2 形見
「まさか、こんなところにゴマフアザラシが現れるとはねえ。文献でしか読んだことないわ」
「しかも赤ちゃん! とっても可愛いですわ。懐かれている千夜さまの図が、もう、愛らしくて。一幅の絵のよう」
「びっくりした。一瞬、三日間もひたすら食べてよく寝た千夜姫が、一気に成長なさったのかと思った」
「たしか、ゴマフアザラシは一度に一頭しか赤ちゃんを産まないのよ。とっても愛情深いというけど、どうしてはぐれちゃったんでしょうねえ。どうぞ、姫さま」
桃花がむいてくれたみかんを次々と頬張りながら、うなずいたり首をふったりする。ずっと口の中に食べ物がある状態なので、桃花と撫子と桔梗の会話に入れなかった。雪のように白いゴマフアザラシは、千夜の膝ですやすやと眠っている。目を閉じてしまうと、黒い部分は丸い鼻だけだ。
みかんの甘くてみずみずしい果汁があふれ、爽やかな香りがひろがる。果物は手に入れるのが大変だけれど、人魚の体にとてもいいそうだ。そして藻類は、人間にとっての野菜のようなもの。
「だからね、お母さんを探しにいくの! 千夜はおねえさんだからね」
最後のみかんを飲みこみ、胸を張って宣言する。
「…………」
微妙な間のあとで、「鳥居の外はおやめくださいね」と桔梗が言った。すでに、いつものように後頭部でひとつに髪を結い、藍色の着物の、きりりとした隙のないいでたちだ。彼女は裳を身につけず、すっきりとした装いを好む。
撫子は、無断外出よりも、寝巻き姿でうろうろしていたことのほうに衝撃をうけたようだった。千夜が泥のように眠っている間に仕立て直した、母が子どもの頃に着ていたものだという、白地に桜の花柄の着物を着付けてくれた。肩のあたりから咲きこぼれる満開の桜が、袖へと降りしきる。人間の着物とちがって裾が短いため、上のほうに柄を置くことが多いという。母の形見と呼べるものはなかったので、とても嬉しかった。母の持ち物が大切に保管されていたことも嬉しかった。
羽衣がなくても、千夜のひれが足に戻ってしまうことはなかったが、必ず最後に羽織らせてくれた。
桃花の料理はどれも美味しくて、食べ慣れなかった海藻をこれでもかというほど食べたこともあってか、撫子が根気よく梳かしてくれた千夜の黒髪はみちがえるほど綺麗になった。桔梗ほどさらさらではないけれど、櫛がすっと通る。山盛りの朝食を千夜が黙々とからにしていく間に、上のほうを結いあげて、びらびら簪をさしてくれた。桜をかたどった銀製の華やかな簪で、しゃらしゃらと鳴る細い鎖の先に、珊瑚が飾られている。
「桜夜さまが童女の頃、いっとうお気に入りだった簪だそうです。とても素敵ですわ、千夜姫さま」
仕上がりに満足したように、撫子がうっとりと頬をおさえる。
「ご覧なさいませ。よくお似合いでしょう」
鏡で見せてもらったら、喜びのあまり、じっとしていられず、部屋中を泳ぎまわった。
「わたし、お母さんに似ている?」
「桜夜さまのお側にあがったことはございませんが、物怖じされないところがそっくりですわ。お顔立ちは、ご幼少時の先代さまに似ていらっしゃる気がします」
母の姉なら、千夜の伯母にあたる。なにも知らない伯母について訊いてみようとしたが、うるさかったのか、目が覚めたらしくゴマフアザラシが泣き出した。もふもふの前足をつかって、小さなひれを引きずり、白い毛玉がうにうにと前へ進む。寝かせてあった二枚貝の座面から、ころんと落ちそうになったところを慌てて抱きとめた。
「だいじょうぶよ、ゴマフちゃん。みんな優しいのよ」
いったん抱っこしてしまうと、あまりの気持ちよさに、千夜のほうが手を離せなくなってしまう。
「一緒にお母さんを探そうね。でも、そうしたらお別れなのね……」
「でも、どうやって探します?」
漆塗りの五段の重箱が――もとい、五段重を持ってきた桃花が言った。顔がかくれるほど大きな重箱には、金箔の蒔絵がほどこされている。黒漆に月と桜という意匠は、夜桜のようで、母を思わせた。
「とりあえず、西の人魚たちに聞いてみようかと思う。わたしたちはアザラシを初めて見たけど、彼らはなにか知っているかもしれない」
「大丈夫でしょうか。心配ですわ」
不安そうな撫子の肩に、桔梗が手を置いた。
「わたしが付いている」
「西の王子さま、格好よかったものねえ」
「大丈夫じゃないのは桃花だ」
桃花にたいして桔梗はすげなく、胡乱な目を向ける。
ふわふわのもふもふでいっぱいだった千夜の頭が、ようやく大事なことを思い出した。
「レンたち、お引っ越しできた?」
「ええ。それもご覧になりたいでしょう?」
「行く、行く!」
ゴマフアザラシを抱いたまま、後ろ向きにぐるぐる高速回転した。隣でハコフグのトトも真似をする。
「たいへん、トトちゃん、ゴマフちゃん! お弁当をもって遠足よ!」
「…………姫さま。アザラシが目を回しています」