第71窩 轢き逃げ
★前書き★
★とあるスーツの男性視点です★
〜腐骨トンネル〜
私は御室。黎明コーポレーションの経理部部長だ。
真面目な仕事が幸いし、ゆくゆくは役員のポストにつくのではという話もある。無能で怠け者の同僚や部下を尻目に出世街道。まさに勝ち組の人生だ。
深夜。残業を終えた私は、愛する家族が待つ家に帰るため、人気のないトンネルを車で走っていた。
PRR…… PRR……
助手席に放っておいたスマホが不粋な音と光を放つ。
片手で拾い上げると、発信者の名前が表示されていた。
"天照CEO"
3コール以内に通話ボタンを押し、スマホを耳に当てる。
「お待たせしてすみません天照CEO、ご用件はなんでしょうか?」
『御室くん、運転中かい? 事故でも起こるといけないし、後で掛け直すよ』
「お気になさらないでください、他に車もおりませんし」
こんな時間に、CEO自らが私用携帯に電話をしてくるのだ。とり急ぎの要件に違いない。交通ルール遵守などクソ食らえだ。
それにしても、いったいなんの要件だろうか。もしや昇進の話か!? ついにこの私に、役員のポストが──
『実は、君の会社での地位に関わる話なんだ』
キタキタキタキタキタキタぁああ〜〜!!
唇が綻び、涎がこぼれそうになる。運転中でなければ小躍りしているところだ。
これで生涯安泰ッ!
新しい車も買えてしまうなぁ〜!
「ち、地位ですか?」
『2ヶ月前の報告書を秘書にチェックさせてみたんだけどね。合わないんだよ。収支の数字が』
「え?」
『君、我が社の金を横領したね?』
ぞっ
全身から滝汗が噴き出す。
2ヶ月前。
妊娠した不倫相手の女を黙らせるために至急の大金が必要だった。妻にバレては困るため、自分が管理している会社の金に手をつけてしまった。
しかし、しかししかししかし! それはもう過ぎた事だ! 会社の口座から勝手に借りた金は、きっちり返済した!!
それなのに、どうして、今になって、どうして──
どうなるのだ、私の進退は──!?
スマホを取り落とさないよう、しっかりと握りしめる。
ここは、しらばっくれるしかない。
「は、はは、いったいなんのことでしょうか……私にはさっぱり……」
『知っているかな? 横領は立派な犯罪だ。まさか逃げ切れるとは思っていないよね?』
CEOの言葉に動悸が止まらない。
通報? た、逮捕されるのか?
この私が!? 経理部部長のこの御室が!?
こんなこんなつまらない罪で!?
『安心するといい。警察には言わないさ。我が社としても社員から逮捕者が出たなどと、こんなつまらないことで評判を落としたくはないからね』
「ほっ────」
わずかの安堵。もしやすべて水に流してくれるのではないかと、あり得ない期待をしてしまう。
だが、現実はそう甘くない。
『だけど、けじめはつけなきゃいけない。このまま君を雇い続けては示しがつかないからね。懲戒免職という形にしておいた。これで君は晴れて自由の身というわけだ』
「お、お待ちくださいCEO! これはなにかの誤解でして──」
『誤解? それはつまり、僕が間違っているというのかい、御室君?』
「わ──私は我が社に粉骨砕身、忠誠を捧げてきました! それがこんな──」
『君はもう、我が社とは無関係の人間だ』
「どうか、どうか、チャンスを──!」
『残念だけどお別れだ、御室くん』
ドシン
車体に衝撃が走り、急ブレーキを踏む。
通話に夢中で運転のことを忘れていた。
フロントガラスにヒビが入っている。
そしてその割れ窓の向こう、薄暗いトンネルのライトに照らされた車道上に、赤いインクをぶちまけたような跡が見える。
ヘッドライトに照らされた赤暗い血溜まりに、関節がぐにゃぐにゃとおかしな方向に曲がった、小柄な身体が転がっていた。
『おつかれさま。そして、さようなら』
そう言って終了したCEOとの通話も、携帯から聞こえる保留音も、どこか遠い世界のことのように思える。
──ひ、轢いてしまった──?──
──轢いてしまった!!!──
──人を、人をはねてしまった──
──殺してしまった──
──横領やクビどころじゃない──
──かなりスピードが出ていたはずだ──
──殺人? 過失致死? 危険運転?──
──かっ──
──隠さないと──
──死体を、どこかに隠さないと!──
「はぁ……ハァ…………ひいひいいっ」
運転席の扉を開き、ふらつく足取りで車外へ出る。車の状態を確認すると、前面は歪に凹み、血がべっとりと付いている。これはもう、どこかに捨てるしかない。
──何故、車を先に確認したのか?
それは私が、自分が轢いたモノを、直視したくなかったからだ。
「──ひ、ひいい──」
少女は、頭部がばっくりと割れ、全身が赤暗い血で染まっていた。脳漿と眼球が溢れている。下半身が臍から千切れ飛び、先はミンチになっていた。
全身を強く打って──というニュースが脳裏に流れる。つまりそういう状態だ。間違いなく即死だろう。
「うぷっ──」
込み上がる吐き気を必死で堪え、少女の死体を持ち上げる。はやく、誰か来る前に、人目につかないうちに捨ててしまわないとと、辺りを見渡す。しかしここはトンネルの中、人間ひとりを隠せるようなスペースはない。
どうする?
どどどどうすればいい!?
落ち着け、落ち着け、落ち着け!
ガチガチと歯が鳴るのを止められない。
そ、そうだ。確かトンネルを抜けた先には海に面した崖があったはずだ。車ごと崖下に捨ててしまえば──!!
だが、その後は──?
逃げおおせるのか!?
無くした車について聞かれたら?
海から死体が上がったら?
──いや、後だそれは!
今はまず、死体と車を消すのが先決だ!
トランクには会社の備品が入っており、ギチギチだ。
あまり時間もかけられなかった私は、血塗れの少女の肉体を後部座席に転がす。どうせ処分する車だかまうもんか。
「わ、私は悪くない……だいたい、こんなところに突っ立っているお前があ! お前が悪いんだ!」
吐き捨てるようにそう言うと、後部座席のドアを乱暴に閉める。そして運転席に戻り、アクセルを踏みこんだ。
「ふふ、ふふふ……ひひひ、けけけ……そ、そうだ、私は悪くない……私は経理部長なんだぞ……? 絶対に、逃げおおせてやる……絶ッたいにだあああああ!!」
不思議と気持ちが昂ってくる。
誰にも秘密の夜のドライブ。目的地は海。
ああ、ああ、なんてロマンティックなんだろう!
「同乗者が礫死体でなければな!」
「……ごめんなさい」
幻聴を疑った。
だってそうだろう?
私と死体しか乗っていないはずの車内で、少女の声なんて聞こえるはずがない。
「ごめんなさい」
今度こそ、はっきりと聞こえた。
言った。
喋った。
誰が?
……ナニが?
知らない方がいい。
気づかないふりをするべきだ。
頭では、そうわかっているのに。
まるで操られたかのように、私の視線はバックミラーに吸い込まれていく。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
バックミラー越しに、うわごとのように同じ言葉を繰り返す、少女の死体があった。半分がぐしゃぐしゃに潰れた血塗れの顔と、目があってしまった。
「ぎっ、ぎぁあああああああ阿アああああああ!!!」
バキン
今日二度目の衝撃と共に、身体が浮遊する。
トンネルを出た車が、ガードレールを突き破ったのだ。
「ごめんなさい」
私と死体を乗せた車は、崖下に広がる海へとダイブしていく。荒れ狂う真っ暗な海面は、まるで巨大な化け物のようだ。死体は私を逃さないように、背後から私の首に手を回している。
スローモーションに移り変わっていく景色の中で、私は、ふと気づいてしまった。
はじめから、私の方だったのだ。
車に乗せられて、暗い水底に処分されようとしていたのは。
「ごぼ」




