日本最後のマタギ
テンプレ上等
ユネスコ自然文化遺産白神山地
世界最大のブナの原生林を小学校のプールに例えるなら、スポイトで垂らしたインクの『一滴、一度迷ったら二度と出てくることの出来ない不帰の森を、この物語の主人公、叉木史朗は歩いていた。
幼少の頃に両親を事故で亡くし、職業として熊撃ちを専門とするマタギ、日本で最後の一人となった祖父に引き取られ、中学校を卒業するとすぐに、祖父に師事してマタギの道を選んだ。
学校の同級生が当たり前のように高校へと進学するなか、祖父の反対を振り切って、マタギへの道を選んだのは、家族のぬくもりに渇望していた史朗が一日も長く祖父と一緒に居たかったということもあった。
祖父は、生活が不安定なマタギなどではなく、たった一人の孫である史朗には、なくなった両親の分まで幸せになって欲しい、人並みの生活が出来るように教育だけは受けて欲しいと、それこそ史朗の弟子入りに鬼のように反対したが、それでも一向に折れない史朗の熱意に最後は根負けして、マタギとしての技術を教えることになったのだった。
祖父の下、史朗は乾いた土が水を吸収するように、自然の中で生活する術を身につけていった。食べられる野草、毒のある野草、天気の移り変わりや野生生物の知識、山の中での生活に必要な知識全般、そして何より標的となる熊、イノシシ、鹿の生態について、実体験を通じて師匠である祖父について学んでいった。
ところが、3年前、祖父は白神山地に生息する熊の群れの頂点に君臨する通称「隻眼の黒鬼」に殺されてしまった。
史朗が祖父と採取したキノコを引き取ってくれる町の業者のところに持っていったその日、祖父は行方不明になり、数日後、捜索隊が沢で見つけたのは、顔がつぶれて誰かも確認できないほどに引き裂かれた、祖父の変わり果てた姿だった。背中を鋭くえぐる爪痕が、隻眼の黒鬼によるものであることを告げていた。
その日から、史朗は復讐の鬼となった。自分から最後の身内まで,家族のぬくもりまで奪った熊が許せなかった。
マタギとして生き、熊の命を奪って生計の手段とする以上、熊に襲われた命を落とすことになっても、その運命は受け入れなければならない。祖父の生前の口癖だった。
それでも、祖父の遺体は、食べるためではなく、ただもてあそぶように惨殺されて残されていた、その事実が、史朗にやりきれない思いを突きつけた。
必ず、奴だけはこの手で、そしてじっちゃの敵を取る。
史朗が祖父と死に別れてから3年の月日が経った。
祖父の形見の猟銃を背中に背負うも、史朗はまだ猟銃免許の取れる年齢ではなかった。
背中に背負った猟銃は山歩きには荷物にしかならず、当然弾丸を所持することもまして装填することも出来ないが、史朗にとって祖父との思い出の詰まった形見である、祖父の存在を常に近くに感じていたいと、行政と相談した結果、猟銃として使用出来ないように、撃鉄を外した状態で所持することを特例として認められた。
祖父は生前、猟銃の使い方、照準の合わせ方、呼吸法、ありとあらゆる技術を教えてくれたが、是非を弁え、猟銃だけは絶対に触らせてもらえなかった。
そこで、史朗はマタギとしての生活が出来ない冬の間を利用して、最寄りの競技用射撃を習うことにした。
マタギなど、およそ安定した収入とかけ離れた職業であり、協議用の射的などはどちらかというと金持ちの道楽であり、多額の金が掛かる。しかし、日本最後のマタギである祖父と、その後継者として祖父の後ろを一生懸命追い続ける子供の姿がテレビの特集で組まれるや、全国からその不幸な生い立ちの持つニュース性に多額の寄付が寄せられ、また地元の協議射撃場も、日本競技射的協会も、史朗を宣伝に使おうと便宜を図ったため、史朗は無償で射撃の訓練をすることが出来た。
そして、最後の身内であった祖父が宿敵である熊の群れのボスに非業の最期を遂げた事実は、その話題性もあって、全国からの寄付金は加速した。
環境に恵まれたことに加え、この道で生きていくと決めた史朗の集中力は、遊び半分で協議射的をする他者を圧倒し、オリンピック選考基準を超える結果を最年少でたたき出すまでに至ったことも併せ、史朗を金の卵と触手を伸ばす大人達の欲望にまみれた勧誘の全てを史朗は断ち切り、逃げるように山に籠もった。
その日は、後数日もすれば、白神山地にも雪が訪れようという小春日和ののどかな日だった。
史朗は、枯れ落ちるブナの葉の乾いた破裂音を踏みしめ、山の奥へとナメコを探しに入った。
天然のナメコは都会の食通の間では、松茸、マイタケ、ホンシメジに並ぶ高級キノコであり、雪が降っても、たくましく雪の下で生え続けるその強い生命力はマタギにとっても大切な獲物であった。
世界最大のブナの原生林は、キノコの宝庫でもある。ましてキノコは毎年同じ場所に生える習性を持つ植物であり、史朗は祖父と一緒に山を歩きながら、決して他者には教えないキノコの生える場所を一つずつ頭にたたき込んでいた。
週末には天気が崩れる、そうすれば山は雪になり、キノコのシーズンも終わる。
史朗はシーズン最後となるナメコを求めて、祖父との秘密の群生地へと足を運んでいた。
山は標高を上げるごとに寒さを増し,吐く息も白くなったが、張り詰めた空気は谷を挟んだ反対の山間で鳴くカケスの声も鮮明に聞き取れるほどに、山を静寂が包んでいた。
「・・・」
史朗は突然足を止める。
今何か聞こえた。
「・・・・ウゥ」
獣のうなり声か?
史朗が向かおうとしているその先には少し開けた場所があり、そこは、数年前に東北を襲った大きな台風によって倒壊したブナの巨木がある場所だった。樹齢数百年は経とうかという森の主のようなブナの倒木の陰に毎年ナメコが密集する祖父との秘密の狩り場があった。その後すぐ祖父はなくなったが、初めて見つけたとき「いいか、史朗、ここは誰にも教えちゃなんね。二人だけの秘密だべ」と言って笑ったのを思い出す。
「ガルゥ」
今度は間違いなく熊のうなり声だった。聞き間違えようはずもない。
山の中で熊と遭遇するのは必然的に生命の危険を意味する。祖父が居た頃ならともかく、今の史朗には熊を相手にするだけの手段がない。背中に背負っている鉄砲は、撃鉄を外してあり、鉄砲の形をしたオブジェに過ぎない。腰にぶら下げている鉈と鎌も植物採取と枝を原って薪にするためのものであり、野生のそれも狂暴な大型獣を相手にするためのものではない。
足元は枯れてここ数日の晴天のため乾ききったブナの葉が敷き詰められた状態で、都会の人間には、足音を立てずに歩くなど不可能であるが、地下足袋に、無音で移動する術を身につけた史朗は、足首より先が上下に動かないかのようななめらかな体重移動と共に、声の正体に向かって進んでいた。
開けた場所に出る直前、その木陰から史朗が見たものは、夢にまで出る不倶戴天の祖父の敵であった「隻眼の黒鬼」であった。そしてもう一匹、史朗に背を向けた状態で目の前の熊に飛びかかっている白い犬(?)がいた。
この辺りで熊撃ちをする猟師の飼っている猟犬は全部知っているはずだが、その犬は見たことがなかった。この辺りの猟犬は秋田犬かほとんどで、あとはポインターが二匹だけだったはず。目の前の犬は隻眼の黒鬼と比べるとあまりに小さく、中型犬のサイズだが、その毛並みは見たことがないほどに光り輝く銀色だった。
その犬は体格差を物ともせず果敢に隻眼の黒鬼に立ち向かい互角の戦いを挑んでいた。その光景が史朗には信じられなかった。
今までに返り討ちにあった猟犬は数知れない。狡猾な黒鬼は、まず猟師と猟犬を引き離し、猟犬だけを先に始末してしまい、愛犬を殺された猟師の心をへし折る。黒鬼に殺された猟犬はここ数年で二桁に上っていた。
黒鬼も、目の前の犬がそのサイズにも拘わらず自分にこれほどまでのダメージを与えていることが信じられないのか、殺気を漲らせて、目の前の犬の一挙一動を窺っている。
両者の姿が重なる事に鮮血が飛び散り、両者の動きが落ちていく、繰り返すこと何度目かに、犬の牙が熊の首を捕らえるも、急所まで届かず、そこに出来た隙を逃さずにふるった一撃で犬は地面にたたきつけられ動けなくなってしまった。
まだ息はあるようだが、トドメを刺そうと黒鬼が一歩ずつ犬に近づき、そして目の前まで来ると、その前足を大きく振り上げた。その前足が振り下ろされたとき、鋭く伸びた爪に引き裂かれ、犬はぼろぞうきんのように地面に横たわり、その生涯を終えることになるのだろう。
しかし、その瞬間は訪れなかった。気付いた時にはもう史朗は手に鉈を持って熊に飛びかかっていた。万に一つの勝ち目もない相手だったはずだが、目の前で犬がその爪に引き裂かれたとき、史朗の脳裏によぎるのはマタギとして生きる道を与えてくれた優しい祖父の顔と、目の前の敵に引き裂かれて帰らぬ人となったその後ろ姿であった。
「じっちゃの敵だ」史朗は大声を上げて、目の前の犬から自分に注意を引きつけ、その手にもった鉈を犬が残した首の傷跡にめがけて振り下ろした。
鉈は、熊の首に深く打ち込まれたが、人の力では、その首を切り落とすのは不可能だった。熊は振り払うかのように史朗の顔に爪を立てて、地面へとはたき落とした。
顔を引き裂かれ、地面にたたきつけられた史朗は、最後の力を振り絞り、側に倒れていた犬に覆い被さる。出来ればじっちゃの敵を討ちたかった、それだけが心残りだが、せめて目の前の命だけは救いたい。
意識を手放す直前、史朗が最後に見たのは自分の体の下から史朗を見上げる、銀色の体によく似合うサファイアブルーの澄んだ瞳だった。その瞳に、「お前だけは生き延びてくれ」と最後の力を振り絞ってほほえみ。次の瞬間には史朗はゆっくりと目を閉じた。
史朗の魂は、祖父の敵であった隻眼の黒鬼が史朗を踏みつぶそうと立ち上がったところで、失血が致死量を超えて絶命し、無事祖父の敵を果たしたことも、自らの体が光に包まれ下に居た犬と一緒に吸い込まれていったことも知らないままに。