Fervojkruciĝo
翌日の朝。店のドアをノックする音で目が覚めた。外を窺えば、鉄子と鉄ちゃんの二人が静かに佇んでいた。
「おはよう旦那」
「おはよう。どうしたの君達?」
「旦那、街の案内してほしいって言ったから」
昨日、快諾はしてくれなかったが確かに二人にそう言った。その時は答えにくそうにはしていたものの、あの後二人で答えを出してくれたのだろう。心を開いてくれた二人が、自ら僕の元へ来てくれたことは素直に嬉しい。
「でも、君たち学校は」
「……行かない」
「行きたくない」
「そっか……」
今日は平日なのにと軽い気持ちで尋ねてしまったが、二人の曇った表情から事情を察して、僕は深く追及しなかった。
「じゃ、おねがいするね」
「Lasu ĝin al ni.」
満面の笑みとまでは言えないものの、嬉しそうに微笑む。二人の笑顔を初めて見た。
「君たちのそれって、どこの言葉なの?」
「エスペラント」
「エスペラント?」
良いタイミングだと、昨日気になった事を聞いてみれば、聞きなれない単語が返ってきた。
「人工言語。どこの国の言葉でもないよ」
「僕たちは出身がちがうから」
「私はフィンランド」
「僕はポーランド」
「え? 君たちって兄弟なんじゃ…」
「兄弟とは一言も言ってない」
「確かに……僕がそう思い込んでただけだ」
兄弟だと思い込んでしまったのは、二人の雰囲気が似てるからというよりも、西洋人がアジア人の区別が出来ないのと同じで、日本人の僕からして外国人の区別がつきにくいのが原因だったかもしれない。
「でもなんでエスペラント? 英語じゃなくて」
「私たちの学校は国際学校だし留学生も多い。大体みんな英語が得意」
「エスペラント分かる人は少ないから、僕たちだけの秘密の話ができる」
「へえ」
それを聞いて、懐かしい気持ちがふつと湧いた。僕も叔父さんと秘密の暗号を使ったりして戯れていた事があったから。
「じゃあ、僕も少し覚えたいって言ったら迷惑かな」
「いいよ。旦那なら」
「僕たちが決める事じゃないし」
「ありがとう」
いきなり知らない言語の多くを覚える事は無謀だろうが、挨拶くらいは覚えて二人に声をかけられるくらいにはなりたい。そう思った。
「こんにちはとかおはようとかは?」
「おはようはBonan matenon、こんにちははBonan tagon。時間関係なく使う簡単な挨拶ならSalutonだけでいいよ」
「別れる時はĜis revido…また会うまでって意味」
「ふうん、なるほど」
『Ĝis revido』は昨日の別れ際に二人に言われた言葉だ。今日二人と別れる時に使おうと、念入りに心の中で復唱した。
「そういえば二人はジャンク屋には来た事あるの?」
「僕たち別にジャンクに用は無いけど」
「たまに旦那に連れ込まれてた。暇だから付き合えって」
「はは……叔父さんがごめんね」
あの人がやりそうな事だ。容易に想像がつく。そして二人はゆったりと歩き出して、ジャンク屋の隣の店前で止まる。
「じゃあ最初はここ、メイドさんのお店」
「あ、知ってるよ。最初にここでメイドさんに会ったから」
「そうなんだ」
ジャンク屋の隣にはあるものの、よく観察した事は無かったメイド喫茶『GO華』。窓から店内の様子が覗き見れたが、そこで丁度メイドさんと目が合い、最初に会った時と同じよそ行きの笑顔を向けられた。外に出てきたメイドさんは、忽ち素の表情になり訝しげに僕たちを見つめる。
「なに? あんたらデート?」
「旦那に街案内するから」
「ふーん、珍しい。あたし狂餐会入って半年くらいだけど、その二人が誰かと関わろうとしてるの初めて見た」
メイドさんは少し驚いた顔をする。
「ま、それは何より。楽しんでおいで」
そして手をひらひらと振りながら、店へと戻っていった。
◇
その後、二人は色んな所を案内してくれた。先生の病院。嬢と教授の研究所。ライブハウス。棚袴の事務所。中には二人が通ってるという美容室も。そこのオーナーも狂餐会の会員で、二人とは親しそうに話していた。僕の方を見るなり突然髪をなでられた時は身構えたが、オーナーも嬢のように二人を気にかけているらしく、
「この子達のこと、よろしくね」
話の中でそんな事を言われ、きっと悪い人ではないのだと思った。
そうして、またジャンク屋の前へ。街を一周してきたらしい。二人のおかげで大まかには街の土地勘をつかめた。
「戻ってきちゃったね」
「うん」
「今日はこのくらいにしようか。君たちはどこに帰るの? 駅まで送るよ」
「ううん。いい」
「そう?じゃあまたね。えっと…Ĝis revido.」
「……Adiaŭ.」
「え……?」
覚えたての言葉で別れを告げると、返ってきたのは知らない言葉だった。聞き返しても、すぐに二人は背を向けて歩きだす。その時の二人には、最初に会った時のような人を寄せ付けない壁を感じた。
「エスペラント……叔父さんの本の中に無いかな」
二人のあの言葉がどうも気になって、ジャンク屋に戻って外国語の本が詰め込まれた本棚を漁り、エスペラントの本を見つけて手に取る。
「あでぃあう……あでぃ……あった、これだ」
エスペラントはスペルが素直らしく、聞いたままを引いて容易に見つけられた。その言葉は『別れ』の意味だと記されていた。しかし僕が二人に教えられた『再会』の意思を含めた言葉と違って『長期の別れ』も暗示するものだった。
嫌な予感がする。僕は何かの衝動に駆られて、店を飛び出した。
◇
ただ走った。二人が向かった方向の、一番近くの駅へ。二人がそこにいる確信はない。けれど、とにかく行かなければ。それだけを考えていた。しかしその道中、踏切の前で僕は足を止めた。
「鉄ちゃん! 鉄子!」
バーが降りきった遮断器の前に佇む、今日で十分すぎるほど見慣れた二人の後ろ姿。それを見つけて声を上げる。すると二人は振り返り、こちらを確認して微笑む。
ああ、なんだ。あの時感じた壁は気のせいだった。だってあんなに、嬉しそうに笑うのだから。
二人の元へ歩み寄る最中も、けたたましく鳴り続ける警報音。爛々と存在を主張する閃光灯。その中で、電車が近づいてくる音がする。無機質で、嫌でも重量を感じさせる音。でも、昔から嫌いでは無かった音。―けれど瞬間、その音が酷く恐ろしい、化物の咆哮のように感じた。今から何が起こるのかを、理解してしまったから。
二人の足が、線路の方へと進む。遮断機のバーを潜り抜けて、その向こうへ。
「待って――」
言葉はそれより早く届いたが、この手は遅く、空を掴むだけだった。
大きく鈍い音と共に、キラキラと輝いていた金色の髪も、彼女の宝石みたいに綺麗な緑の目も、彼の空みたいに澄んだ青の目も、一瞬で消えてなくなった。全部が赤に変わった。
僕はその赤い光景を、目に、記録に、焼き付けた。
押さえつけていた衝動、本能には逆らえず、それに反発する激しい自己嫌悪に苛まれながら。
◇
気持ちが落ち着いてから、僕は嬢と共に二人が住んでいた部屋に足を運んだ。その部屋は必要最低限のものしか無く、まるで――いや確かに、身辺整理を済ませた後という光景だった。
「あの子達、最初から……」
しばしの静寂を破って呟く嬢は悔しそうな顔をしていた。そしてふらりとテーブルの方へ。その上に置かれていたシンプルな装丁の本を開いて一瞥しては、首を振ってから僕に手渡してきた。
「旦那読める? これ」
本の中身は手描きの文字が並んでいて、一緒に日付も書き添えられている事からそれが日記だと理解できた。しかし当然、日本語で書かれてはいない。ポーランド語にしろフィンランド語にしろ、勿論僕に読めるはずも無かったが、見た瞬間にこれはエスペラントだと感じて、スマホを取り出して一番最近の日付の文章を翻訳にかけようと、見たままを打ちこむ。それは二人が命を絶った日。『Ni amas al vin. Dankon.』という一文と『Leon Nowak』『Raila Sirola』の連名が書き記されていた。
「ありがとう。私達から貴方に愛を。……レオン・ノヴァック……ライラ・シロラ……」
僕は解読した文章を読み上げて、その日記を握りしめた。
「……あの子達、本当に自殺だったのかな」
「何言ってんの……あんた見たんでしょ」
「そうだけど……あの日、二人に街を案内してもらって、あの子達がちゃんと愛されてた事分かったから。オーナーも、嬢も、メイドさんだって素っ気ないけど気にかけてくれてた。僕はこれからもっと仲良くなれるんだと思ったし、楽しそうに笑う事だってあった。それなのに」
「そうは言ってもね、周りがどれだけ気にしてようが、本人達が生きづらいと思ってたら関係ないわ」
そう、あの子達がどう動くかは、結局あの子達が何を感じていたかによる。そんな事は分かっている。分かっているからこそ逆に分からない。今思えばあの時の二人の笑顔は「つらい」や「悲しい」といった負の感情すらを超える、もっと別の歪んだ何かに支配されていたのではないかと思う。
「不思議なんだ。あの時、線路に飛び込む前、あの子達が嬉しそうに笑ったのが」
「……わかんないけど、そりゃ最後にあんたに会えたからじゃないの。それかもう既に死ぬことを決意していて吹っ切れてたから楽しそうに見えたとか」
「そう……なのかな」
それも一理あるかもしれないが、やはり腑に落ちない。
「じゃあ吸い込まれたのかもね」
「吸い込まれた?」
「自殺しそうにない人間が突然飛び込む事、そういう表現をするのよ。ベルヌーイの定理とか、そうじゃなきゃなにか一瞬の気の迷いか」
「ベルヌーイの定理はわかるよ。でもあれは通過する電車の近くで働くものでしょ。あの子達はその前から自分の足で……」
二人の足取りは、巻き込まれたなんてそんな生温い原理ではなかったはず。しっかりと、自分の意志で死に向かって歩んでいた。
「なに? あんたは何だって言うのよ」
「誰かがわざと、あの子達を追い詰めたとか」
「誰がそんな事するってのよ。冗談言わないでよ。それにもう、いくら詮索しても仕方ないわ。あの子達にはもう会えないんだもの」
嬢は俯いて、悲しみか悔しさかを押し殺したような、冷淡な声色でそう言った。
◇
二人の部屋を出てから嬢は教授の元へ行くというので別れ、僕はその足で狂餐会のビルに訪れた。集会所のドアを開けると、中には会長がいた。
「どうしたの旦那」
「いえ……なんとなく。あの子達がいるような気がして」
そんなはずはない。ありえない。それを頭ではわかっていても、二人がいた壁側を見つめるしかなかった。
「ああ、あの子達ね。そんなに暗い顔しなくても。良かったじゃないか」
耳を疑った。しかし確かに、会長は微笑みながらそう言った。
「良かったって……何ですか……」
「だってあの子達、前から電車に殺されたがってたからね。願いを遂げたんだよ。幸せでしょ」
「貴方知ってて……知ってて止めなかったんですか!」
思わず声を荒げると、会長の表情は一変する。冷淡に、こちらを軽蔑でもしているように。
「どうして止める必要があるの? 生きるも死ぬも、あの子達の自由だよ。自殺志願者には死にたいなりの、その人にしか分からない、どうしようもない理由があるんだ。心が折れて立ち直れないほど追い詰められている人を、救えもしないのに、救う気もないのに「自殺は悪い事」「生きて」だなんだと無責任な偽善で更に追い詰める……愚行だね。僕にはそれこそ悪魔の言葉に聞こえるよ。それよりもその最後を、最期だけは彼らの選んだ方法で見送ってあげるのが彼らの為だと、僕は思うね」
会長はまるで慣れた演説のようにスラスラと自論を吐き出してくる。言い返す言葉はあるはずなのに、その時何故かすぐに反論できなかった。会長の纏う雰囲気が、それが当然で正しい世界の道理のように錯覚させてくる。他人の思考を捻じ曲げて、染め上げて、上書きしまうような、強烈なカリスマ性――そんなものを感じた。
「でも、例えば一日でも生きててくれたら、次の日には何かが変わってたかもしれない。誰かと出会えたかもしれないし、何か良い事が起こってたかもしれない」
「そんな何の根拠もない可能性を唱える事は誰にでも出来るよ。仮にそんな言葉に惑わされて彼らが少しでも生きてみて、それでもただ死にたいという思いが変わらなければ、無駄に苦しむ日々を長引かせるだけ。変わらなかったんだ、現に。君も、誰も、あの子達を変えられなかったし、あの子達も変わろうとしなかった。だから終わった。それだけ」
思考を振り絞ってやっと出てきた言葉は、また簡単に捻じ伏せられて飲み込まれてしまった。
「つまらないね君。買いかぶってたよ」
もはや視線も合わせず、会長は吐き捨てるようにそう言った。
「じゃあ、僕は用があるから」
会長は僕の横を通り過ぎようとした。その時、違和感を覚えた。同時に心臓を掴まれ圧迫されたような息苦しさ、動悸がおこる。
「待ってください……会長……最初に会った時と、目の色が違いませんか」
この街に来た日、集会の時まで、会長の目は赤色だった。アルビノと呼ばれるような白い髪に赤い目で、いや実際そうなのかもしれないと、はっきりと印象に残っているから見間違いや思い違いなどでは決してない。それが今はなぜか、右目は緑に、左目は青に変わっている。
「ああ。カラコンだよ。僕コスプレイヤーだから。色々持ってるし気分で変えてるんだ」
会長はやや間を空けてから応えた。手首のブレスレットに触れながら。
――会長は、狂餐会は、僕が想定していた以上に、狂っているのかもしれない。