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一般向けのエッセイ

「キム・ギドク」の映画から物語芸術を考える

[キム・ギドク映画ネタバレあり]


 キム・ギドクの映画を見ている。キム・ギドクは韓国の映画監督で、相当な偏屈な人だが国際的には評価されている。


 最初に触れておかなければならない事が一つある。キム・ギドクは報道を見ると、過去に共演した女優・スタッフからセクハラ・パワハラ・性的暴行で訴えられているらしい。ネットニュースを見ても、事件の経緯ははっきりとはわからないのだが、とりあえずキム・ギドクはそういう状況にある。


 で、自分はキム・ギドクの作品それ自体は高く評価するが、それとキム・ギドク自身がセクハラ・パワハラをしたという件は切り離して考えたい……わけだが、この問題は非常に面倒なものがある。自分は作品評価と本人評価は基本的に切り離すべきだと今まで考えてきたが、仮に暴行を受けたスタッフが「キム・ギドクは世界的巨匠だからひどい事をされてもそれをはねのけられなかった」と言うのであれば、こちらでは単に作品評価をしているつもりでも、知らぬ所でそういう悪に加担している事になる。


 これは考え過ぎかもしれないが、自分は作品を評価する事によってそこまで加担したくはない。作品が良ければアーティストは何をしてもいいというものではない。だが、同時にアーティストがクズであれば、作品も全部焼却していいかというとそれも違うだろう。自分はキム・ギドクの映画それ自体は評価するが、もしキム・ギドクが本当にそういう事をしていたなら、そこまで肯定するつもりはない。この件が完全に真実であると明らかになって、キム・ギドクが二度と映画を撮れなくなっても仕方ないと自分は考えるが、同時にこれほど才能のある監督が映画を撮れなくなった事に悲しみも覚える。とりあえず、自分としてはそういう分裂があるので、それを最初に言っておく必要があった。これから作品評価に移りたい。



                ※※※


 キム・ギドクの代表作として一番に上がるのは「悪い男」ではないかと思う。自分はまだ何作か見ただけだが、確かに「悪い男」に現れるある種の感情、切ない、辛い、悲しいと共にポジティブなものも含んだ「愛」は、他ではやや薄められているのかなという気もする。


 あらすじだけ書くと「なにそれ?」と思われてしまうのがキム・ギドクなのだが、「悪い男」はヤクザの男が女子大生に惚れて、女を風俗に売り飛ばし、そこで働かせ、客と行為している様を部屋のマジックミラー越しにじっと見るという異様に屈折した愛情がメインとなっている。


 作品の途中くらいから女子大生の気持ちも移り変わってきて(最初はヤクザの男を殺したいと思っていた)、最終的にはこの男を愛するようになる。…こうして書くと「何それ? ふざけんな!」と思われるだろう。特に女性からはより「ふざけんな!」と思われるだろうし、そうなのだが、実際映画を見ると妙に納得させられる変な映画である。それは男だからそう思っているんだろう、という人は実際に見てみたら、印象が変わるかもしれない。


 キム・ギドクの重要だと思う点について考えていきたい。キム・ギドクの映画には、性と暴力が常につきまとい、とにかく残虐な暴力描写と、動物的な性描写が繰り返される。痛みと、動物的な性衝動が男にも女にも与えられている。韓国のフェミニストからギドクは批判されたそうで、まあ批判されて当然だろうが、ただ、それはそういう世界観というか、男が女を虐げるというより、男も女も動物的に自己の衝動に忠実に生きている。それが大抵は作品の序盤で展開されるのだが、動物な性と暴力が、次第に痛みや苦しみを呼び、その挙げ句に大抵は死に至る。大体はバッドエンドなのだが、珍しく「悪い男」はバッドエンドではない。


 ギドクは性描写や暴力描写の「えげつなさ」が話題になるが、根底にあるテーマはキリスト教的である。キリスト教というのは、まず原罪というものがあって、人間が悪を為し、それが苦悩や葛藤を通じて浄化されていく、そういう過程というのが包含されていると思う。自分がギドクを評価するのは、性や暴力がただ性、ただ暴力として、つまりはよくある、「こういうのが芸術っぽいでしょ」「こういうのが文学でしょ」などというものを越えているポイントにある。文学的という事が性や暴力の過激描写だと勘違いした「芸術家」がただそれを過激に描き、それに対する意味付けを怠っているのはよく見る。キム・ギドクは、動物的な暴力や性というのを、そこから発生する痛み、苦しみに転化させていき、人生により高いものがあると示そうとする。


 最も、これはあまりにもそうした動物性にはまりこみすぎていないか、と思われないでもない。キム・ギドクの作品のスタートラインは低い段階から始まって、苦しみと痛みで浄化されていく。「嘆きのピエタ」はそのわかりやすい例であるが、何故、人が動物性に塗れるのかというのが説明される事はない。人は動物的衝動を抱えている。平気で殺したり、犯したりする。そのような生き物であるが、それが、罪の自覚と共に破滅への道を辿る事になる。


 今はこう書いたが、キム・ギドクの作品においてこの過程はそこまで立体的に捉えられているわけではない。むしろ、それがそれこそ動物的、感覚的に捉えられていると言った方が良いだろう。


 もうひとつ、ギドクの作品で特徴的なのが、重要なキャラクターはみな社会から疎外された人間だという事だ。「弓」という作品は、女の子を誘拐してきて自分好みにして、女の子が十七になったら結婚しようと思っているジジイ(正にジジイ)と、女の子との「純愛」作品である。こうやって書くと「何言ってんだ?」となるだろうが、あらすじだけ書くとどうしてもそうなる。


 「弓」という作品はとんでもストーリーなのだが、見ている内に、ヒロインが女の子なのか、ジジイなのかわからなくなってくる。最初は女の子が被害者なのだが、段々、女が小悪魔になってきてジジイが「キイー」みたいな感じで嫉妬して(あれ、ジジイがヒロインなのかな…)みたいな転倒が起こる。女の方が精神的に有利になってきて、どっちが被害者でどっちが加害者なのかわからなくなってくる。変な作品だ。


 で、ここで三角関係が発生するのだが、女の子は、そこにやってきた男子大学生と恋に落ちる。この男子大学生は僕らが思う「普通の男子大学生」で、まっとうな人間である。大学生はジジイに「さらわれた女の子の親の気持ちを考えた事があるのか? 船の上でずっと暮らす少女の気持ちを考えた事があるのか?」と説教する。まっとうな説教だ。


 普通のストーリーなら、大学生とさらわれた女の子が恋に落ちるという話になるはずだ。年の差もそこまでないし、異常な関係でもなし、大学生は女の子を再び元の場所に返そうとしているので、こちらが真っ当な関係である。だがキム・ギドクの世界観では、この大学生は真っ当故に、どうでもいい人である。大切なのは、社会から疎外されて生きているジジイと、強制的に疎外された女の子の関わりだ。


 これは「悪い男」でもそうで、ヤクザの女と、それによってひどい運命にあった女との恋愛が重要な関係として描かれる。ここにも普通のメガネをかけた大学生(女の彼氏)が出るのだが、それはどうでもいいキャラクターとなっている。疎外された男女の、一対一の狂気のような恋愛がギドクの得意のテーマとなっている。


 「魚と寝る女」もそうだが、キム・ギドクは、基本的に男女を一対一として描く。吉本隆明風に言えば「対幻想」なのだが、一対一ではドラマにならないので、それをかき乱す第三のキャラクターを入れる。表面的には三角関係になるのだが、この三角関係の三つ目の要素はあまり強くない。さっき言った大学生なんかは結局蚊帳の外という感じだ。この点は、例えば夏目漱石と比べた時、より漱石の方が三角関係らしい三角関係を描いていると言える。三角関係ではなく一対一が主眼になると、立体的なドラマというより、二人の情念の在り方が問題になってくる。なんと言えばいいか難しいが、相手と自分だけの世界観であると、立体的な「個人」は浮かび上がってこない。選択肢はあるようで、現実的にはないので、二人の内部的な情念や動物的な性や暴力のみがメインとなってくる。


 この点に関してはキム・ギドク作品全体に見られる。「魚と寝る女」では、主人公は女で、これが罪を犯して逃げてきた男を好きになる。この女の男を愛する愛し方も気が狂っていて、暴力的で、しかし女性らしくもあるし、頭がおかしいとも言えるし、魅力的とも言えるし、なんというか存在感のあるキャラクターになっている。冷静に考えると「お前らおかしいだろ!」って感じなのだが、見終わると、そこに確かな存在感を感じる、そういう映画ではある。


 それで、もっと根本的な事を考えてみたいのだが、そもそもキム・ギドクは何故疎外された人間、また、我々が隠しておきたい性や暴力を主題にするのだろうか。また、何故それが、芸術的に高い価値となるのか(自分はそう判断する)。ここには芸術の逆説性が潜んでいるように思われる。


 今の純文学作家の、日常まったり系と、本人は安穏とした場所にいるが、表面的に露悪的に見せたり神経を逆撫でさせるのを目的とした、単なる刺激としての暴力、死、性といったものに自分はほとんど興味を感じない。だが、これは僕自身がこの社会で疎外されている事と関連性がある、と簡単に言える。ただ、もっと突っ込んで考えてみるべきであって、そもそも我々が自明としているような市民社会の安定性、適法性の中にいるがゆえに、集団的価値観と自己が合致する為に、ついに死の瞬間にまで己を意識しない生き方、それは果たして良い生き方なのだろうか。


 しかしこう言ったからといってその逆の「悪」が直ちに価値あるとも言えない。自分は犯罪者の書いたものをいくつか読んだのだが、そこでは、言ってみれば常識人が自分を疑わないのと同様、自分の欲動について疑わない犯罪者の姿が浮かんだにすぎなかった。(どちらにも例外はあるが例外については後述する)


 常識人は自分の欲望が適法性の範囲内にあるのに安堵している。「異常」な人は、欲望が適法性の範囲外にあるのだが、それについて反省しない場合、彼はただ結果として犯罪者となった人でしかない。彼は自分について反省しない。考えない。考えない点では両者は同じだが、片方が集団常識からはみ出て、片方がその中に収まっているという区別はある。


 最も人は、集団的に狂気を発する必要を感じて、そのような構造や戦争のようなものを成立させる生物だ。一番恐ろしいのは、自分達を正常と決めた人々が、正常なままに、合法的に犯罪を為す場合であると思う。この時、集団的常識は、いかなる犯罪をも自分達に許す事になる。個人の異常性よりも、自分を普通と定義した人々の為す異常性の方が、歴史的に考えてみても遥かに恐ろしいものに見える。


 もっと根本的に考えよう。適法性の範囲内にいる個人は自分の欲望については正当化されていると信じている。彼らは「異常者」を排除する。だが、彼らの虚偽は、異常者はそもそも自分達とは根底から違った人間だと独断する事にある。異常者に対する真っ当な市民の排除には恐ろしいものがあるが、そこで自分にもまた異常性の芽があるとは考えてみない。


 「異常者」が自らを異常と認識する時、それが自己反省へのきっかけとなる事はありうるだろう。疎外された人間は疎外する側よりも賢くなりうる。なぜなら、共同体から追い出されてようやく彼は共同体の存在と自己の存在について気づかざるを得なくなり、こうして彼は不承不承、通常の人よりも「賢い」存在となる。僕は歴史的にはこの「賢い人」というのが、大きな役割を果たしてきたように思われる。


 もちろん、異常者がただの異常者でありうる場合は多々ある。そちらの方が多いだろう。その場合、彼が異常であるのは、正常者が正常であるのと、それほど異なったものがあるのではない。片方はたまたま恵まれており、片方はたまたま恵まれなかった。両者は、自分が何故恵まれているのかとは考えず、同じように、自分は何故恵まれていないのだろうかとは考えない。


 キム・ギドクは大抵、世界から疎外された人間を主人公にする。「弓」にしても「悪い男」にしても、ジジイと少女、ヤクザと売られた女子大生との恋愛は、通常には考えられないものである。ここにおいて、一体何が現れているのだろう。「愛」というものの確かさ、その力強さだろうか。疎外された関係においても、愛が貫きうるのだという信念のようなものだろうか。


 自分は答えはむしろ逆だと考えていて、普通の我々は、現象に対して帳を掛けて見えなくしている。「金持ち喧嘩せず」という言葉があるが逆に言えば、金持ちも貧しくなれば喧嘩すると言える。人の本性は、金や礼節によって優雅に装飾されるがそれによって隠蔽されるものもある。自分は上品な家庭にお邪魔すると(そんな機会はあまりないが)、彼らに真実を突きつけたい気持ちになる。しかし、彼らは真実から遠く離れる事によって優雅さを獲得したのであって、したがって、僕がそのような言動を始めると彼らは実に丁寧な、美しい動作で僕を彼らの世界から追放するだろう。


 キム・ギドクの作品内において、主要なキャラクターはさしたる根拠もなく、動物的な、本能的な行為を始め(性と暴力)、それが為に罪を感じ、罰を受けるはめになる。この時、ギドクの認識において、人間はそもそも動物的なものであるという考えがある。人は突発的に、犯したり殺したりする生物である。


 この根底にあるのは、人間の本能とか欲望、ショーペンハウアーの言う「意志」であろう。この意志に対して、ある意志は良いもの、ある意志は悪いもの、という風に分別可能である、欲望がある方向に行けばそれは「良い」のだという風に展開したのが現代の資本主義社会であると思われる。つまり、欲望が「生産性」を産めばいいとか、人々の利得になるようになればいいとかいう発想だ。自分はこれらの考えにほとほとうんざりした。仏教においては、我欲がどこにでもある事を認め、それを鎮めるという見方をするが、そちらの方が本質的だと感じている。


 現代人と話していると、世俗的欲望を「夢を叶える」とか「恋した」とか言っている状態に出会うが、そういうものは現代のエンタメ作品全体が、我欲をいい加減に、甘い砂糖漬けの味付けでごまかしているのと全く同じであると思う。


 存在するのは何をおいても自己保存の本能であったり、性欲であったり、金銭欲であったり、その一番の根っこにあるのは単純な、心臓が動いているとか脳細胞が活動しているとかいうような状態である。この状態から発する様々な行為を我々は色付けし、ある集団にとっては「正しく」、別の集団にとっては「間違っている」とか、それは犯罪であるとか、正義であるとか、価値があるとかないとか言うわけだが、基本的にあるのは我々の存在そのものが発するある種のエネルギーだ。これはもちろん、極めてショーペンハウアー的な思考だ。


 世間的常識や一般エンタメ作品はこれらの欲を部分的に正当化したり、その欲(願望)が叶えられる状態を仮定的に実現する。我々は我々を見る事を欲せず、代わりに大きなスクリーンを置いて、そこに自分達の欲望が叶った状態を見ようとする。これが幻想であるが、この幻想から排除された別の幻想は「異常」と呼ばれたりする。


 キム・ギドクの作品では疎外された人間が出てきて、彼らは本能のままに「悪」に類する行為を働く。そうして、その悪によって、何らかの咎を受け、それぞれに世界の底に沈んでいく。「悪い男」は珍しくバッドエンドではないが、彼らカップルは非常に奇妙なカップルとなる。それは普通の良い人生とはぜんぜん違うが、とにかくそういう人生、そういう生き物であるようなものとして現れる。


 自分は物語作品(小説・映画・漫画等)は、人間を描く、とくに人間の「業」や、人間存在そのものを描いていく方向に舵を取らなければ芸術にはならないと感じている。その際、人間存在を描くという方式は、普通の意味での善悪の境界を越えていく。つまりは優れた文学や映画はどうあれこうあれ「善悪の彼岸」に至るものであり、バタイユの言うところの「超道徳イペルモラル」である。


 エンタメ作品というのは善悪の彼岸には至らず、我々にとって安堵できる法則をかき乱さない。それは我々は正常な人間であるという考えであり、我々は悪ではなく善であるという考えであり、恋愛であればそれは成就するとか、そもそも恋愛そのものは「素晴らしい」とか、家族愛は良いとか、そういうものである。そういう概念による色分けが機能していると想定する所に、我々の存在理解の落とし所があって、これを否定すれば色々なところから叩かれるか無視される。


 しかし、現実は川の流れのように全てを越えて進んでいく。孔子が川のほとりで言った言葉、「逝くものはかくのごときか。昼夜をかず」は、人間は概念によって「昼」や「夜」という風に色分けするが、「川=自然」はそんな事お構いなしに流れていくのだという、そういう見事な認識であると思う。芸術家が認識すべきは「昼」や「夜」のような概念による色分けではなく、「川」という一つの統一的な存在である。ここに犯罪者も正常者も一つの人間であると見る見方が成立するだろう。


 キム・ギドクの映画から離れてしまったが、ギドクの映画はそんな風に、人間の業を見つめる目がある。キム・ギドクという人は、「昼」や「夜」ではなく、それらを貫いて流れる「川」を見ようとしたのだと思う。「悪い男」「サマリア」「春夏秋冬そして春」「弓」などの作品は、普通ではない(なくなった)人々を映しながら何かを伝えようとしている作品である。こういう作品は非常に良いものだが、その根底には人間というものが抱える本質を見つめる目があると思う。そうしてこの目に到達するには、どうしても一般的な、我々が我々に与えている教義規則を破る必要があるだろう。

 

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― 新着の感想 ―
[一言] 間違えちゃった、45度のお辞儀は普通だ。 90度ですよ。←余計エグイわ
2018/12/14 21:08 退会済み
管理
[一言] キム・ギドクさん、軍隊経験のある韓国人の監督ですね。17歳から働くなど、いわゆるモラトリアム期間が無かったみたい。 うーん。女優に対して、ベッドシーンを求めたなど・・・韓国映画のベッドシーン…
2018/12/14 19:51 退会済み
管理
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