凶刃
どうする。どう答えればいい。ナイフを持ち出したという事は、何か地雷でも踏めばそれを行使するという算段には違いない。
「答えて。嘘はつけませんよ。この状態なら」
助手さんはナイフをゆらゆらと上下に振る。
「僕は…嬢の事…好きです。恋愛感情ではないけれど…見守りたい。そう思ってる」
「…それじゃあ、困るんですよ」
助手さんの目つきが、一層険しくなる。わからない。この人がなにをしたいのか。何が目的なのか。
「旦那様…モルモット隊、知ってますよね?」
「え…知ってます…けど」
助手さんは机に腰掛け、突然話題を変えた。
「この街で行方不明者は多数出ますが…その内いくつかはモルモット隊の人間です。都合良いんですよ、あの実験体たち。お嬢様の実験に付き合えって誘えば簡単についてくるんです」
「じゃあ…その行方不明者って…もしかして助手さんが…」
助手さんはくつくつと笑いを零した。
「…ねえ?良い子にならないなら、モルモットと同じように、使い捨てても良いんですよ?旦那様も」
傾けられたナイフがギラリと光を反射したその時、ガチャリとドアノブを撚る音がした。内側から鍵をかけられているようで、勿論そのドアが素直に開く事はないが、次に聞き慣れた声が聞こえた。
「ねえ助手、いる?」
「…お嬢様」
助手さんは僕に声を出されないようにか、すぐさま僕の口元を押さえる。けれどこの機会を逃してはいけない。そう判断して、僕は勢いをつけて体を傾け、思い切り椅子ごと倒れる。痛みは走るが、気にしている場合でもない。助手さんの手から逃れられた隙に、すかさず声を上げる。
「嬢!助けて…!」
「旦那…?そこにいるの…?」
僕の声はしっかり嬢に届いたようで、動揺が混ざったような嬢の反応が返ってきた。
「…余計なことを…」
助手さんは僕を睨みつけるように見下ろす。
「助手…あんた今、何してんのよ…開けなさい」
「…立て込んでいるので…無理です」
「立て込むようなことしてるの?…そう。邪魔したわね」
「えっ…ちが…それは違いますお嬢様…!」
助手さんは慌てた様子で自らドアを解錠して開ける。ドアの向こうにいた嬢は一瞬驚いた表情を見せてから、すぐに僕の方へ駆け寄って来てくれた。
「見て、見てください私、ただ旦那様を拘束してただけで…!」
「旦那、大丈夫?」
「うん…ありがとう」
助手さんは腕を開いて嬢に向かい弁明しているが、嬢は気にもとめず僕の体を起こして縄を解く。
「どいて」
自由になった僕と嬢が助手さんの横を通ろうと対峙して、嬢はそんな風に冷たく吐き捨てる。助手さんの目は見開かれ、ナイフを持っていない方の拳を胸元で握りしめた。
「どうしてっ!どうして私よりその人を…!私の方が…私の方が!お嬢様の事好きなのに!」
助手さんは涙目でそう叫んだ。
「だから私…!私、お嬢様とずっと一緒に研究したくて、クローンも不老不死も、私にとっては簡単な事だから…ずっと、お嬢様の研究が失敗するように細工してたのに…!」
「私の事が好きでも嫌いでも構わないけど、私情を挟んで研究の進行をわざと遅らせてたなんて見下げた根性ね。軽蔑するわ」
「…っ」
助手さんは何も言い返さない。嬢は軽蔑と言葉にしたものの、その表情に怒りは見て取れず、哀愁に近いものだと感じる。
「…言ってくれれば…言ってくれてたら私、あなたの事もっと特別に思ってたかもしれない」
「お嬢様…」
「…でも、あなたの方が私と距離取ってたじゃない。お嬢様だなんだって腫れ物扱うみたいで…」
「ちがう…私、そんなつもり…お嬢様は大事な…」
「大事な、なに?研究体?珍しい体質だものね。あなたの親族が仕切るこの研究所の、大事な研究体。その特別な人間ってだけで、好きだのなんだのの感情を混同してるんじゃないの?」
「あ…私…ちがう…違うんです…」
嬢の言葉を浴び、激しい動揺で蹌踉めく助手さんの隙を見計らって、その横をすり抜けようとした。しかしそう簡単には事が運ばず、助手さんはハッとして勢いよくこちらに振りかぶってきた。
「取らないでよ!私のお嬢様なのに!貴方なんか!お嬢様の事何も知らないくせに!」
狙いがぶれていたのか、その刃が切りつけたのは僕ではなく嬢の左腕。瞬く間に赤い飛沫が飛び散る。
「嬢!大丈夫!?」
「平気よ…けど、なんか力出ないわ…目の前がぼやけてる」
「それヤバイよ…!」
傷の痛みはなくとも血を大量に失えば貧血にもなるだろう。嬢は崩れ落ちるように座り込んでしまった。
「お嬢様…お嬢様お嬢様お嬢様」
「助手さん…!落ち着いてください!」
助手さんの目は泳ぎ息も荒く、どう見ても正常な思考はできていない。
「あは…しんどそうなお嬢様もかわいい…いっつも強がりで…痛みなんて感じないお嬢様が…こんなに…」
助手さんはナイフを持った腕を力なく下げたまま、こちらへと歩み寄って来る。
「本当は殺しちゃっても良いんですけど…あなたを殺すときっとお嬢様の精神が不安定になるから…最初は穏便に、あなたがお嬢様に近づかないように矯正するつもりだったんですよ」
僕を見下ろしそう語る助手さんと、しっかりと目が合う。今度こそは確実に僕を切る、という意思を示している。瞳孔が開いているが、恍惚さも湛える、名状しがたい表情をしている。もしこれを、一言で言い表すならば『狂人』の他にない。
「ああ…でも、悲壮にくれるお嬢様もいいかも!やっぱり計画変更。あなたは死んで下さい」
助手さんがナイフを振り下ろす。その一刀を既の所で躱せたが、それだけでおさまるはずもない。助手さんはまた僕を見据える。
「玲…!やめて…!」
助手さんには嬢の制止の声も届いていない。再び刃が振り下ろされようという瞬間、黒い影が助手さんの方へ向かい、助手さんの動きが止まった。
「モブ…さん…?」
助手さんの背後にはモブさんがピタリと寄り添っていた。
「助手…お前に恨みはないが…」
助手さんの体が力無くずるりと崩れていく。
「子供を守るのが親の役目だからな」
助手さんは完全に床に突っ伏した。背には刃物の柄が刺さっている。その柄を中心に、白衣がじわりと赤く染まっていく。
「またな、夜也」
「え…」
モブさんはそう言いながら僕を一瞥し、研究室を出て行った。どうして、モブさんが助手さんを刺すのか。子供だの親だのの発言の意図は何なのか。どうして、モブさんが僕の名前を呼ぶのか。血の匂いの中で、思考が上手くまとまらない。
「助手!助手…!じょ……っ、…玲香…行かないで…」
唖然としていた僕は、嬢の声でハッとした。視線を下げると、嬢は助手さんを抱きしめている。助手さんの体は僅かにも動かず、腕はだらりと床についたまま。
「…嬢…」
「…ごめん…少し…玲香と二人だけにして…」
嬢に声をかけても、嬢が僕を見ることはない。僕は救急車を呼んだあと、モブさんを追おうかと、そのまま研究室を出るつもりだったが、ふと奥の部屋の扉が目に止まる。ドアノブにはぐるぐる巻きにされたチェーンと南京錠。机の上に置かれている鍵がそれに対応するのだろうと察して、それを手に取った。




