彼女がこちらを見ている。
彼女がこちらを見ている。
私のことを見ている。
じーっと、ひと時も目を離すことなく。
私は本を読んでいて、別に向こうを見たわけではないが、視線を感じる。
本から顔を上げても良いのだが、それで目が合ってしまうとなると気まずい。もしかしたら違うかもしれないが、そんな気がしていて、もしそうなったら申し訳なくって仕方ない。
だから私は本を読み進める。
内容なんて頭に入ってこない。
なんども同じ行を読み返す。
ちょっと進んで、解らなくなって戻る。
それだけ気になるならば、本を閉じて構ってやればいいのかもしれない。
さっきからページを捲っていないことなんてバレているのだろうし。
そもそも、彼女とは「付き合ってください」「いいですよ」と契約を交わした恋人なのだ。
何を遠慮することがあろうか。
本を閉じて立ち上がって、こちらに視線を送る理由を問いただせば良いだろう。
ただまあ、それができたら誰も彼も私も苦労しないのである。
こちらをじっと見つめてきて、微動だにせずいるところには理由があるはずだ。
それの何たるかを推測できたなら、きっと私が採るべき行動も判るはずだ。
とりあえず、怪しまれないようにページを捲る。
彼女が身じろぎする。西日が赤々と部屋を照らす。
目が滑る――とはこのことだろうか。
相も変わらず目に飛び込んでくる活字は何処かへ抜けていく。
とりあえずはさっき読んでいたページ番号を覚えておこう。
ぺらりとページを捲る。
彼女に対して、私は視線に気づいたけれども気にしていないとアピールする。
上手くできているかは知らないし気にしない。
気にしないと心に決めても気になるものではあるのだが。
さて、熱心にこちらを見つめ続けている彼女は、一体全体、何をしたいのだろうか。
私に何か要求でもあるのだろうか。
もしや、甘えたいのだろうか。
ここで判断を誤ってはいけない。
普段クールを装っている彼女は、気分じゃない時に甘やかすと怒る。
無視されるというのは中々どうしてショックが大きい。
ひとまずページを捲る。
あるいは、怒っているのかもしれない。
私が過去から現在にかけてしてしまった何らかの事柄について、すでに怒っている可能性がある。
なにかしてしまっただろうか。
記念日を忘れている可能性は十分にある。
ぼーっとしているだけかもしれないし、見惚れられているかもしれない。
結局のところ判らないが、ページを捲ろうとしたそのとき、頭上に異物を感じた。
頭の上に何かが乗っていて、ちょっぴり動いたような感触があったのだ。
それが何かは判らない。
彼女の考えも解らない。
ただ、それは私に恐怖を抱かせるものだった。
私は虫が苦手なのだ。
風が戦いだだけかもしれない。
そんな言い訳で疑念は消えない。
虫だとしたら、どんな虫だろうか。
私に害を成し得る虫だろうか。
彼女が警告してこないということは大方無害であろうが、怖いものは怖い。
ふとそんなとき、頭の虫が飛び立った。
存外に俊敏な動きで、陽の照らさなくなりつつある網戸にしがみ付いた。
掌を広げたくらい大きな羽根を持つ、真っ白な蛾であった。
遠目に見るぶんには美しいが、頭に乗られるのは御免である。
二重窓の内側を閉めて、野に帰ってもらうことにした。
彼女は堰を切ったように笑い、ひとしきり笑った後で、やっぱりあんた面白いわ、と褒めてくれた。
実のところ褒められたのだか貶されたのだか判らないが、まあ楽しんでくれたなら悪い気はしない。
網戸と窓との間から出て行ったのか、翌朝ともなると蛾はいなくなっていた。
網戸の隙間はガムテープで目張りしておいた。