2 夢の名残り
蒼い光に満たされた寝室で、しばらく千夜はぼんやりただよっていた。夢のなごりの気配を感じた。ゆらめくとばりの隙間に、意匠を凝らした半球形の美しい天井の内側に。
氷の結晶のように、あるいは睡蓮の花のように、真珠をはめこんだ天蓋。光の加減によって純白にも淡紅色にもみえる不思議な宝石は、今は青くきらめいていた。天蓋からさがる紗のとばりのなか、この同じ場所で、かつての姫巫女たちも夢をみたのだろうか。
お腹にかかえているゴマフアザラシの赤ちゃんから片手を離し、まっすぐに手をのばしてみる。そこにある気がした夢のかけらはつかめず、かすかな水の流れを、朝のそよ風として感じただけだった。
真っ白なもふもふに抱きついて、自由落下ならぬ自由遊泳をしながら眠るのは、すっかり千夜の習慣になっていた。母親とはぐれたばかりのアザラシも落ち着くのか、嫌がることなく、むしろ千夜に甘えたがった。重しになるのか、ゴマフアザラシの寝方が上手いのか、とんでもなく寝相の悪い千夜がそとへ流れ出ていくこともなくなった。そういう意味では、三守人にも安眠をもたらした。
「……トトちゃん?」
吹き抜けのような縦長の寝室に、黄色い小さなハコフグの姿がみあたらない。いくら広大だといっても、家具や小物のない、遮るもののない見通しのいい部屋で、見つからないなんて初めてだ。鮮やかな黄色は、透きとおる白いとばりへ潜りこんでも見えるはずなのに。
「トトちゃん。どこ?」
にわかに不安になり、ゴマフアザラシのユキを抱く手にきゅっと力が入る。
千夜がまだ人間として暮らしていた頃は、ずっとひとりで寝起きしていた。添い寝してもらった記憶はないのに、昼間でも薄暗いあの座敷牢を思い出すなんて、ずいぶん変だ。
千夜は自分の体をぺたりと触ってみた。深紅の流麗な尾ひれを確かめるように、うろこの一つひとつまでなぞってみる。
シャン……
はっとして、千夜はあたりを見回した。
夢のなかで聞いた、あの鈴の音だ。新しい朝を祝福するように、清らかに、美しく響く。天蓋に反響した音は、細かな粒子となって、部屋中に降りそそぐようだった。
腕のなかでもぞもぞしつつ、まだ幸せそうに眠っている丸っこいアザラシをかかえたまま、千夜はとばりをくぐって寝室を出た。居間を通りぬけて、几帳の影となる片隅までいく。
床にあたる部分に、くりぬかれたような正円がある。千夜がてのひらをあてて押すと、蓋が下向きに外れて、ぽこんと開いた。
それは厳密には蓋ではなく、吹き抜けの玄関で細長い垂れ衣をゆらめかせる、くらげのような照明のてっぺんだった。日中は行き来できるように開いているが、千夜が寝る頃にはくらげ型の灯りが浮かび上がり、入口をふさぐ。
それを押し下げると、千夜は隙間から泳ぎでた。垂れ衣にそって旋回しながら下の階へおりていく。
「あら、おはようございます。姫巫女さま」
「今朝はずいぶんお早いですね。ユキさんはまだ、おねむかしら」
王宮につとめる侍女たちは、すでに身支度をととのえて働いていた。にこやかに声をかけてくれる人魚たちに挨拶を返しながら、一階までたどりついて首をかしげた。
鈴の音は下から聞こえてくると思ったのに、近付いている感じがしない。
「姫巫女さま、朝餉の準備を急がせますね」
「できあがったものから、すぐに御座所へお持ちいたします」
どこかに、自分がまだ知らない通路があるのかもしれない。
「ううん、いいの。いらない……」
うろうろと辺りを泳ぎまわり、赤い宝石珊瑚の後ろを覗いたりしながら、うわのそらで答えた千夜は、侍女たちに朝から激震をあたえたことに気付かなかった。
(やっぱり、ここじゃないんだわ)
くらげ灯りから下がる垂れ衣のひとつを手にとる。くるくると巻き上げられていく衣とともに、最上階へ戻っていく千夜のひれを見送り、侍女たちは呆然とした顔を見合わせた。
「……一大事ですわ」
「ご病気に違いないわ。急いで撫子さんたちにお知らせしなければ」




