3 龍神の末裔
「あらあら! 姫さま、とってもお似合いですよ」
饅頭のようなものを積み上げた皿をたずさえてきた桃花が、見たこともない料理がならぶ黒檀の小卓の中央に置いた。
「ささ、こちらへどうぞ。お腹は空いていらっしゃいますか?」
水のなかでも良い匂いを感じることに、驚きはなかった。返事は千夜ではなく、ぐうううきゅるる、という腹の虫がした。
「ほんとうに、わたしが食べてもいいの?」
「もちろんです。この桃花もはりきって腕をふるいました」
「みんなは一緒に食べないの?」
二枚貝に座ったのは千夜だけだ。撫子は足元のほうへ泳いできて、長年ほったらかしだった千夜の髪のすそから、少しずつ丁寧に梳きほぐし始めた。
「こちらは姫さまのためのお食事ですから。昆布ともずくの餡を包んだものです。お口に合えばいいんですが」
「いただきます」
きちんと両手をあわせてから、山と積まれた饅頭の頂上を手にとる。外側はつるりとしているが、生地はやわらかくて、甘辛く似た餡との相性が抜群だった。
「おいしい!」
大きな目を輝かせた千夜と同じくらい嬉しそうに、桃花が破顔した。
「たんと召し上がれ。姫さまは、あんまりにも痩せすぎです。このもちもちほっぺを、ふっくらさせなくては」
返事ができないほど口いっぱいに頬張ってふくらんでいるところを、桃花はつんつんと指でつついた。
桃花が給仕をつとめ、千夜がせっせと食べて、食べて、そして食べている間に、桔梗が約束の話を、語り聞かせてくれた。
「遥か昔、尊き龍王さまがおわしまし、すべての海をおさめておられました」
桔梗の声は少し低めで、落ち着いた明瞭な話し方だった。
「龍王さまには二人の御子があり、若君は遠く西の世界へと旅立っていかれました。龍王さまは、深海魚でなければ暮らせぬような深い海の底に、そのお力をもって都をつくられ、姫君におさめさせました。その都こそが、ここ、わだつみでございます。以来、子孫の姫巫女さまが、代々受け継がれてきたのでございます。千夜姫さまは、半年前におかくれあそばされた先代さまの乙姫さま……つまり、妹姫である桜夜さまの御子であらせられます」
「お母さんが……?」
わかめのおにぎりを両手にもって、千夜は首をかしげた。
「お母さんが、ここに住んでいたの……? そんな話、聞いたことない……それに、お母さんは人間だったわ」
「人魚のひれと、わだつみの都の記憶を手放して、地上へ行かれたのです。桜夜さまは、お小さい頃から外の世界をご覧になるのがお好きでした。本来は、人魚が人間に姿をみせることは禁じられているのですが、座礁した漁船を助けたりなさって」
「そして、人間の男性と恋に落ちたのです」
海苔の佃煮をよそいながら、桃花が拳をつくって熱弁した。そんな桃花に桔梗は白い目を向けた。
「桃花は恋に恋しすぎ」
「鯉?」
「千夜姫さま、お気になさらず」
「それじゃあ、お母さんは、自分が人魚だったと憶えていなかったの?」
「はい。それが、人魚が人間の世で生きる際の掟です。姉君にあたる先代さまは、桜夜さまが選ばれた道へ進むことを反対なさいませんでした。ただ、いつも気にかけておられましたよ。先代さまご自身は、妹姫との繋がりを保ったままでしたから、千夜姫さまがお生まれになられたこともご存知でした。桜夜さまが崩御されたときのお悲しみようといったら、お慰めの言葉も見つからないほどで……忘れ形見である千夜姫さまのことを、ずっと探していらしたのですよ」
「……お父さんは? お母さんがほんとうは人魚だって、知っていた?」
「申し訳ございません、それは存じません。ただ、父君が不審に感じることはあったかもしれません。先代さまのお力をもってしても、千夜姫さまの居場所ははっきりとはわかりませんでした。桜夜さまが千夜さまを隠そうとなさって、無意識に結界を張られたのではないかと……千夜姫さま。なにか不思議なことが身近でありませんでしたか? たとえば、触れていないのに物を動かせたり、悲しいときに雨が降ってきたり」
「……水がめが、割れたの。わたし、なにもしていないのに、お父さん怒ってた……」
桔梗は小さくうなずいた。
「千夜さまの持って生まれた力が、悪い人間に知られたら、差別されてひどい目に遭わされるかもしれない。桜夜さまは、千夜姫さまをお守りするために、人の目から隠そうとされたのだと思います。そうして、桜夜さま亡き後も、守護の力が残ったのでしょう。跡継ぎのないまま先代さまがおかくれあそばされた今、千夜さまだけが、龍王さまの血を引く姫巫女さまでいらっしゃいます。姫巫女さまをお守りする役目でありながら、もっと早くにお迎えにあがれず、申し訳もございません」
「千夜姫さま。わたくしたちと一緒に、この都で暮らしてくださいますか?」
梳き終わったところの髪に指をすべらせながら、撫子がおっとりと言った。
「わたくしはわだつみの都が好きです。もっとも美しい場所ですわ」
「わたしも、ここが好き」
おかわりした饅頭に目をおとして、千夜はつぶやいた。
「三人もお姉さんができたみたいで嬉しい。トトちゃんも好き。……でも、龍王さまの力なんて、みんなが求めている姫巫女さまの力なんて、わたしにはないもの」
「そんなことありません」
桃花がそっと千夜の肩に手をそえた。
「だって、姫さまはわたしたちを呼ばれたじゃありませんか。ご自覚はなかったでしょうが、千夜さまのお声が聞こえました。それに、みずから近くまでいらしてくださったでしょう」
「ううん。村を流れる川がよくあふれてしまうから、人柱に立ったの。水神さまが、九つの娘を生贄にさしだすようにって。わたしは役に立てることが嬉しかった。でも、水神さまはいないのね」
「……そんな、なんということを……」
撫子が袖で顔をおおった。三人とも青ざめた顔を強張らせたことに、千夜は別のことを考えていて気付かなかった。
地下の座敷牢に閉じ込められて、外からかんぬきをかけられていた。けれど、父はそうやって守ってくれていたのだ。そういえば、川が氾濫したときも、地下にいた千夜のところへ浸水することはなかった。それも、母が残した守りの力だったのだろうか。
「――柱というのは、神様を数える単位です。人柱に立つ、というのは、人が神のもとへ行く、神に近付くという意味がございます。千夜さまはそうして、人間から、姫巫女さまになられたのですね。けっして、死ぬことが大事なのではございません」
桔梗が、強い口調できっぱりと言った。卓をはさんだ向かい側から、すうっと流れるように泳いできて、両手で千夜の手をとった。
「千夜さまが生まれてきてくださったこと。千夜さまが生きて、わだつみの都へいらしてくださったことが、わたしたちの喜びです。そうして、千夜さまがお健やかに、幸せに成長なさってほしいと願っているのです」
虹色の泡がみえる、と思ったのは、水のなかに混ざっていく涙だった。ふるふると楕円から球形になっていく涙をみおくり、千夜は目元をぬぐった。
「えへへ。変ね。悲しくないのに」
「変ではありませんよ。わたしたちは嬉しくても泣くのです」
「泣いたらお腹が空いちゃった」
「どんどんお召し上がりください。水菓子もございますよ」
「りんご!?」
生の果物なんて、とても高価な食べ物だ。食べる前から両手で頬をおさえる千夜に微笑みかけてから、桔梗は表情を引き締めた。
「桃花、撫子。千夜姫を頼む」
「桔梗? どうしたの?」
「迂闊だった。桜夜さまが張られた結界により見つけられないなら、千夜さまに自らの意志で結界から出てきてもらえばいい。……誰かが、千夜姫さまをおびき出したんだ。わたしたちでないなら、彼らだ」
「だぁれ?」
しゃくしゃくと懸命にりんごを咀嚼しながら問いかける。
「西から流れ着いたよそ者です。勝手に、近くに住みついた人魚たちなんですが……この半年間、わだつみの都に主がいないのをいいことに、乗っ取ろうとしてきた乱暴者です。くれぐれも近寄られませんよう」
「桔梗さんたちの誰かが姫巫女になるのではいけなかったの?」
意表をつかれたのか、数回瞬きをしてから、桔梗は笑って首をふった。
「龍神の力は直系の姫にのみ受け継がれるもの。人間の王とは違います、誰にも代わりはできません」
突然、ぞくっと鳥肌がたった。千夜が両腕をおさえるのと同時に、ずうん……という地響きのような音がした。
「言ってるそばから」
焦った様子で、桔梗は大きな窓から飛び出していった。千夜を案内してきたときは速度を調整していたのだとわかる、目にも止まらぬ速さだった。
「攻撃されているの?」
「千夜さまがなにか感じとられたわ。結界に干渉されているのよ」
桃花と撫子も、真剣な顔で言い合う。急に緊張感がみなぎり、場が張りつめた。
「わたくしたちも行きましょう」
「撫子も行くの?」
桃花が目をまん丸にした。かなり珍しいことらしい。
「せっかく千夜姫さまをお迎えしたのです。わたくしも、三守人として守りたい」
二人の顔を交互に見ながら、おろおろしている千夜の肩を、桃花が両手でつかんだ。
「よろしいですか、姫さまはここでお待ちください。ここにいれば安全ですからね。ね?」
「え……」
千夜の返事を待つことなく、二人も続いて行ってしまった。
「ま、待って! わたしも行く!」
慌てて付いていこうとしたとき、声が聞こえた気がして振り向いた。黄色いハコフグが、千夜の尾ひれがつくった水流で後ろへおし流されて、ひっくり返り、必死で小さな胸びれと尾ひれをはためかせている。
「あっ、トトちゃん! ごめんね、一緒に行こうね」
はっしとハコフグをつかまえて、千夜も窓の向こうへと泳ぎだした。
(あれ……?)
けれど、なぜか、思うように進まない。足でも、もっと上手く泳げたのに、深紅のひれが今はあるのに。と、視線をさげた千夜は、ぽっこりと丸くふくらんだお腹に気がついた。
「た、食べ過ぎてうまく泳げない……!」
ひとり奮闘している千夜の足元に、下からふわっと白いものが浮かんできた。海の月……千夜の倍以上ある、大きな美しいくらげだった。ふんわりと千夜の体をおしあげる。
「のせてくれるの、くらげさん? ありがとう!」
上を向くと、ただそれだけで、心得たようにくらげが浮上した。足のように見える口腕を動かし、泡も立てず、静かに、それでいて驚くほど速い。とうに三人の姿はどこにもなかったが、王宮の上のほうに気配を感じていた。
しかし、いきなり、目に見えないなにかに阻まれた。壁のようなものがあって、そこから先へは進めない。
「これが、結界……?」
それなら、と王宮の後ろを見た。南北にのびる大通りの端にそれぞれ鳥居があると桔梗が言っていた。そこから外へは行かないようにと。
「くらげさん、お願い。大鳥居まで連れていって」
ためらうような間の後で、それでも、くらげは願いどおりにしてくれた。朱塗りの鳥居の手前でくらげの上を離れて、単身、その下をくぐる。鳥居のなかは安全と聞いていたから、あえて置いてきたハコフグのトトも一生懸命ついてきた。
石灯籠に両側をはさまれた光の道をとおり抜けると、そこにあるはずの、わだつみの都は見えなくなった。ただ果てしない海があるだけだ。