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短編まとめ

公爵令嬢は婚約者から逃げおおせた先で幸せになる

作者: よもぎ

キール公爵令嬢マリアンヌは、婚約者である第一王子を蛇蝎の如く嫌っている。

これは公然の事実で、常々、


「わたくし、あの方のことお慕いなどしておりませんわ。

 欲しいという方いらっしゃったらいつでもお譲りしましてよ」


と言うほど。


精霊か妖精かと疑う程の美貌を持ち、男であれば宰相となったろうと言われるほど優れた頭脳。人当たりも柔らかく派閥に関係なく多くの友人を持ち、無論家柄は言うまでもない。

ここまで完璧な令嬢がなぜそこまでハッキリ言うほど婚約者である第一王子、アンドレを嫌っているか。

それは二人が初めて顔を合わせた七歳の頃にまで遡る。



二人が遭遇したのは、第一王子の婚約者候補を集めた王宮でのガーデンパーティーの時だった。

適切な家格の、適当な年頃の娘たちを集めたその場で、マリアンヌは大人しくしていた。

それをアンドレはズカズカと近寄った上で、綺麗に梳られた髪をそれはもう強く、抜けるほど引っ張った。

髪をひっ掴んだまま池にまで連れていき、そこへ突き飛ばして落としたのだ。


「見ろ!人外などが紛れ込んでいたぞ!」


あまりの事態に呆然としていた周囲は、はっとしてマリアンヌの救出に動いた。

まず侍従が池に飛び込んでパニックで溺れる寸前のマリアンヌを救い出し、侍女たちが膝掛けをかき集めてきてマリアンヌを覆った。

そうして女性騎士がマリアンヌを急ぎ医療室まで運ばんと抱いて走り出した。

その間、パーティー会場は勿論荒れた。

アンドレは人外などそのまま死なせておけばよいとブチギレていたが、周囲の令嬢は違った。


当時のマリアンヌは可愛らしさが先に立つ美少女であり、同じ年ごろでも努力の度合いが違う淑女らしさがあった。

近寄りがたいというほどでもなく、絵本に出てくる妖精のようであった。

可能ならおしゃべりしたいわ、と思っていたところの暴挙である。

集められた令嬢たちは怯えたし、何なら泣く令嬢もいた。

アンドレに近寄ったら同じようにされるのでは?と、アンドレから露骨に距離を取った。

十数人もいる令嬢たちからそうして距離を取られたアンドレはそれにも怒り狂い、もういい!帰る!と出ていき、それに王妃も追従したものだから、令嬢たちはほっとした。

団子状態になって保護者が迎えに来てくれるのを恐々と待ったものである。


で、問題のマリアンヌである。

溺れかけた上に過呼吸まで起こして医療室でも死にかけた。

その時すでにアンドレに対して嫌悪感と恐怖と忌避感を感じていたし、多分医療室に本人が来たら過呼吸が収まらずに死んでいた。

一種のトラウマとなっていたのだ。

ちなみに、迎えに来た先代当主である祖父は卒倒寸前な怒りを見せた。もちろんアンドレに対して。




だが、何をどう見たんだ?と言いたくなるが、アンドレとマリアンヌの婚約を王命で申し付けられてしまった。

これにはキール公爵家は怒り狂ったし、マリアンヌはまた過呼吸を起こした。

しかし王が何を狙ってかは全員察しがついていた。

近年見つかったダイアモンド鉱山である。

その収入を掠め取るためにも、両者がどう思っていようがどうでもよいと関係を迫ったのだ。


最終的にキール公爵家は婚約を受け入れざるを得なかった。

しかし、ふた月に一度のお茶会の時は厳戒態勢を敷いた。

十人の護衛騎士をマリアンヌにつけて行かせ、三人はマリアンヌの背後と左右に、残り七人がアンドレを囲んで、二度目の凶行を防がんとしたのだ。

この強固な守りの陣にマリアンヌはなんとか落ち着いて過ごせたが、アンドレは更に怒りのボルテージを上げた。

しかし公爵家に文句をつけても「いやあ当家の娘をまた池に落とされてはたまりませんからな」と冷たく返されては言い返せない。


結果、アンドレはマリアンヌに罵詈雑言を叩きつけ続けた。

ちなみに一度目でそれだったので、二度目からはマリアンヌも耳栓を装着して罵詈雑言を遮断した。


そんな状態の二人が親密になる可能性など、太陽が唐突に分裂して三つになるくらい少なく、親密どころか居合わせた他人ほどの距離感にさえならないまま年月だけが過ぎた。




これをなぜ王と王妃が是としたか。

それは両者が先代、どころか貴族家全てが認めるところの暗君だからである。


王には元々優秀かつ美しい婚約者がいたが、胸がバカほど大きく愛嬌だけはあった男爵令嬢に惚れ込んで結婚したいと思うようになった。

そこで、己の父たる先代王が地方視察に出た時に婚約者へ婚約破棄を突き付け、即座に男爵令嬢と結婚した。

婚約破棄を知らせる急ぎの伝令が到着したところで王は最速で王都に帰還したが手遅れだった。

王族の婚姻を解消することはとてつもなく難しい。

たとえ王の命令であったとしても難しいのだ。


この婚姻をスピーディに行ってしまった神殿の腐敗度合いにも先代は激怒し、神殿の人事に手を出し上層部を綺麗に始末してしまった。

婚姻を許可した神殿長などは公開処刑までされた。


しかしここで他の王子を、となっても、先代には他に息子がいなかった。

息子が乳幼児の頃に高熱によって子種を失ったのだ。

しかも自らの兄弟を、となっても姉妹ばかりな上に、その姉妹は外交のために他国へ嫁いだ後だった。


その反省を生かすためにも先代は速攻で側室を迎えさせた。

打算でよい、子が産まれたらそれだけで便宜をはかる、どうしても嫌なら一人産んだところで離縁できるよう約そう、と書面で契約までして側室を準備した。

結果、第一王子は王妃の子だが、第二王子、第三王子は側室の子である。年齢もアンドレとは一つ違い、三つ違いと完璧だ。

一応王妃はその後、王女を一人産んだが、それっきりだ。


王妃は己の子を決して手放さなかったが、側室は優秀な乳母と教師をつけたので、優秀さにとんでもない違いがある。

ハッキリ言ってしまうと、第一王子を1とすると、第二王子たちは5くらい。

公務の執行速度も違えば理解度も違う。

それを貴族家たちも分かっているので、第一王子の支持者は王妃の実家くらいである。寄り親でさえ支持してくれていない。

逆に、第二第三で比べた結果、より為政者向きとされる第二王子の支持者になっているくらいである。

ちなみに当人たちもどちらが王に向いているか理解していて、今のうちから学習内容を己で吟味して補い合えるようにしている。


王の交代は第三王子が産まれた時点で行われた。

先代は頑張って王子たちが成人するまで王であろうとしたのだが、執務に障りが出てきたのだ。


しかし先代王はいまだに王を監視している。

マリアンヌとの婚約を白紙撤回するよう息子に怒鳴りつけたがどこ吹く風で聞きゃしないので、キール公爵家をどうにか解放すべく裏であれこれしてくれていた。




先代の予想を裏切ったのはマリアンヌである。

彼女は過去のトラウマをなんとか克服して戦う覚悟をキメたのである。


己に落ち度がないよう立ち回りながら、王族の婚姻制度を逆に利用し、自らが嫁ぐことがないよう人材を集め始めたのだ。

自分が必要とされているのはダイアモンド鉱山のためである。

ならばダイアモンド鉱山と同じ価値を持つ女をあてがえばよい。

決して一人である必要はない。

王族の男性は正妃だけでなく側室を四人まで持つことが許されている。つまり限界で五人である。

五人もいればダイアモンド鉱山を上回る価値を持たせられる。


しかもアンドレは色を好む。

マリアンヌは会う時絶対耳栓をしているし、お茶会の時以外会わないようにしているので又聞きになるが、女遊びがお盛んで、逆らうことの出来ない低位貴族の令嬢を侍らせて楽しくやっていると聞く。


その好みを調査した上で、東奔西走して「アンドレ攻略用令嬢部隊」を準備した。

可愛らしく保護欲を煽る令嬢から、色気がムンムンな妖艶令嬢まで。胸の大きさもよりどりみどり。

しかしアンドレを王にはしようとしない、あくまで王族に嫁した事を利用して己のささやかな欲を叶えたい令嬢で構成されている。

王室御用達の看板が欲しいもの、顔と身分が最強の子を作って育てたいもの、王族専用図書館を目当てとするもの――目当ては様々だ。

アンドレのことは決して愛せると思っていないし、愛そうとも思っていない。


ついでなので男色趣味でアンドレが好みだと判明した令息も十人ほど仕入れておいた。

彼らには口利きをして、アンドレの従者として配置させた。

女に飽きたら男をどうぞ、というささやかな優しさである。

いずれも美男子でタチもネコも揃っているのでアンドレも幸せだろうというのがマリアンヌの考えである。



思いついてから完成まで準備するのに三年もかかってしまったが、今はまだ十四歳。婚姻を結ぶ十八歳までには間に合った。

マリアンヌは結成した令嬢部隊にゴーサインを出し、積極的にアンドレを攻略せよと手伝いまでした。

キール公爵家も影に日向に、しかし気付かれぬように娘の作戦を支援した。

押しては引き、引いては押して。

時には令嬢同士協力しあい、従者となっている男色令息たちもさりげなく背中を押して。

アンドレを陥落せんと一丸となって戦ったのだ。




結果、半年ほどでアンドレは落ちた。




五人まとめて気に入ったのでマリアンヌはもう要らない、ダイアモンド鉱山より収益が見込めるし全員嫁にしていいだろ、と、王に訴えたのだ。

王は悩んだ。三十分くらい。

しかしマリアンヌ一人よりもカネになるという誘惑には勝てず、五人を娶ることを許した。ついでにマリアンヌとの婚約を撤回した。




その知らせが到着した後のキール公爵家はお祭り騒ぎで、下級使用人に至るまでが宴席に招かれるほどだった。

三日三晩祝い続け、その後一日は全員が死んだように寝た。

マリアンヌはさすがにまだ酒を飲めなかったのでジュースだったが、両親や兄義姉と乾杯!とグラスを合わせては幸福そうに笑っていた。

その笑顔は数年見ていなかった、晴れ晴れとしたもので、母はワインを一気飲みして泣いた。

祖父も父も目を潤ませ、義姉などは次のお婿はみんなで決めようねぇー!と泣き笑いしながらマリアンヌに抱き着いていた。


さて、マリアンヌは嫁入りも婿取りも自由な身となった。

別に嫁入りでもいいが、公爵家の持っている伯爵位を譲ってもらって新たに家を構えたっていいのだ。

伯爵位を譲られた場合、領地をちょっと分けてもらうことになるので、下手に嫁入りするよりも家族と離れなくていいところがメリットか。


無論、そんな情報はどこの家でも知っている。

そしてマリアンヌがお役御免となり、自由の身となったと知れ渡った時。

釣書が山ほど届くこととなった。


何分、公爵家の姫である。

しかも本人も優秀で、それでいて性格も悪くない。

おまけに嫁入りでも婿入りでもどちらでもいいのだ。


未だ婚約者を決めていなかった跡取りや、婿入り先を探している次男三男といった、釣り合いの取れるあらゆる家から婚約しませんか!俺こういうものです!という書類が来る結果となってもしょうがない。

これを精査するためにも、貴族家の実情に詳しい執事たちが目を通して選り分けたのだがそれでも三日ほど掛かった。しかも選り分けた先から遅れてまた釣書が届く。地獄のような有様だった。


過労寸前の執事たちが作業を終えた後、残ったのは十人もいなかった。

所属する派閥や寄り親、家族と当人の性格と関係。

これらを考慮するとなると、なかなか難しいのだ。

貧乏貴族の身売り結婚でもあるまいし適当に婚約するなど有り得ない。

選り分ける執事たちも妥協を一切せず、これぞと思った釣書だけを残してくれた。




「カーマイン伯爵家は問題ないように見えるけど、計算してみると少しずつ事業が落ち目になっていっているのよね……」

「ハロルド侯爵家も今の事業は問題ないように見えますけれど、発展しようがないそうですよ。おまけに独占権が期限切れになるのは来年でしたっけね」


まあ、選り分けた執事たちも知らない情報が出て更に選別されていくのだが。

その辺詳しい母と、助っ人の叔父が頼りになること。

敢えて独身を貫き、自由な遊び人を気取っている叔父は、社交界を泳ぎ回っているので世間に明るい。

いかにも伊達男な外見を利用し、家に貢献する道を選んだ彼は、こういう時大変頼りになるのだ。


そんな叔父が一枚の釣書をそっと取り上げる。


「エレーミアス伯爵家の次男は掘り出し物だねえ。

 農業の研究者を自称していて、実際自分の領地で実践して結果も悪くない。

 おまけに本人はのんびりした気性で慎ましかったはずだよ。

 前にガーデンパーティーで会ったけど、マリアンヌには似合いじゃないかな?」

「まあ。ハワード様、でしたかしら」

「そうそう。見た目が嫌いじゃなければ会ってみるかい?」


義姉もこくこく頷いている。

マリアンヌは面識こそあれど詳しい人柄は知らない。

確か、春の新緑のような目が美しい人だった。

ただ色合いが美しいというのではない、情熱を持つ何かを持って煌めく瞳だった記憶があった。


「継ぐ家もないから長男に領地の屋敷を管理する事を条件に居候の身をしているという話だけど、だからこそ王都以外での暮らしには詳しいはずだしね。

 マリアンヌは静かに暮らしたいのだろう?」

「はい、叔父様。にぎやかなのも嫌いではありませんけど…」

「うんうん。なら尚更おすすめだねえ」


というわけでお見合いが決まった。

手紙のやり取りは当主である父が行ったのだが、あちらは本人が返事を返していた。

どうやらちょうど農閑期で、今回のことがあって実家に呼ばれたようだ。

マリアンヌとの話がなかったことになれば研究者仲間との会談だけして帰るつもりだったのだろうというのが叔父の見解だ。


ハワード・エレーミアス伯爵令息の年齢は十九歳。

来月十五歳になるマリアンヌとは釣り合いの取れた年齢ということになる。

家を継ぐ可能性があった次男なので、それなりの教育を受けてはいるだろう。

幸いにもエレーミアス家の長男は先日男児を授かったのでハワードが代打になることはなくなっている。



マリアンヌはといえば、初めて親しくするかもしれない異性との見合いということでこの上なく緊張していた。

アンドレとの遭遇及びその後の時間は黒歴史というか、アレを異性との付き合いというのは「ない」。

アレは苦行であって婚約者との交際ではなかった。

それがキール公爵家の総意である。

無論マリアンヌもその総意には完全同意だった。


人脈のためだとか、アンドレに宛がう男色野郎の見繕いだとかで、異性と向き合うことはあった。

だが、婚約者候補との顔合わせとなればまた話は違う。

無論アンドレのような態度を取られるとは思っていない。

その後の社交でアレが百年二百年に一度あるかどうかの大事件であったことは身に染みて分かっているので。

かと言って、マリアンヌには自分が優れた令嬢であるという自覚があるようでない。

言い寄られたことが一度たりとてないのだ。


それは無論、仮にも王子の婚約者であったということが関係してくるが、それ以外にも理由はある。

マリアンヌの容姿があまりにも美しいので、惚れる前に崇拝してしまうものが多かったせいだ。

女神様とか呼ばれて拝まれていることを本人は知らない。



ともあれ、マリアンヌは前日の夜などは緊張でちょっと眠りが浅かった。

まず自分が気に入られなかったらどうしよう、という思いもあった。

自分が「いいな」と思っても、相手がそうじゃなかったら悲惨である。

理想はお互いにいいなと思って婚約できることである。

もしくはお互いにちょっとな、と話が流れることか。

片方は乗り気で、片方は遠慮したいな、と思う関係に陥らないことを願いながらマリアンヌは当日の朝を迎えた。




公爵家のお茶会をするための庭の一角。

そこで向かい合った青年は、いつか見た少年の面影を残していた。

全体的な容姿こそ素朴な印象があるが、その瞳の煌めきは美しい。

また、研究者であると言いながら実践にもかかわる都合上か、健康的に少し日焼けしているのがまた珍しい。


そんなハワードは、シロツメ草の小ぶりな花束を持ってきてくれていた。

ささやかで可憐なそれを侍女が代わりに受け取ってくれる。


「あの、最初から不躾なのですけれど。

 わたくし、一度婚約が撤回になっている女ですの。

 それでもハワード様はよろしくて?」

「その辺りは前からウワサを聞いていましたから気になりません。

 キール公爵令嬢こそ、僕のような男で本当に構いませんか?

 日々の執務はさっさと片づけて実践のために畑に飛んでいくような男です。

 身なりには気を付けていますが、土臭いかもしれませんよ」


なるほど、確かに身なりには気を付けておいでだわ、と、マリアンヌは頷く。


「名前でお呼びになって?

 ……そうですわね、このお話が出てから、ハワード様の研究を調べさせていただきましたの。

 画期的な肥料の開発に「輪作」なる農法の開発と実践。

 期待通りに事が運べば我が国の農業は大きく前進するとわたくしは判断しております」


調べた情報では、遠い異国から旅行に来た老夫婦との雑談で得た情報を頼りにした研究であったらしい。

その異国では当たり前にしていた事で、この地では実践可能かどうか――転用するために植える作物や周期の研究で手間取ったとも。

しかし彼は学習の合間に少しずつ研究を進め、十五で教育を終えると同時に領地に行って実践を始めた、とも。

今はまだ芽の出ていない研究だ。

たまたま当たり年が続いただけかもしれない。

結果を出すにはもっと長い時間が必要だろう。


故に、と、マリアンヌは言う。


「わたくし、あなたの隣で、その研究が実るのを待ちたいなと思いましたの。

 土臭いくらいどうってことありませんわ。

 それよりも、ハワード様がわたくしを隣に置いてもよろしいかが問題ですわね」


農業の研究がしたいハワードにとって、マリアンヌは決してベストな伴侶ではない。

何せ、彼女は妃となるべくして教育を受けていたのだ。なりたくなくても受けねばならないので。

要するに、社交や政務に特化していて、農業の知識は全くと言っていいほどにない。

なんなら主食の一つでもある馬鈴薯がどう育つのかさえ知らないし、そもそも小麦でさえどう育つのかも知らない。小麦粉というものは知っているが、小麦そのものをまず見たこともない。


そのくらいものを知らない娘を娶っていいのか?

と、問うているのだ。


それにハワードはふわりと笑む。


「僕は社交も執務もあまり得意じゃないんです。

 出来るけど、本当はあまり……というのが実情です。

 そういう点では、マリアンヌ様と縁付くのは良い話だなと思っていて。

 でも、それ以上に」


少しばかり悪戯っぽく笑い、


「あなたの行動力は妹からこっそり聞きました。

 そういうお方なら、僕と生きていくとなった時も、大丈夫なんじゃないかと思って釣書を送らせていただいたんです」


マリアンヌはころころと笑った。

確かに、自分の暗躍を知っていれば、行動力があると思うだろう。

実際、マリアンヌは七歳のあの時まではお転婆だった。

この容姿に見合う淑やかさは後天的に身に着けたもので、本当は暴れん坊だったのだ。


求められる仮面を、求められるように被っていただけ。


それを知るのは家族だけだと思っていたのに、目の前のハワードは容易くそれを虚実だと見抜いたということになる。

その点だけでもマリアンヌには十分だった。

彼と婚約し、結婚するとなれば、領地では気楽に過ごせるだろう。

それに、何より。


「ねえ、わたくし、あなたの瞳がすごく特徴的だと思っておりましたの。今もそう。

 情熱的にキラキラ輝いていて、それでいて穏やかさもあって。

 ハワード様から見たわたくしの瞳はどうかしら?」

「マリアンヌ様の?

 ……静かな、だけど溌溂とした夏の空のような色ですね。

 実りをもたらす素晴らしい空の色と同じです」

「その色は、好ましい?」

「ええ、とても」


二人は微笑みあう。

お互いに、お互いなら大丈夫だと確信を得たのだ。






それから、ハワードは月に一度は王都へ出てきて、マリアンヌとお茶をしたり、観劇に繰り出したりした。

勿論マリアンヌの方もハワードが暮らす領地へ出向くこともあったし、将来的に二人が暮らす予定の領地へ共に視察へ赴くこともあった。


そしてハワードがシロツメ草をくれた意味を知ったのだ。


彼の住まう領地で行う「輪作」では、畑の回復のためにシロツメ草を植える時期がある。

豊穣を願って植えるその可憐な花は、彼にとっては実りを意味し、また将来の幸福を願う象徴でもあった。

そういう意味があったから、令嬢たちの好むだろうバラやユリではなく、シロツメ草を選んだのだと理解して、マリアンヌは彼のことを好きになった。



マリアンヌとて豪奢な花は嫌いではない。もらえば嬉しかっただろう。

しかし、ただ「好むだろう」と贈られるより、考えて選ばれた花のほうがよほど嬉しい。



それにハワードは大変親切な男だった。

整えられた床や地面を歩くことには慣れていても、都会ではない領地では足が痛むだろうと、婚約して早々に足に優しい靴を作ってくれる店への紹介状を用意してくれた。

その店を経由して、領地で暮らすに適切なデイドレスやワンピースを取り扱う店、効果の高い日焼け止めを扱う薬局と、必要な物品を揃えることが出来た。


それだけでなく、領地では農作物の素の状態を教えてくれたり、小麦を粉にする現場を見せてくれたりした。

掘り出して保管されている状態の馬鈴薯がどういう状態で育つかまで見せてもらった時はマリアンヌも驚いた。

地面に埋まったものを掘り起こして収穫しているなんて、農民はなんと大変な思いをしているのだろうとクラクラした。


そうやってハワードの助力を得て、マリアンヌは領地で暮らすという未来の理解度を上げていった。

さすがに土いじりまでは体得できなかったが、体力の面からも知識の面からもそれはしなくていいと言われている。


彼女が担うのは内政である。

領地の産出する農作物を出来るだけ高く売り、生活資金と研究予算を確保する。

もちろん領民に無体な税を強いることはしない。

善政を敷くための知識も伝手も、マリアンヌは持ち合わせている。

領内を巡って王都や他の地に売るものを確保していく商人とはマリアンヌも面識があるし、その商人も一人二人といった人数ではない。公爵家の領地は広大なので。

それに王都でもそこそこの地位にある商家とも縁があるので、上質な特産品が出来れば彼らも興味を示すだろう。



と、実務の面では早々に明確なビジョンが出来た二人だが、婚約者としては初々しかった。

手を繋ぐだけでも頬を染めるし、好ましいと伝えるだけでも同様に。

手紙のやり取りでさえ実務のやり取りか?と思う程堅苦しく、それでも嬉しそうに読むのだから進展は遅々としている。

しかしそれでもマリアンヌが幸福そうなのでキール公爵家としても急がなかった。

何分、ハワードは結婚出来る年齢だが、マリアンヌはまだなのだ。

三年近く猶予があるのだからとほのぼのと見守っていた。


それに、ハワードも恋人などいたことがなかった証左のように地道に距離を少しずつ縮めて、お互いに添うよう過ごしてくれている。

将来でも使えるようなものを、似合うものをと思って、と、宝石ではないけれど高級品である透明度の高いガラスビーズを使った髪飾りを用意してきたりもしている。

マリアンヌの煌めく金髪に似合いつつも己の色である新緑のようなビーズの飾りは、普段使いとして――要するに、常にマリアンヌの髪に留められている。


これのお返しは、マリアンヌの瞳の色をしたガラス細工をはめ込んだブラシであった。

ハワードが少し癖のある髪なので、ブラシの質にはこだわった。

この気遣いをハワードも大層喜び、また贈り物をと二人の間では良い循環が行われていた。




二人が親密になっていく三年の間に、王家では第一王子ではなく第二王子が立太子し、第一王子は王兄として仕えることが確定した。

先んじて第一王子が一人の正妻、四人の側室と同時に婚姻を果たし、ろくな権力もなく、何かを決定する権限もない、飼い殺しにするためだけの役職に就けられた。


同時に、第二王子の婚約者の出身である医療大国より来た医師が、第一王子に子の出来なくなる手術を行った。

側室の一人は一応、子を欲しがってはいた。いたが、他に別の目標も持っていたので妥協した。

この手術に当たって第二王子より詫びをもらったのも大きい。


また、五人の妻たちはマリアンヌの配置していた十人の男色者を夫に意図して近付け、彼らに活躍させた。

結果、彼は制度上、戸籍上は五人の妻と婚姻しただけではあるが、十人の「夫」も得ることになった。

おかげで周囲としても、妻側からしても、大変楽に飼い殺せることになって一安心というところである。

己で全て決めたつもりの第一王子は、しかしマリアンヌの敷いた道でスキップしているだけで、滑稽なことこの上なかった。






そうして三年が経過し、十八歳になったマリアンヌはキール公爵家の保有するエイマーズ伯爵位を継承し、ハワードと結婚した。

二人の結婚式には白いシロツメ草があちこちに飾られ、決して豪奢ではないが可憐な様相を呈し、また幸せそうな新郎新婦の姿も相まって、それから数年はシロツメ草を用いた結婚式が流行したという。

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