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わだつみの姫巫女  作者: 乙羽
水の都
2/12

2 わだつみの城

 大通りのつきあたり、「わだつみの都」の奥まったところに、美しいお城があった。真珠のような白い壁に、緑と青を混ぜ合わせたような色の屋根、朱色の欄干。広々とした露台に、巻き貝の灯りがたくさん取り付けられている。

 ずっと座敷牢で暮らした粗末な家を出て、松明をもった大人に前後をかこまれて橋に辿りつくまでの短い間――足が弱く、半分もせずに歩けなくなったため、父に背負ってもらったのだが、外の世界が目新しい少女にはあっという間に感じた――、見えた家々は、どれも似たり寄ったりだった。

 こんなに立派なお城には、お殿様とか、とても偉い人が住むのだろう。けれども、ここは海の底だ。

「あそこに、水神さまがいるの? そこで食べてもらえるの?」

 巻き毛の女性は、困ったように袖を口元にあてた。お団子頭の女性が、「いいえ」と朗らかに首をふる。

「わだつみの都に、水神と呼ばれる存在はありません。龍神のことであるならば、姫さまこそが、ゆいいつの末裔。あの王宮は、姫さま、あなた様のお住まいです。誰も姫さまを食べたりなどしませんよ」

 少女は目をみはった。あんな豪華なお城に住む?

「ほら、ご覧なさいませ」

 だんだん深く泳ぎながら、王宮へ近付いてくるにつれ、三守人と同じように下半身に鱗とひれをもつ人魚たちが、左右に整列していた。男性もいた。

 少女たちの一行が横を通りすぎると、人魚たちは垂直にもぐるようにして一回転した。そばを通るたびに順々にするので、彼女たちがお辞儀をしてくれているらしいとわかった。それぞれに鱗とひれの大きさや形、色合いが異なっていて、絢爛な絵巻を見るようだった。

 朱塗りの楼門をくぐるとき、肌がぴりっとするような、形容しがたい感覚がした。痛みもなく全身を貫き、ゆっくりと浸透していく。血液のように体内を巡りだす、そんな。

 珊瑚礁と海藻の庭園をすぎて王宮のなかに入ると、そこは高い吹き抜けの広間だった。昼間のように明るく、真夜中の橋から海の底へと闇に慣れていた目には、一瞬まぶしいほどだった。

 光沢感のある白い壁、赤い宝石珊瑚が骨のような造形美をみせ、天井の巨大なくらげを思わせる灯りから細い垂れ衣が長くさがり、ひらひらと水中を揺らめいている。

 ぽかんと口をあけて辺りを見回している少女に微笑みかけて、三人の女性は手を離した。

 四人を出迎えた大勢の女性の人魚が、いっせいに前へ一回転した。

「姫巫女さま、お待ちしておりました」

「我ら一同、姫さまにお仕えする者にございます」

「なんなりとお申し付けくださいませ」

 少女は慌てて両手をふった。

「ち、ちがうの。わたし、『ひめみこ』じゃないの。わたしは千夜(ちよ)。ただの、千夜よ」

「千夜姫さま! なんてお可愛らしいお名前でしょう」

 お団子頭の、福々とした女性が、嬉しそうに手をうちあわせた。そして、橙色の土佐錦のようなひれをひるがえしてお辞儀をした。

「先に姫さまに名乗らせてしまうなど、大変失礼いたしました。わたしは玉守の桃花と申します」

「ももかさん」

「『さん』は要らないのですよ。千夜さまのことを我々が姫巫女さまとお慕いするわけは、きちんとご説明いたします。さあさ、まずは姫さまにゆっくりとお寛ぎいただかなくては。夕餉の支度はできていますか?」

 桃花が朗らかに問うと、他の人魚たちもどこか嬉しそうにうなずいた。

「急ぎ、御座所までお持ちいたします」

「失礼いたします、千夜姫さま。もう一度、お手を」

 三守人のうち、これまでずっと無言だった、黒い尾ひれの女性が手をさしのべた。景色や周りを泳ぐ魚たちに気をとられていた千夜は意識していなかったが、背後にまで目を配りながらいちばん後ろを泳いでいた。

「太刀守の桔梗でございます」

 細い黒髪を後ろの高い位置でひとつに結っている。切れ長の目元が涼やかな、凛とした美人だ。微笑を浮かべた麗人に、うやうやしく手をとられると、ほんとうに姫君にでもなった気がした。

「おつかまりください」

 桔梗は片手で千夜をかかえると、もう片方の手で、天井から垂れ下がっている布をつかんだ。するするっと布が巻き上げられ、あっという間に、吹き抜けを上昇していく。慣れた手つきで桔梗は布を放しながら慣性で泳いだ。

「こちらが最上階、姫さまのお部屋でございます。寝室は奥にご用意しております」

 桔梗の腕のなかで、千夜はぼうっとしてしまった。千夜の背丈のゆうに三倍はありそうな、桜色をした大きな二枚貝。直角よりも広くひらいた内側は座る場所なのか、柔らかそうな敷物がしてある。上のほうに、五色の組み紐でまとめられて毬のようになった三つの銀の鈴がつりさげられている。中央よりやや奥にある貝殻を、四方にたつ几帳がかこみ、色とりどりのとばりが水にゆらめいていた。

「きらきらしてる……」

 巨大な貝の前には、床に固定された黒檀の小卓があり、表面には螺鈿細工で桜の花があしらわれていた。磨き抜かれた黒檀の隅に、散りゆく花びらがある。

「白蝶貝の螺鈿ですわ。貝たちは、その生を終えて水に還ったあと、器を譲ってくれるのです」

 色素の薄い、くるくるとした長い巻き毛に、白いひれを持つ女性が、両手を隠すように袖を重ねあわせて、みやびやかにひらりと回った。

「鏡守の撫子にございます。わたくしたち三守人の当主は、代々、姫巫女さまをお守りし、生涯お仕えする家系でございます」

 桃花は誰でも安心してしまう太陽のような可愛らしさで、桔梗は凛々しく惚れ惚れしてしまう美人。おっとりとした話し方が似合う、儚げで可憐な撫子。千夜からみれば三人とも大人の女性だが、二十歳前後のうら若き乙女たちだ。それぞれ雰囲気は違うものの、いずれも上品な美女で、三人のほうがずっと「お姫さま」らしいのにと千夜は不思議だった。

「まずはお召し替えをいたしましょう」

 巻貝の行灯を手にした撫子にいざなわれて、千夜は素直に、桔梗の手から離れた。桔梗と桃花は、いくつか几帳を引き寄せて、千夜と撫子の周りをかこんだ。

 千夜が着ていた白い着物を脱がせると、撫子はそれを丁寧にたたんだ。三守人の衣装に比べれば、みすぼらしいといっても差し支えない古着だけれど、これをくれた村の女性のことは忘れられない。千夜の視線に気づいて、「お洗濯しておきますね」とにっこりしてくれた撫子のことが、もう、とても好きだった。

「こちらは、姫巫女さまにのみ受け継がれる羽衣でございます。千夜姫さまが本来のお姿になられるのに、力を貸してくれるはずですわ」

 撫子がふわりと肩にかけてくれたのは、細長い帯のような、上等そうな生絹だった。一見すると白いようなのに、光の加減で淡紅色にも見える。

「千夜姫さま。水のなかを思いのままに泳ぎまわるところを、ご想像なさってみてください」

 それは、とても簡単なことだった。三守人という人魚たちに出会ったときから、うらやましくてしかたなかったのだから。

 体の中心に、ぽっと熱がともり、全身に広がる。目を閉じて、ひらいたとたん、千夜は歓声をあげた。深紅の琉金のような尾ひれが、ひらひらと揺れている。元の足の短さのためか、尾の部分は撫子たちに比べると小さいけれど、その分、ひれは長かった。

「まあ! 姫さま、なんてお美しいお姿ですの」

 撫子が両手を頬にあてて嘆息したので、さらに嬉しくなってその場で回ってみた。手足で泳いでいた時よりも、もっと自在に水をかくことができて、思いどおりに曲がることも、みんなのように回転することもできた。

「こんなに鮮やかな赤なのですもの、ひれが映えるように、やはりお着物は白がよろしいでしょうね」

 はしゃいで、くるくる舞っていた千夜の手をとり、長持というには豪奢な長方形の箱のなかから、撫子は白絹に金糸で縫い取りをほどこした着物をとりだした。

「裄がすこし余りますね。明日にはお直しいたしますわ」

 しっとりと肌になじむ絹は軽く、なめらかで、水を吸ったりしないようだった。尾ひれに似た朱色の兵児帯を巻き、撫子はちょっとだけ不満そうな顔をした。

「やはり帯も白かしら……金糸と銀糸で刺繍をして」

「撫子さんは、お着物や帯をつくれるの?」

 撫子は頬を染めて袖を口元におしあてた。

「下手の横好きで、お恥ずかしいかぎりですわ。わたくしは桃花さんや桔梗さんのように活動的ではなくて……外へ出るよりも、部屋のなかで縫い物をしたり、小物をつくったりするほうが好きなのです」

 泳ぐのに邪魔にならないようにするためか、人魚たちの着物は丈が短く、お端折りもない。撫子は風変わりな着物を、袖口を重ねて着ていた。袿というらしい。さらに、短めの裳のようなものも身につけて、尾ひれの美しさを際立たせていた。白に近い、ごく淡い桜色の裳を、千夜の腰にもつけてくれた。紗でできた透きとおる薄衣だ。

「姫さまに、わたくしの縫ったものをお召しいただけて、今とても幸せですわ」

 少女のように撫子がはにかむ。

「ありがとう、撫子さん。嬉しい。お姫さまみたい」

「『みたい』ではなくて、姫さまなのですよ。お気に召していただけました?」

「とっても! でも、髪がぐちゃぐちゃなの。撫子さんの髪は、とっても綺麗ね。白い尾ひれも綺麗なの」

 やわらかな薄茶色の巻き毛に触れると、ふわふわしていた。一部を編み込んで、長くおろした髪型が似合っている。うっとりと撫でていると、ふいに、撫子がきゅっと千夜を抱きしめた。桔梗に抱き上げられた時もそうだったけれど、とても暖かい。

「――ありがとうございます。千夜姫さま。わたくしは自分の髪が嫌で……それで、昔から引っ込み思案になってしまって」

「なぜ?」

 千夜はびっくりした。桔梗のような、さらさらの黒髪も素敵だけれど、撫子のような髪は初めて見た。

「わだつみの都では、黒髪黒目のものがほとんどですから。みんなと違っていることが怖くて、目立つのが嫌でしたの」

「わたしは、撫子さんの髪も好きよ。撫子さんのぜんぶが好き」

「ありがとうございます。わたくしも姫さまのことが大好きですわ」

 体を離して、千夜の頭をそっと撫でると、撫子はにっこり微笑んだ。

「姫さまのおぐしも、じきに綺麗になりますわ。豊かなおぐしですもの。そうですね、少し裾のほうは切り揃えて……お任せくださいませ。毎日、丁寧にお手入れさせていただきます」

 真珠と白蝶貝でできた髪飾りを、左耳の上のあたりにつけてくれた。組み紐が垂れ下がり、水の中でたゆたう。

「水の流れは、海で感じる風なのね」

 裳や羽衣、そして自分自身の尾ひれで、感じたことだった。

 撫子はすこし驚いたようにみはった目を、ゆっくりと細めた。優しい表情で、もう一度、千夜の頭を撫でた。なにも言わなかったけれど、褒められたような気がした。

「撫子。できた?」

 几帳の外から声がした。撫子が答えるより先に、千夜がとばりの間をかきわけて飛び出した。

「桔梗さん、見て、見て!」

 水中で踊る千夜を追って、深紅のひれも、白い着物の袖も、裳や羽衣も、ひらひらと海の風をはらむ。

「よくお似合いです、千夜姫。特に、尾ひれがとてもお美しい」

 かがむようにして、桔梗は千夜のひれの先端に、うやうやしく口付けた。嬉しいような、恥ずかしいような、いたたまれない気持ちになった千夜は急におとなしくなった。頬が熱い。

「姫さまにお目通りを願っているものがおります」

 桔梗の後ろから、ぽんっと黄色い魚が出てきた。袋をふくらませたような、四角い体型をしている。

「とと!」

「……こちら、ハコフグの……」

「とと!」

 桔梗と、片付けをしていた撫子が、同時にふきだした。

「それは、人間が魚全般を呼ぶ言葉だったように思いますが……」

「お母さんが、教えてくれたの。いま、思い出した……川に連れていってくれたの。たくさんのお魚が集まってきてね」

 くるくると千夜の周囲をハコフグが泳ぎまわる。あまりにも短い、小さなひれの動きがかわいい。

「こんなに姫さまから呼んでいただいたなら、今日から『とと』ですわね」

「そうだね。それでは、こちらのハコフグのトト、姫さまの眷属としていただけますか?」

「けんぞく、って、なぁに?」

「姫さまの従者です。いつもおそばに置いていただけますか?」

「ずっと一緒にいてくれるの? お友達、わたし、はじめて!」

 ちょうど両手でつつみこめる大きさのハコフグを抱いて、今度は千夜がくるくる回った。

「よろしくね、トトちゃん。わたしは千夜よ」

「友達だなんて、恐れ多い……」

「姫さまのお気に召したなら、いいだろう」

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