくその身を持ち上げた。
事情を知らぬものが見れば、それは現実離れした不思議な光景であった。
水の鞭はその身をたわませると、一斉に黒服目掛けて撃ち出された。高圧縮された水の一撃は木々を粉砕し、四方八方から黒服へと迫る。
「襲撃する場所を選ぶべきだったな。俺の能力は――」
「ああ。把握している。液体操作を行う能力、〈リキッドワーク〉だな」
目の前の光景に驚愕し、アーネストは男の言葉を聞いていない。
氷よりも冷たいその言葉と同時に、水の鞭は突如として勢いを失い、形を失った。
大量の水はキャサリンの遺体を押し流しながら斜面を流れ落ちていく。
「なっ……!どうしてだ?能力が使えない!こんな事、今まで一度も……」
「どうした。何か問題でも起きたか?」
予想外の事態に体裁もなく慌てふためき、黒服の皮肉に返す余裕すらなかった。
そして、地面の雨水を跳ねながら一歩、近づいてくる黒服にアーネストは顔を跳ね上げると共に、得物である剣を向ける。その目は恐怖と戸惑いに塗り潰されていた。
「気が済んだのなら、我々に同行してもらおう」
これまで淡々としていた口調の黒服は、向けられた切っ先など存在しないかのように悠然とアーネストに歩み寄った。
数分後。全身を切り刻まれ、血まみれの状態のアーネストが無残な姿を晒しながら泥の上に仰向けに倒れていた。全身から、とりわけ膝より下を失った脚からはおびただしい量の血液が溢れ出し、地面を赤く染めていた。
「……バイタル確認。大分弱っていはいますが、息はあります。麻酔を打ち込みましたので、もう抵抗の心配もありません、隊長」
アーネストの体の脇に跪き、全身をくまなく調べた女の黒服は、後ろに立つ男の黒服に語りかける。その言葉を受け、“隊長”は無線機に呼びかける。
「フェイクリーダーより各員へ。作戦目標クリア。標的を回収し、速やかに撤収する」
しばらくの後、山林の向こうからさらに数人の男が姿を見せる。いずれも同じ出で立ちの黒服で統一されている。その内の二人だけが銃火器の他に刀剣型の武器を装備しているのが目を引いた。一つは幅広で肉厚な大剣、もう一つは無数の継ぎ目のようなラインが刀身に走っている。どちらも普通の刀剣には見えない。
「今回は思ったより拍子抜けでしたね。前回のほうが手こずった感がありましたが」
「アンタ、サポートが遅かったじゃない!一瞬ヒヤッとしたわ」
「無茶言うな!剣も能力も実戦で使うのは初めてなんだ。真人間の俺がそう簡単に使えるか」
剣を装備した二人と女黒服は軽口を叩き合う。隊長に比べると、その声には感情の色が如実だった。
「貴君も長期に渡る任務、ご苦労だった」
隊長は最後に現れた一人に向かって言葉を投げかける。
その男だけは黒服ではなく、ごく普通の服装の上にレインコートを羽織った格好をしていた。
男は隊長に言葉を返す様子はない。ただ足元に転がされたアーネストに視線を向けていた。そこに込められた感情は複雑すぎて、本人意外にはわからなかった。
「しかし毎回思うが、良心が傷まないのかい?コイツはあんたらと同じ――」
言いかけた女はしかし、向けられた鋭い視線で射抜かれ、一瞬、思わず言葉をつぐんだ。
一変して、その眼差しは明確に威圧を込められていた。
「なんだい。本当の事だろ?それとも――」
「やめておけ。それよりも、応急処置と収容準備に取り掛かれ」
隊長に諌められ、女は渋々引き下がると、アーネストの体にハーネスを装着していく。その時、彼らの頭上から颶風が吹き付けられたかと思うと、上空にヘリが飛来してきた。
ヘリはこの悪天候の中、危なげなくホバリングしながらホイストケーブルを垂らす。隊長の指示の下、黒服たちは迅速な動きでヘリに乗り込んでいく。
「勇者の時代は、終わりだ」
ウィンチで吊り上げられていくアーネストを見上げながら隊長は誰にともなくそう呟く。
その言葉を耳にしながら、男はただ沈黙する。しかし憎悪とも蔑みとも取れる、仄暗い色の感情を宿した瞳で隊長の背中を睨んでいた。