後編 わたしはケモナー
認めよう。わたしは、彼を愛している。
このまま、父と離れて、お城で暮らしてもいいと思えるほどに、どうしようもなく、彼を愛している。
だけれど……。
「ああ、愛しい人。わたしも、あなたを愛している。この世の他の誰よりも、ずっと、あなたを愛している」
怪しげな光に包まれ、長髪の美青年に変身した彼の姿を見て、わたしの愛は、一気に冷めてしまった。それどころか、急激に吐き気をもよおした。
「い、いやぁああ……!」
思わず、顔を背ける。彼が近づいてくる。異様な寒気がした。
「どうしたんだ? わたしの愛を手に入れて、震えるほど嬉しいというのか? ああ……愛しい人、わたしも同じだ。きみが、わたしと同じ気持ちでいてくれたことが、泣きそうなほど嬉しいよ」
泣きそうなのは、わたしだ。そんなじっとりと濡れた目でわたしを見ないで。今すぐにその手を離して。どこか、わたしの視界に入らないところへ行ってしまってちょうだい。
「何を怖がっている? わたしは、もう、みにくく、おそろしい『野獣』ではない。怖がる必要はないんだよ」
美青年は、わたしをきつく抱き締めて、ささやくように言う。野獣はもういない、怖がる必要はないと。
みにくく、おそろしい『野獣』ですって? とんでもない。
わたしは、全身を覆う毛に包まれた、立派なツノと牙を持つ彼のことを、「みにくい」とか、「おそろしい」と思ったことは一度もない。
だって、わたしは……。
わたしは、『ケモノ』を愛し、『ケモノ』にすべてを捧げた女――そう、正真正銘の『ケモナー』なのだから。
* * * * *
思えば、初めて会ったときもそうだった。
日が暮れても帰って来ない父を心配して、森へ探しに行ったあの日。
森の奥深くの人気のないお城の中で、物影から突然現れた彼のことを、わたしは今も鮮明に覚えている。
全身を覆う長い毛。肩幅の広い、がっしりした体格。頭に生えた立派なツノ。その大きな口から、にゅうっと伸びた鋭い牙。獲物を狙うスナイパーのような眼差しと、一度捕らえたら放さないというような、鋭くとがった爪。
それは、まるで――。
「野獣よ! 野獣だわ!」
そう、彼こそ、まさしく野獣。
男らしく、野性的で、とびっきりかっこいい、わたしの理想の相手。
――変?
そうよね。村の人たちも、みなそう言ってるわ。「あいつは変わり者」だって。
でも構わない。それがなんだというの。いくら『変わり者』と呼ばれても、わたしは、へっちゃらよ。
それに今は、わたしが夢にまで見た、理想的な彼に出会えたから……。
ところが、初めて会った野獣は、もう、手が付けられないほどに怒っていた。
原因は、父がわたしのためにと折った一輪のバラである。
たかがバラくらい……と思うが、野獣にとって、バラという花は、かなり特別な意味を持つものらしい。その花を、父が折った。大切なバラを、何のひとこともなく、勝手に持ち出そうとした。それで、頭に来て父を――。
野獣は、父をお城の地下牢に閉じ込めた。そして、あとを追ってやってきた娘のわたしも、同じように閉じ込めた。
「ひどいわ。なんて横暴なの……」
確かに、父も悪かったと思う。でも、この仕打ちは、やりすぎだ。彼だって、少しくらいは、こちらの言い分を聞いてくれたっていいはずなのに。
暗い地下牢で一晩中過ごしながら、ふと思う。見た目の美しさだけでは補えないものもあるものだ、と。
野獣の外見が、わたしの理想そのものである、ということを除けば、彼の印象は最悪だった。がさつで下品で、自分勝手で、しかも暴力的。気に入らないことがあれば、すぐ地下牢に閉じ込める。歯向かう者には、もちろん容赦しない。なんて嫌な男だろう、と思った。
わたしは、もちろん反抗した。
こんなところに閉じ込められるようなことをした覚えはない、今すぐにここから出せ、と。場合によっては、子どもたちの前では聞かせられないようなひどいセリフも言ったりした。
それでも、野獣は、わたしと父を解放しなかった。
決して健康的とは言えない、暗い地下牢暮らしの中で、年老いた父は日に日に弱っていった。
ボロボロの硬いベッドは腰や肩にも負担がかかり、暖炉も風よけもない部屋は、毎晩冷たい風が吹き込んで寒かった。申し訳程度に出される食事すら、次第に父は拒むようになった。
「お願い、父だけでも家に帰して。このままでは、いずれ父は死んでしまうわ……」
それは、もう、歯向かうというよりは、魂を込めた『お願い』に近かった。それくらい、父は、わたしにとって大切な存在だった。父を助けるためならば、どんな方法でも取るつもりでいた。
「これが、あなたの大切なバラを、勝手に持ち出そうとしたことへの罰だと言うのなら、わたしが代わりにこの罰を受けましょう。父には、この罰は重すぎる。それに、罰を受けるなら、わたしひとりで十分のはずよ。さあ、父を家に帰してちょうだい」
野獣は少し悩んだあとで、父を家に帰してくれた。
そればかりか、わたしのことも、地下牢から出して、広い部屋に移してくれた。あとで聞いた話によると、このお城で一番上等な部屋だそうである。
これは、わたしの努力が実を結んだということか。それとも、あまりにひどいありさまのわたしたちを見て、さすがに可哀想と思ったのか……。
いずれにしても、こうして、わたしと父が暗い地下牢を出られたのは良いことだ。離れ離れにはなってしまったけれど、父には、お隣に住むご夫婦も、向かいの家のおばあさんもついている。パン屋さんも本屋さんも、みんな、父の味方なのだから。
野獣が変わった――と思い始めたのは、この頃からだ。
わずかではあるけれど、わたしの言葉にも耳を傾けてくれるようになったし、わたしやわたしの父への気遣いを見せてくれることもあった。
あるときには、わたしのためにと、料理を作ってくれたりもした。(すごくまずかったけど)
天気のいい日には、わたしの部屋にやってきて、「庭を散歩しよう」と誘ってくれたりもした。(自分の庭だというのに、彼が一度も散歩したことがないと言ったときは、さすがにビックリした)
わたしが読書好きなのを知って、世界中から本を取り寄せ、お城の中に、わたしのための書庫を作ってくれたこともあった。(なんてサプライズ!)
野獣のお城で暮らし始め、触れ合う時間が長くなるたびに、わたしは、日に増して彼を好きになっていく自分に気付いた。
わたしは、彼を愛している。
このまま、父と離れて、お城で暮らしてもいいと思えるほどに、どうしようもなく、彼を愛している。
でも、それならば、父にもちゃんと伝えておかなければならない。そのためには、まず野獣の許可を取らなくては。
忘れたように話しているけれど、わたしは、一応『囚われの身』なのだから。
その日、夕食を終えてから、わたしは彼に聞いてみた。
しばらく、父のもとへ帰ってもいいだろうか、と。
「父の様子が心配なの。しばらく、お城を離れていても構わないでしょう? もう長いこと会っていないのよ」
突然の申し出に、野獣は、明らかに動揺したようだった。
「なんだって? 城を出たい? まさか、本気で言っているのか?」
「もちろん本気よ。父は、わたしのたったひとりの家族なの。会えなくなって、今も寂しいわ。元気でいるのかどうか、それすらも分からないのは……正直、とても辛いわ」
わたしは今まで、父とふたりだけで暮らしてきた。母は、わたしの幼いときに亡くなった。わたしは、たったひとりの娘で、父は、わたしにとってのすべてだった。こんなに長いこと離れているのは、今まで生きてきた中で初めてのことだった。
「……わかった。お父上に、会いに行ってやれ」
しばしの沈黙のあとで、野獣がそう言った。わたしを見る瞳の奥が、悲しそうな色をしていた。
――彼と離れたくない。
本能的に、そう感じた。だけど、父のことも心配だった。そうだ、父の元気な様子さえ分かれば……。
「父の無事を確認したら、すぐに戻ってきます。それまで、お元気で……」
次にお城に来るときは、きっと、二度と家に帰ることはないだろう。
そして、わたしは永遠に、この野獣と暮らすのだ。
誰よりも愛しい、わたしの野獣と。
そう、思っていたのに……。
* * * * *
今、ハンサムな青年の姿に変わった彼を見て、わたしは、猛烈な吐き気と強烈な嫌悪感を抱いている。
――こんなの、わたしの愛した彼じゃない。
あの野獣が恋しい。
全身を覆う長い毛と、立派なツノ、鋭い牙。あの鋭い爪を持つ大きな手のひらで、ガッチリと捕らえられたい。そして、立派な胸毛の生えた、あの分厚い胸板にぎゅっと抱き締められたら。
それが今はどうだ、人畜無害そうな顔をして。
ツノもなければ、鋭い牙もない。爪は綺麗に整えられて、手のひらなんて、女の子みたいに小さくて。スラッとした脚は長く、背も高いけれど、そのわりに、どこかヒョロッとした印象だ。胸板は薄いし、きっと……胸毛だって生えていないだろう。
「近寄らないで!」
わたしは結局、野獣のすばらしい見た目に惹かれていただけなのだ。
愛していたのは見た目だけ。あとは、すべて錯覚だった。恋しいと思う気持ちも、ふとしたトキメキも、なにもかも、わたしの理想が生み出した幻だったのだ。
わたしは、王子に別れを告げ、たった今戻ってきたばかりのお城をあとにした。
ああ、野獣が恋しい。
いつか、こんなわたしにも、本当に愛し合えるひとが見つかるのだろうか?
今は『ケモノ』しか愛せない、『変わり者』のこのわたしに。
「真実の愛」と言いながら、結局想いがすれちがっているふたり……
随分と呪いのルールのゆるい世界になってしまいました。ちょ、女神さま仕事してください!